会員のひろば
会員の紹介
2024/06/21 | 【紹介】 RUEED(59期 窪塚亮介) |
2024/06/21 | |
【紹介】 RUEED(59期 窪塚亮介) | |
2024/02/14 | 【紹介】 32期 出石 稔さん |
2024/02/14 | |
【紹介】 32期 出石 稔さん | |
2024/01/29 | 【紹介】 41期 朝野真奈さん |
2024/01/29 | |
【紹介】 41期 朝野真奈さん | |
2023/12/21 | 【紹介】 49期 石橋 匡光さん |
2023/12/21 | |
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2023/09/23 | 【紹介】 24期 志摩 尚平さん |
2023/09/23 | |
【紹介】 24期 志摩 尚平さん | |
2023/09/18 | 【紹介】 46期 上條恵衣子さん |
2023/09/18 | |
【紹介】 46期 上條恵衣子さん | |
2023/09/18 | 【紹介】 三笑亭小夢(41期 三ツ橋良紀さん) |
2023/09/18 | |
【紹介】 三笑亭小夢(41期 三ツ橋良紀さん) | |
2023/07/29 | 【紹介】46期 伊東妙子さん |
2023/07/29 | |
【紹介】46期 伊東妙子さん | |
2023/07/25 | 【紹介】 18期 宮本まき子さん |
2023/07/25 | |
【紹介】 18期 宮本まき子さん | |
2023/06/27 | 【紹介】 9期 細野恂さん |
2023/06/27 | |
【紹介】 9期 細野恂さん | |
会員のイベント
2024/06/29 | 【報告】 6/22,23 横須賀高校文化祭に参加 |
2024/06/29 | |
【報告】 6/22,23 横須賀高校文化祭に参加 | |
2024/06/21 | 【案内】 YOKOSUKA REGGAE BASH 2024 |
2024/06/21 | |
【案内】 YOKOSUKA REGGAE BASH 2024 | |
2024/06/06 | 【案内】 Quinコンサート |
2024/06/06 | |
【案内】 Quinコンサート | |
バックナンバー
■会報「朋友」 ※会報「朋友」ページはこちら
■ようこそ同窓生(旧ホームページ掲載)
旧ホームページに掲載されていた記事です。
※記事は掲載当時の情報です。 ※リンクが切れている場合がございます。ご了承ください。
名前をクリックすると下に記事が表示されます。
[001] 鈴木 英人 さん(高20期) | ||
(取材日:2001年4月27日) | ||
日本のイラストレーション界を代表する人気作家。 現在、各社の華麗なイラストでご活躍中です。 |
||
EIZIN SUZUKI |
プロフィール |
1948年 | 福岡県福岡市生まれ 現在逗子市在住 | |||
1968年 | 神奈川県立横須賀高校卒(高20期) | |||
デザイナー、アートディレクターを経て、 | ||||
1980年 | イラストレータとして独立 | |||
1985年 | EAST ALBUMのタイトルで30作品を発表以来、個展の開催 多数回、各企業のコマーシャル、商品のパッケージ、本の表紙等、私達が良く目にする活躍を続行 | |||
地元では | |
1987年 | 横須賀市/海と緑の一万メートルプロムナード壁画 | |||
1990年 |
相模湾アーバンリゾートフェスティバル KAMAKURA BEACH IN SUMMER
|
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1994年 | 湘南国際村モニュメント | |||
横高生のころ | |
高2年 現代美術に埋没をしていった。某先生も一緒に前衛映画を楽しむ。 文化祭で、自作のアンダーグランドシネマを上映、横須賀の美術家の間で「横高に変なヤツがいる」と評判をとる。授業は代返。出席日数が足りなくなり、クラス担任の佐々木先生にナグラレタ日も。佐々木先生には、レスリング部に入れられて、練習相手をさせられる。6組、7組は悪いヤツ等の集まりで修学旅行も、女生徒と一緒にならないように、1日遅れの出発となる。高3年 家出。 不入斗のお宅の離れ(倉庫?)を借りて、仕事を始める。アルバイトは、看板屋の看板画き、スナックのメニュー画き。相変わらず出席日数が足りず、本間先生に「もう1年いろ」といわれる。美術部では、油絵を否定。あの前衛画を画く清水先生さえ「メチャクチャなことをやるな」とびっくり。 勉学と仕事を続けながら、芸大を受験。失敗! それから、20歳になった頃には、鎌倉・横須賀を肩で風を切って、絵を画いていた。ダダイズム、前衛、ポップアート等を模索するのには、良い時代を迎えていた。でも、それでは食べていけない!看板屋にはなりたくない! |
||
EIZINさんの大好きな作品 | |
島の友人 / MY LITTLE FRIEND アメリカ・マサチューセッツ州コッド岬の沖にある小さな島ナンタケットを初めて訪れてから、もう10年にもなろうか。随分と時間が経過している。その分よく行ったとも言える。ナンタケットを訪れると、必ず朝夕に行くのが、このハーバーだ。昔のクジラ小屋が、スーベニアショップやレストランになっていて、いつ来ても楽しめる。 |
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《サクセスストーリー》 |
イラストレーターへの道のり | |
電通の仕事が縁で、薦められるままに独立、デザイン会社を設立(26歳)。
電通から夜も眠れないような仕事の注文が入り、経済的には恵まれるが、絵の好きな自分のサクセスを夢みて、「どうしたら良いか」進路を模索(29歳)。 電通の経験から、ニーズに対しての論理は把握している、絵が好きで絵を画いているだけではサクセスはあり得ない、「あの豊富な電通の資料を利用しよう」。完全なオリジナルを目指して、調査・分析を開始。 既成の物を取捨選択しながら、単純で表情の無い線を色で埋める、モチーフはアメリカ...大好きな、気持ちの良い、透明な、明るく、軽いアメリカ。オリジナリティのある作品完成。 作品が本に掲載され世に出た日から、注文が殺到。休む暇もない日が続く。プロダクションは、イラストレータの事務所になって行った。名誉な仕事を受けても予定が詰まっていては仕事が出来ない、手分けをして、且つオリジナリティのある作品を完成させる方法を、またも調査・分析して発見(30歳)。 ある日、気がつくとアナログの材料がなくなっていた。(パントンカラー製造中止に!) システムだけが、コンピューターの中に、カラーチャートとして残っていた。ガクガクと足が震えた。自分で出来ない物が、世の中に出てくる。それを自分でやる......そうしなければ、明日はない! 表現とは、何だったのか? 原点に戻ろう。コンピューターを完全にマスターしよう!(50歳) スーパー表現方法も超える表現が、コンピューターが出来ることを発見。 表現領域が、人間の知覚と結びついて、無限に広がる思いにワクワクする。現在、サザンやB'zの仕事、世界の大手自動車メーカーからの、アフターマーケットから入る新しい手法の仕事を受けている。至福の時です。 |
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独り言 | |
やりたいことをして、自分をアピールすることをしなければいけないね。ただ、待つだけでは、ダメだね。アプローチは自分で作らなくては!
自分の芸術的センスに光を当ててみて、どのようにするかを考えて見ました。余りある才能を持った人とは違うことを自分で知り、一番難しいのは自分であることを知りました。 版画に、アートの経済性を考えています。若い人達が、自分達の思い出のある絵の中に、見る音楽のような気分で入ってもらえると嬉しいですね。癒しに繋がるのではないかと思う部分もありますね。 |
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《在校生・同窓生へのメッセージ》 |
あきらめないこと。 |
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《 PRESENTS FROM EIZIN 》 |
鈴木さんからの最新作をご覧下さい。 |
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作品をご覧になりたい方は、EIZIN SUZUKI AMUSEUM RESORT ZUSHI (逗子市新宿3-1-7 TEL:046-871-8661)へ |
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[002] 三和 義彦 さん(高7期) | ||
(取材日:2001年12月) | ||
病魔に冒され3年遅れの卒業も見事に克服 横高校歌 作詞者は今・・・・・・通商外交の専門家 お目にかかる前は文学者のような風格を想像していたが、活発でエネルギッシュ、澱みのない語り口。 |
プロフィール | |||
|
故中川校長の作詩を抑え 20歳の在校生が 20才の高校生でどうしてあのような格調高い作詞が出来たのですか? |
昭和28年、高2の夏休み前だったと思う。中川校長から新しい校歌を作るので歌詞を募集するという発表が講堂であり、職員室の前の廊下に応募の箱が置かれた。
肺結核で3年間の闘病生活を送った後の開放感からか、「やってみようかな」と思った。1人で当時は鬱蒼とした木立があった記恩が丘に行ったら、梢の上の青空に白雲が流れていた。帰宅後、薄暮の風呂場で湯船に浸りながら、湯気で曇った窓ガラスにその青空を思い出して書いてみた。 最初の3行はすぐ出来てしまった。「心澄む青空はきわみなき我等のおもい 流れ行く白雲に全て身の努力(つとめ)を誓い 記恩が丘に我等来たれり」。これが原詩の最初の3行だったと思う。後は覚えていませんが、正直な話、そんな苦労をしたという思いはなかった。 格調が高いのは、中川校長のお考えで、『伝統ある横高の校歌だから、当代一の詩人である三好達治先生に補作をお願いしよう』ということになったからです。私も新聞記者として物書きの1人にはなりました。しかし、戦後の現代文を中心とした国語教育を受けた我々には、三好さんのように、ああした立派な文語体の文章はとても書けません。 |
||
そんな簡単に?と言っても普通の人が考えると、とても出来そうもないが... |
||
実は歌が好きで、将来は歌手かデザイナーにでもなろうかと、思っていたのが中学時代です。横中に入学して最初に入ったのが美術部です。逗子小に入る前も幼稚園には行かず、近所の逗子教会で、讃美歌をすぐに覚えて歌っては、先生に褒められて得意になっていたほどですから。横高でも音楽は何時も優等生。というわけで、カラオケは今でも決してきらいではない。 それから、父親が読書家で、家にいるときはよく本を買っては読んでくれたので、読書は大好きでした。特に歴史物と文学が大好きで、父の書斎の歴史物を手当たり次第に読んでいました。このためか、歴史と国語の成績は、小・中・高と通じてあまり勉強しないわりにはよかった。とにかく、歌と文学が大好きだったので、「歌詞」というものは、"ゴロ"と"リズム"がよくないといけないことは、子供ながらに感じていました。作詞が、1週間ぐらいで比較的簡単にできたのは、こんなところに原因があったのかもしれません。 |
||
第1席に選ばれた三和さんの校歌原詩 (「創立80周年記念誌」より) | ||
横須賀高校校歌はここをクリックして下さい | ||
応募校歌は沢山あったのですか? |
||
あまり多くはなかったと思います。はっきり覚えていませんが、応募者は10人いなかったぐらいだったのではないか。多分、秋の2学期だったと思いますが、結果が発表されたときには、私と2席に入られた中川校長の詞が2つ、職員室前の廊下の壁に張り出されました。 中川校長は東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業されてからは、英語の先生として、その人生のほとんどを横中、横高に捧げられたと聞いています。その集大成として、校歌を横高に残したいと思われたのではないでしょうか。先生の作詞は私のとは違って、文語体の格調の高いものだったのを覚えています。 校歌の最終選考は、職員会議での先生方の投票で決まったと記憶しています。その投票結果を職員室から出てきた体操の本間先生が『おめでとう。君のが校歌に決まったよ』と耳打ちしてくださった時には、やっぱり嬉しかった。 |
||
ご褒美はあったのですか? |
||
頂いたような、そうでなかったようなー。はっきり覚えていません。それよりもひとつ覚えているのは、毎日新聞が、校歌のことを記事にしてくれたことです。復学してから、美術部と一緒に入っていた英語部で一緒だった荻原(小野)君のお父さんが、当時、毎日新聞の横須賀通信部長でした。荻原君がお父さんにこの歌詞の話をしたところ、「それは記事になる。記者に取材させるか」と、話されたのを荻原君から教えてもらいました。毎日の記者さんが逗子の自宅まで取材に来てくれたのは、それから1週間ほど後の夜。数日後、毎日の神奈川版に"病魔を克服した生徒が校歌を作詞"という記事が顔写真と一緒に掲載されました。 逗子で近所に住んでいた、石原慎太郎氏に親しくしてもらえるようになったのは、この記事がきっかけです。当時、石原氏は、慎太郎刈りがよく似合う一橋大学の学生。学業の傍ら作家活動にも力を入れ、私の校歌当選の2年ぐらい後には芥川賞も受賞した、超有名な学生作家でした。戦争中の小学校時代に、逗子から葉山に行く、海岸通りに面した家に引っ越してきてからは、桜山トンネル周辺に家があった隣部落の我々とは、逗子小への通学路が毎朝一緒でした。当然、顔見知りではありました。が、話はした事がありません。その石原さんに街で出会って声をかけられたのは、やはり、毎日の記事が出てからのことでした。「三和君、横高の校歌を作詞したんだって、おめでとう」。その後の話がいかにも石原さんらしい。「三和君、君も一橋にこないか」。「えー」。「君、知っているだろう。俺も作品をどんどん一橋文芸に書こうと思っているのだけれども、人も金もなかなか集まらないんだよ。金の方は、この間、"チャタレー夫人の恋人"を訳した一橋の先輩の伊籐整さんから、いくらか出してもらう事になったんだけれど、とにかく書く人がいない。君も一橋に来て、詩でも小説でもどんどん書けばいいじゃないか」。 このユニークな説得と、3年の担任だった英語の大塚先生のアドバイスが、一橋受験の決心をしたきっかけになったことは間違いありません |
||
卒業4期のはずが結核の発病で3年遅れる | ||
卒業は3年遅れだそうですね |
||
そう、高1の3学期の期末試験の頃から、体が動けない程だるくなった。高2の1学期、6月頃だったか、中央保健所でレントゲン検査を受けたら、診断は粟粒結核。すぐに休学。丁度朝鮮戦争が始まった直後でした。特効薬のストレプトマイシンがなかったら、死んでいたともいわれています。医者が自然治癒を薦めてくれ、3年間、寝て治したのがよかった。順調に卒業していれば、現在の遠藤朋友会会長や服部湘南信用金庫理事長と一緒の4期卒。 | ||
病気回復・復学時はどうでしたか? |
||
20歳になっていた昭和28年4月から、ようやく高2に復学しました。が、3年以上復学できないと除籍になるという学校の事情もありました。このため、まだかなりしんどい体で、休み休みの登校となったわけです。登校してから数日後だったと思います。中川校長から校長室に呼ばれました。「よく頑張って元気になったね。私も嬉しいよ」と、中川校長。ところが、その後がいけない。「君は、もう20歳だから選挙権もある大人だ。だけど、ここは高校だからね、酒や煙草は校内では厳禁だよ。君は真面目な生徒だから私の言うことを分ってくれるね」と、いうことだった。 冗談じゃない、酒や煙草どころか、電車に乗って通学するだけでも疲れるし、まだ、時々は喀血しているのに、と思いましたが、黙って「はい」とだけ答えたのを覚えています。 こんな"大人の生徒"だったので、先生方にも気苦労はおありになったのでしょう。 丁度3年休学したので、4期の仲間はみんな卒業し、復学したときには、休学したときのクラス担任の先生方が、また2年のクラス担任になっていました。しかし、「三和をどのクラスに編入するか」という事では、私のことをよくご存知だった先生方も鳩首協議だったご様子。「男女組には入れない方がよい」事だけが決まった後、どの先生からも、「私のクラスに」という声が出なかったそうです。1人だけ、中学、高1,2を通じて、私を教えたこともクラス担任をしたこともなかった英語の大塚先生が、「それほどの"問題児"なら面白いと思って私のクラス(4組)に引き取った」と、いう事です。この話は、卒業式が終わり、教室で大塚先生が生徒1人1人に卒業証書を渡された後、最後の話の中でされたのでよく覚えています。 |
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インタビューの様子 (左が三和氏、右は取材者のHP委員 渡部圭介(高6期)) |
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校舎は貧しくても、日本の再建を教育でという先生方の意気は軒昂だった | ||
三和さんの横高時代はどんな様子でしたか? |
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我々4期の生徒は、終戦の翌年昭和21年に旧制で最後の横中に入学した。勿論生徒は男子だけ。1クラスが50人程度、6組の編成でした。当時の学区制では、逗子から南の三浦半島で、男子の県立中学の指定校が横中だった。翌22年には制度変更で、現在の6・3・3制になり、中学までが義務教育になった。この制度変更のため、というか、お陰というか、我々は、中学3年までは横高併設中学の生徒として在籍。高校には、中3の期末試験の成績判定だけで自動的に進学できる、という話でした。これがよかった。現在の中学生のように高校入試のことは考えず、好きな学科をのんびり勉強したり、課外のクラブ活動にたっぷり集中できたのです。 こうした変則的な学制で中学時代を過ごしたので、高1までの4年間は下級生が皆無。高2になって初めて、新制中学から男女共学でやってきた後輩たちが1年に入学してきた。このときには、「女が入ってきたぞ」と大騒ぎをしたことを覚えています。私の場合は、病気で3年間休学したので前後9年間在学し、高2に復学してから初めて、男女共学を体験したわけです。 終戦直後の木造1,2階建ての校舎はボロボロ。教室では、窓ガラスが割れているところも多く、新聞紙やボール紙を、窓枠に貼り付けたこともありました。冬の教室に石炭ストーブが入ったのは中1の3学期のことだったのか。あるいは、中2の冬になってからではなかったか。とにかく、寒い教室でオーバーを着たまま、がたがた震えていたのを覚えています。アフガニスタンの子供たちが厳冬の最中、ガラスが破れ暖房がない教室で、一生懸命、勉強している状況がテレビの画面で見られます。我々にも同じように寒い冬があったなぁと、しみじみ思うばかりです。 現在、記恩ヶ丘の碑が立っている高台のすぐ下の辺りに、天井が高くて壁が白い画廊と、図書室が建てられたのは、確か、中2になってから。当時としては、きわめて立派な画廊が出来たためか、美術部の先輩や同級生、後輩には、先年、芸術院会員になった島田君(高5期)や、高2の時に、プロの画壇、大潮会にいきなり特選で入選した岡本君(高5期)など、立派な"画家"たちが大勢いました。三浦市の市長を16年間務められた久野君は、私が復学したときの美術部の部長というか、まとめ役でした。 とにかく学校を取り巻く社会環境が劣悪な中で、先生方の「教育で日本を再建しよう」という、意欲だけは身に染みて分りました。当時の占領軍の最高司令官だったマッカーサー元帥の話だったか、「日本は東洋のスイスのような平和国家になるべきだ」という話が、新聞やラジオで盛んに取り上げられました。ところが、社会科の乾先生は、「スイスには国民皆兵という世界でも最強の部類に入る軍隊があるんだよ」と、スイスの政治制度を授業で講義され、我々生徒は、軍事制度に支えられた永世中立主義の実情を、初めて知りました。 小泉首相のクラス担任でもあった物理の小川先生、やはり物理の小島先生、その他、当時の軍隊から帰ってきた若手の先生方は、それぞれ自分の蔵書の中から中学、高校生向きの本を学校に持ってきて、生徒に貸してくれました。図書館にも、まだ満足に図書がなかった時代でした。勉強好きの生徒たちは、先生方からの本を借りてむさぼるように読んだものです。 |
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青春時代の挫折は人生の挫折とはならない あせらずにコツコツと努力するのが大切...!! |
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横高生徒にメッセ-ジをぜひ! |
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若いときの挫折は取り戻せるものです。失敗したときには、過剰反応して、すぐにでも挽回しようと焦ってはだめ!とにかく生きていれば何とかなる! ひとつのことが駄目になっても、"まだまだやる事は沢山あるんだ"と考えて、あせらず、じっくり新しい生活のリズムを作るのが大切。ところがこれが難しい。"周囲の人が先に進んでいるのに、自分は遅れてしまった"、という絶望感と疎外感からはなかなか抜けだせないものです。 私の場合は、何よりも先生方からの激励とご支援、それから、一足先に大学に進学し、受験勉強の"コツ"を丁寧に教えてくれたクラスメートたちの友情に支えられ、何とか生きていた時もありました。日本ばかりでなく世界中で多数の人からお世話になりました。こうした教訓から、「人生には、先生と友人ほど大切なものはない」と、今でも思っています。 |
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大病からの回復には健康な人には分からない努力がある! お話の中に幾つかの大切なものがちりばめられていた!! |
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健康を害された三和さんの健康法は? |
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1. | 病気になったと思ったら、出来るだけ早く"よい"医者にかかることですね | ||
2. | 睡眠時間の確保。要するに早寝でも昼寝でも、疲れたと思ったら沢山寝る事が大切。私は大学受験のときにも、医者から毎晩10時には寝るようにいわれました。そこで早く寝る代わりに、朝5時か6時に起きて勉強する習慣をなんとか身に付けたのが、社会人になってから役に立った。 | ||
3. | 酒を飲み過ぎないこと。最近は若い人があまり深酒しなくなったのはよい事ですね。 | ||
4. | 食べ物には気を付けています。年をとると、食べ過ぎないことも大切。腹八分目ですね。 | ||
5. | 忙しかった後は、ゆっくり休息すること。英国で1年半生活しているうちに、英国人が週末には自宅でゆっくりリラックスしているのを見て、「これだ」と思いました。私も英国でゴルフを覚え、ハーバード時代にも、週末には少しゴルフをやりました。だが、日本ではやめました。これがよかったと、今でも思っています。日本のゴルフは高すぎる。週末の休日の朝6時頃から家を出て、1,2時間かけて車や電車でゴルフ場に通う。これでは休息にならない。子供の顔を見てお説教したり、勉強を教えてやることも出来ない。自分の勉強も出来ません。日本のサラリーマンが、高度成長に飲み込まれて勉強しなくなった原因のひとつには、ゴルフと麻雀があったと思いますね。 | ||
6. |
住宅環境と通勤時間。都庁の記者クラブ詰めのときに、初めて家を買うことになり、都の建設局で、住宅問題を調べている担当者に相談をした。その人が、親身になって相談にのってくれたのがよかった。「三和さん、あなたは結核の既往症があるから、まず、よい空気が吸えること。それから通勤時間は1時間以内がよい。なんといっても体が疲れないから。もう一つ、新鮮で安い野菜と魚が食べられることも大切。この3条件を満たすのは千葉県の船橋です。都心までは電車で30分もかからないし」と、当時、公募していた団地の名前まで、教えてくれたのには感謝しています。 |
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食事のことでは? |
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大学の授業や国際関係の仕事の関係で、色々な英語の辞書を引きながら英文を読む事が多いので、視力の維持には最も注意しています。この点については、ブルーベリーのジャムと胡麻のバターを何年か続けて毎朝食べていますが、かなり効果があるようです。 肺結核の闘病生活に入ったときに、医者から「逗子に住んでいるのなら、イワシとアジとサバ、それに納豆を食べていれば栄養は十分ですよ」といわれました。以来、我が家ではこれらの4品目を食べるのが半ば習慣になっています。ところが最近では、これらの食品がマスコミでも健康食品として、盛んに取り上げられています。「やっぱり俺は間違っていなかった」と心密かに自慢している次第です。 |
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海外ではいろいろな学校で勉強されたようですが? |
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たしかに学校の数だけは多いので、皆さんに、各校の授業内容と入学の方法をご紹介します。 日本でも、国立にある一橋大学と三鷹の国際キリスト教大学(ICU)とは、先生と学生の交換をしていました。単位にはなりませんでしたが、この計画のお陰で、ICUには3年間、毎週1回火曜日の夜に通い、英米両国から派遣されてきたブルーワー、モーア両教授から、プレイ・リーデイング(play reading)で英文の早読みの訓練を受けました。これが後年、大変役に立ちました。ICUの英語教育はよかったし、今でもよいと思います。 |
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ハーバード大学の校庭(面積約800エーカー)の北端にあるハーバード・ロー・スクールのパウンド・ビル。 この4階に東アジア法律問題研究所(EALS)がある。 写真は1974年8月、帰国の前日に家族全員で記念撮影。 |
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産経からロンドンに派遣された時は、大事件でも起きて本社からの指令がなければ、仕事はしなくてもよい。どこの国でも、自分で学校を選んで勉強していろ、というのが2年間の勤務条件。この留学生制度は、若干変更されましたが現在でもあります。将来、会社の制度で留学したいと思う生徒さんは、産経へどうぞ。因みに、産経の売り物の記事、「産経抄」を30年も書いている日本のマスコミ界の名文家で菊池寛賞を受賞された、石井英夫論説委員は、横高3期卒業の大先輩です 英国では、最初、ロンドン大学のLSEに半年間、聴講生として入学。その一方で、語学、発音、作文などに特色がある語学校3校で英語の勉強をした。英国の後、スペインのバルセロナで4ヶ月間、昼間はスペイン語、夜はドイツ語の語学校で会話の勉強。この後は、ドイツのケルンにあるドイツ語の会話学校にも、2ヶ月間通った。欧州各国では、外国人留学生の実力に応じて、その国の国語を教えてくれる語学校の諸制度が充実している。留学を希望する生徒さんは、各国大使館の文化部に相談するのがよい。 トムソン・ファウンデーション国際ジャーナリスト講座(カーディフ)への入学が決まったのは、1967年の4月。この講座の期間は7月まで3ヵ月半余りだった。が、英米両国人の講師による、講義と実務実習は内容が濃い。日本では余り知られていない講座だが、欧米各国のマスコミの間では有名。現在も存続している。 この講座(カーデイフ)については、日本のジャーナリストの皆さんも、3年間の実務経験があれば、基本的な受験資格はある。条件次第では奨学資金も給付されることもある。詳細はE-mail: enquiries@thomfound.co.ukで。 ハーバード国際問題研究所(CFIA)は、学内でも最大規模の研究所。ここの上級研究員(Fellow=博士待遇)は、毎年、世界各国から多くとも15,6人しか、採用されず、各国の外交官を中心とした政府機関の職員が多い。希望者は、まず、社会人として実務の専門家になり、その後、米英両国など、英語圏の教育研究機関で1,2年しっかり勉強してから、有力な推薦状を添えて応募するのがよい。 横高の卒業生では、私のほかにも、平成3年、EC大使在勤中に亡くなった西山健彦氏(高3期)と、通産省出身でクエイト大使を務められ、現在、ソニーの顧問をされている愛甲次郎氏(高3期)のお二人が、CFIAの"卒業生"。その他では、最近、よくテレビに登場している竹中平蔵経済財政担当相、NHKの手嶋龍一ワシントン支局長もOBである。詳細については、 http://www.wcfia.harvard.edu/ でどうぞ。 |
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自宅書斎のような、三和氏のハーバード・ロー・スクールの研究室。 |
ハーバード大学国際問題研究所(CFIA)に、日本の民間人としては初めてのフェローとして招待された。 |
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三和氏の親友、横高7期、昨年まで三浦市市長を務められた久野隆作氏に伺った | ||
三和氏とは今も親交が厚いと聞きましたが... |
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本来は大先輩ですが、卒業年度は同じ7期のため、今でも色々お世話になっています。彼とは横高時代、部活(美術部)や生徒会活動を通じて親友になりました。在校時に、新しい校歌を作詞するほどの才能の持ち主だったことは、皆様、ご存知の通りですが・・・・。 本人のプロフィールに紹介されている経歴にあるように、国際的視野に富む博識と人脈。語学力が抜群で、面白くてすごい人物です。国際法の原点である海の法律、海洋法のエキスパートである。マスコミには取り上げられない人でも、すごい人はいっぱいいますが、その典型の一人ですね。そう思いますよ! 私が三浦市の市長だった関係で、マグロ漁業の国際的トラブルについて、相談にのってもらった事があります。その時も、単に一般論で「こういう事があるよ」ではなく、真剣に実情に即して問題を分析し、解決策の具体的な提示、国際人脈を生かしたネゴシエーションまで、徹底的に面倒を見てくれました。とにかく素晴らしい行動派です。私もどれだけ助けられたか。そしてそのことで、他市の市長にもどれだけ鼻が高かったか・・・。 昨年、東京へ呼んでくれてご馳走になったときは、ニューヨーク・テロ事件が発生した直後でした。あの事件の裏表のいろいろな話を聞けて、ものすごく驚きました。単なるマスコミ報道しか知らない自分にとっては全くの眼から鱗が・・・でしたね。 |
||
久野隆作氏(高7期) | ||
幸子夫人のご評価は? | ||
うちの人は仕事が趣味で、暇さえあれば何か資料を集めたり、読んだり、ワープロを打ったり。とにかくボーッとしていることがないのだから。もう少し、ゆっくりしてくれるといいんですけど。性分だから直りませんね。でも、カラオケだけは付き合ってくれるから、余り文句はいえません。 |
[003] 冨田 憲子 さん(高48期) | ||
(取材日:2002年6月14日) | ||
ハイテンションと生活感の両立した | |
不思議なアナウンサー | 冨田憲子さん (高48期) |
...ニッポン放送「高嶋ひでたけの お早よう!中年探偵団」担当... |
プロフィール
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横高時代の思い出は? | |
横高時代は、バスケット部に所属していました。当時は、1年上の先輩達が強かったですね。夏合宿の時、まだセミナーハウスが出来ていなかったので、教室に机を並べてその上に布団を敷いて寝ました。とても蒸し暑く寝苦しかったのですが、今では懐かしい思い出です。 一番の思い出は、校内球技大会(サッカー・バレー・卓球)で総合優勝したことです。どの種目も決して強いチームではなかったのですが、クラス全員が一つの目標に向かい一致団結して、皆の心が一つになるということのすばらしさを味わいました。私はサッカー・バレー・卓球の全てに出場しました。 在学中は、勉強していたことよりも運動をしたり(特に卓球)、体育祭・文化祭などでクラス全員がまとまって活動していたという記憶が強く残っています。このことが球技大会での総合優勝につながったのでしょうね。 当時は、よく7人の仲間で行動していました。自習時間(2時間も続けば)になると、衣笠IC近くの「ガスト」までお茶をしに行きました。7人の内1人が自転車に乗れず、6人が交代で乗せて行ったのですが、行きは上り坂で汗だくになったことを覚えています。 もう一つは、1年間の遅刻が確か65回という記録をつくったことです。もうちょっと早く家を出ればいいのですがのんびりやなのといいわけですが、担任の先生が出席を取るのがすごく早かったのです。始業時間が近づいても、他のクラスの人達はユックリと歩いているのに、私達のクラスだけは、「ハアハアー」言いながら教室へ走って行きました。でも、自分の名前を呼ばれた後で教室へ入ると遅刻扱いでした。出席を取っている間ならば遅刻にはならないのが普通だと思うのですが? まあ、今となっては、これも懐かしい思い出です。 今、高校の統廃合が進んでいますが、母校がずっと存続しているというのは、大変嬉しく幸せなことですね。自分の今までを振り返ってみると、あの横高時代が一番楽しくて、充実した時期だったのではないかと思えます。 |
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文化祭にて(中央) |
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<高校時代> |
アナウンサーの志望動機は? ─教育学部の出身なのに─ | |
大学の同期の人達はほとんどが教師になりました。私も教師になるつもりで、教員免許も小・中・高と全て取得しました。教育実習は実家近くの高坂小学校で経験しました。
ある時、父の知人の息子さんがCSのアナウンサーとして活躍しているその姿を見て楽しそうだったのが、アナウンサーの志望動機です。人と話すことが楽しくて、おしゃべりだったのも動機の一つだと思います。 きれいな言葉がしゃべれるよう、あがり症なので人前でうまくしゃべれるよう在学中に日テレ・アナウンスカレッジに通いました。 高校・大学時代は理系科目が好きで、理系総合職の就職も考えましたが、ニッポン放送への就職が内定したので、アナウンサーの道を歩むことになりました。 |
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「中年探偵団」の担当はいつから どんな理由で? | |
今年の1月からです。2年9カ月間担当していた前任者の方が、体調をくずされて続けられなくなったので、急遽交替となったわけです。
今でもちょつと理解しがたいのですが、本来ならば「今度、何々の番組の担当」との内示があるはずなのに正式な話は一度もなく、何となく担当になってしまいました。局内で後任者を選考している時に、周囲の人達から「近々『中探』の担当になるらしいよ」との噂話がチラホラ。私自身は何も聞いていないので「ウソでしょう」くらいにしか思っていなかったら、CMの録音をするからスタジオに来てほしいとのこと。スタジオに行くとそこに高嶋さんがいるではありませんか。その場では「まだ正式な話はないのですが、もしかすると『中探』の担当になるかも知れませんので、宜しくお願いします」と挨拶しました。そして正式な発令がないまま、1週間後に高嶋さんと組んで放送することになったのです。 面白いというか不思議というか、「中探」の担当ディレクター桜井達也(高39期)も横高→上智へ。一つの番組で同じ高校出身者が3名関わっています。 |
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「中年探偵団」の横高トリオ 右 高嶋秀武 高13期 中 桜井達也 高39期 左 冨田憲子 高48期 |
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放送中の失敗談は? | |
いっぱいあります。
放送が早朝なので、舌がよく回らないときがあって、よくつっかえたりします。また人名や地名の読み方は変わった読み方があって難しいですね。 番組の中で音楽を流すことが多いのですが、アーティスト・曲名を紹介する際、「EPO(エポ)の"ウフッフッフ"」を「イー・ピーオーのウフフフフ」と紹介したことがあります。それから、「高嶋ひでたけのはみだし見聞録」を「はめだし見聞録」と紹介してしまったりと、失敗談には事欠きません。 |
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一日の過ごし方は? ─3時起床・4時出社・9時就寝─ | |
放送開始が6時なので出社するのは4時。現在は品川に住んでいますが、午前3時には起きます。3時30分に迎えの車が来て、お台場の会社へ出社。まず新聞各紙に目を通して、その日の話題などをチエック。5時50分にスタジオに入り、放送開始に備えます。その後、8時30分の放送終了迄はスタジオに缶詰状態です。 番組終了後はたいていスタッフと一緒に食事を取ります。その後戻ってメール等のチェツクをし、「憲子の日記」の更新をします。 午後は原則としてフリーな時間となりますが、ニッポン放送はイベントが多くて、それらの司会をすることも結構あります。何もない時は、映画を見るなどして番組の中の話題を探して過ごします。たまに、横高時代の友達との食事を楽しむこともありますが、時間がなかなか合わないことが多いですね。就寝は夜9時ごろ。これが私の平均的な一日です。 今一番困っていることは、飲み会・カラオケなどで、これから佳境に入るという時間に席を立たなければならないことです。たまには羽目を外すこともありますが無茶は出来ません。TVと違い顔が映らないので、夜更かしをしても肌の荒れなどは判りませんが、声は誤魔化すことは出来ないので、その点は充分注意しています。 この仕事は体力勝負です。バスケットで体を鍛えたことが今役立っています。これまで、「中探」を担当したスタッフは、通常と生活リズムが違うので、耳鳴りに悩まされる人が多かったようですが、私は全くありません。それから、体重が減ると聞いていてちょつと期待していたのですが、全く変わりありません。むしろ太ったくらいです。 生放送ですので、体調維持に気をつけて生活をしているつもりですが、一人暮らしのため食事が偏り勝ちですので、週末に実家へ帰り母の手料理を食べるとホットします。 |
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高嶋さんてどんな人? | |
コメンテーターの方との打ち合わせも、当日の朝です。朝の少ない時間で、全ての新聞に目を通して、どんなに難しいニュースも分かりやすくお聴きの方に伝えられる、その素晴らしさに毎朝感動しています。
また、交友関係も非常に幅広く、こんな方ともお付き合いがあるのかとびつくりすることがたびたびです。そういうところから豊富な話題を蓄えていらっしゃるのでしょうね。 また、どんな小さなことにもでも興味を示すという好奇心の旺盛さ、ほんの小さな事をとっても面白い話題に仕立て上げてしまう、その話術には感嘆するばかりです。 |
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ニッポン放送「高嶋ひでたけの お早よう!中年探偵団」もよろしくね!! 「憲子の日記」読んでくださいね! |
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現在の番組の取り組み、将来の夢は? | |
「中探」の放送時間は2時間30分ですが、私と高嶋さんとの間では事前の打ち合わせは一切ないので緊張の連続です。放送中は高嶋さんとのやり取りで番組の雰囲気を壊さないよう気をつけています。
午後のフリーな時間は、話題集めに当てています。今の旬の話題は何かと、常にアンテナを張っています。そのためには、展覧会やコンサートなども実際に見たり聞いたりしておかなければいけませんね。 |
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横高生に望むことは? | |
横高生は個性豊かな人が多いと思います。その個性を伸ばした先輩達が各分野で活躍されています。
私も高校時代、たくさん勉強したとはいえませんが、数学が好きだったので、数学の勉強にあてる時間が多かったように記憶しています。 この職業についてからは、当たり前ですが国語力の必要性を痛感しています。高校時代にもっと本や新聞を読んでおけば良かったと少し後悔しています。番組の中でお便りを読んだり、コメンテーターの方とお話をする時に、国語力(漢字・熟語や様々な言い回し・論旨は何か)の大切さを実感します。 それから、つい最近、信濃屋書店に行って横高で使用している日本史の教科書を買ってきました。高校時代は、数学や理科の勉強ばっかりで、社会科の勉強はあまりしなかったのですが、いろいろな問題を考えていく際に、過去の歴史的事実や背景についての知識が必要だと思うことが多々あるので、ぽつぽつ勉強を始めました。 今の横高生の皆さんには、様々な勉強や部活動や学校行事に一生懸命に取り組んで、それぞれの個性を大いに伸ばし、卒業後に各分野で大いに活躍されることを期待しています。 |
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「高嶋秀武さんからの応援メッセージ」
ニッポン放送に横高出身の女子アナが入ったと聞いていたが、縁があって今年の一月から一緒に仕事をするようになった。 当初は私も大変戸惑った。話題が全くかみ合わないのだ。なにしろ番組を聴いている人達にとって説明の必要がない事柄でも冨田くんは全然知らなかったりする。まるで家庭内で父親が娘に対して感じる世代の断絶のようで本当に困った。まあ、冨田君は自分の娘より若い世代なので「中年探偵団」という中・高年世代をメインの聴取者にする番組では最初から仕方のないことであったのだが・・・ 冨田君はとにかくよく笑うひとである。誉められて笑い、けなされて笑い、彼女の顔を思い出すとき笑顔しか浮かんでこないほどだ。 周りの人たちに訊くと彼女は大変な努力家であるらしい。いろんな人に意見を求め反省の日々であるという。 考えてみると年頃の彼女にとって早朝の出社を余儀なくされるこの番組は気の毒の極みである。楽しみを抑えて夜は早く帰り翌日に備えなければならない。その上、新人である以上、仕事をしてもあまり誉められるということもない。 横高の卒業生の皆さんが冨田君にとって最大の味方だろうと思う。時には落ち込んでいるであろう彼女をぜひ力づけてやって頂きたい。 |
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<インタビュアー雑感>
とっても明るくて、利発・闊達なお嬢さん(!?)です。さまざまな問題に興味・関心を持ち、そして自ら勉強していこうとする、その好奇心の強さ・積極性がこれからの彼女の成長・飛躍を約束しているかのような印象を持ちました。 インタビューの後、ささやかな食事会を設けましたが、その場での気配り・心遣いも相当なものでした。ニッポン放送のアナを見る目は確かです。 ! ! 小野関 浩(高11期)、西村 和之(高31期) |
[004] 阿部 薫 さん(高4期) | ||
(取材日:2002年12月16日) | ||
がん学界のオーソリティ | |
横浜労災病院長・国立がんセンター名誉総長 | |
阿部 薫 さん(高4期) | |
I.プロフィール | |
1933年(昭和8年) 東京都生まれ。
父が海軍軍医で、横須賀の海軍病院に勤務中に昭和20年の終戦を迎える。 1958年(昭和33年)東京大学医学部を卒業。 同大学院を終了後にアメリカ、テネシ ー州ナッシュビルのバンタービルト大学病院内科に留学、5年間を当地で過ごす。1971年(昭和41年)より国立がんセンターに勤務、がんの診療、研究にあたる。 1992年(平成4年)国立がんセンター東病院長。 1994年(平成6年)国立がんセンター総長。 1999年(平成11年)に退任後、横浜労災病院長となり現在に至る。 (現在横浜労災病院長、国立がんセンター名誉総長) 横須賀の女性と結婚、一男、一女をもうける。 |
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II.横須賀旧制中学、高校時代のこと | |
私たちの時代には、横須賀中学に入学した者はそのまま新制高校に切り替わったため、同じ高校に6年間在籍した。
このホームページにもある同じ学年であった三和義彦さんの文にもあるように、最下級生を4年間務め、一級下に女子生徒が入学して来たので大騒ぎをしたクラスである。 この時代の思い出として、あえてこの2つのことを語らせていただきたい。 |
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(1) 素晴らしかった松本先生 | |
中学校3年のときであろう。松本先生という英語の先生が私たちのクラス主任になられた。背の高い、ひげ面のメガネをかけたお顔を今でもよく覚えている。
厳しい先生であり、私たちのクラスもよく怒られていたが、何かその中に先生独特の温かみが皆に感じられた。 何かマジックにかけられたように、クラスの皆が変わっていった。部屋の中がきちんとし、皆が背を伸ばすようになり、しかもよく勉強するようになった。 松本先生がどんな秘密を持っていられたかは分からないが、私たちは大いに変わったことは事実である。
松本先生がクラス主任として私たちに接したのは、1年にも満たなかったのではないかと思う。しかし、同級生と昔の話をするときに必ず出てくるのは松本先生である。先生は教師として必要なことを全て備えていたように思う。 私たちに接しておられた期間は決して長くはないが、先生の私たちに注がれた情熱は決して今でも消えていないのではないだろうか。 |
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(2)馬鹿げた、しかし楽しかった運動会の応援 | |
高校3年のときではないかと思う。運動会のときに何か面白いことがないかと思い、亡くなった
これを見て、喜んで加わって来て、むしろ熱心になってしまったのは広瀬テント君である。出来は決してよいとは思えなかったが、小野田先生は顔に手をかざして、一体何事だという感じで眺めておられたとのこと。 これ以降、我が高校の運動会は応援の方が楽しくなったと聞いているが、最近はどんな様子かは知らない。楽しい思い出である。 最近の運動会の様子はこちらでご覧いただけます。 |
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III.アメリカでの生活 | |
1964年から1969年までの5年間、アメリカテネシー州・ナッシュビルにあるヴァンダビルト大学内科に留学。人生の中で最も純粋に研究だけをしているという日々を送った。
研究の内容のことはさておいて、アメリカ生活で学んだことは私の人生においては貴重なことばかりであった。 まず、日本という国を外から眺めることができた。そして私は日本という国がますます好きになったのである。 アメリカ生活で学んだことの一つを取り上げれば、イエスとノーの使い方ではないかと思う。Don't you mind ~? と聞かれたとき、Yes と答えればYes, I do mindで日本ではNoの意味になるし、Noと言えばNo, I don't mindでYesということになる。日本の習慣的な返事の仕方とYesとNoとが全く反対になることが否定型の問いの場合には起こることになる。 考えていると返事ができなくなることが決して稀ではない。すると返事をする度に考えることになる。Yesとは答えず、all rightなどと言うことになる。 ところが私にはこんな立派な英語は話せない。従って、YesかNoをはっきり相手に伝えるようになる。この結果は私に言わせればむしろよかったと思っている。 40年も経った今日では、私はアメリカテネシー州、ナッシュビルの多くの友人に恵まれている。それはYesとNoをはっきり言おうと心がけた結果ではないかと思っているのだが。 |
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IV."がん"について | |
アメリカでの研究は主としてがん細胞におけるホルモンの産生という問題であった。
これが縁となり、国立がんセンターに移ってからの診療は、ホルモン依存性のある進行性乳がんの患者さんが主となった。進行性乳がんの患者さんとは、乳がんの切除後に再発したとか、初診時すでに転移があり、手術切除の対象とならなかった方々である。当然のことながら亡くなる方が多く、いろいろな場面に遭遇したが、これらのことは他でいろいろ記しているので割愛させていただく。 ここで皆さんにお伝えしたいのは、日本における"がんの現状"についてである。毎年約30万人の方々ががんで亡くなっている。大ざっぱに言うと、亡くなる方のほぼ3人に1人ががんということになる。これは恐るべき高頻度である。 一方、大まかに言って、がんになった方の2人に1人は助かっているのが実状である。すると、毎年60万人の方ががんになっている勘定になる。これは日本人ががんにかかりやすくなったのではない。がんになる確率の高い老人の数が増えたのが最も大きな原因である。 がんの原因は食物、生活環境、たばこなどの外的因子が70~80%を占めることが明らかにされている。高齢化すると、このような外的因子にさらされる期間も長くなり、がんに罹る可能性も高くなる。
しかし、がんの頻度のパターンはかなり変わり、欧米化している。これは食物、生活様式が欧米化してきていることに由来すると考えられている。 例えば、頻度の減っているがんは胃がん、子宮頸がんである。一方、増えているがんとしては大腸がん、乳がん、肺がん、前立腺がんなどを挙げることができる。この最大の要因は、生活様式、ことに食生活の変化であろう。 現在、日本人のがん死亡数のトップは、男性では肺がんが胃がんにその地位を譲っているが、女性では相変わらず胃がんが1位にある。1位にあるとはいえ、その数は横ばい、あるいはむしろ低下を示しているが、一方において大腸がん、前立腺がん、乳がんなどの増加傾向は著しい。 がんの治療は顕著な進歩を示している。前にも述べたように、現在、大雑把に言って、がんの大体5割は治ると言ってよい状態である。 こうなったのは、手術、薬などの医療の進歩によることは言うまでもないが、特に治癒率を高めたのはがんの早期発見である。その意味で検診は重要であり、殊に胃がん、大腸がん、乳がん、子宮がんなど頻度の高いがんは検診による早期発見が可能な種類のがんであり、各自が自分の健康を守るという観点からも、自から積極的に検診を受けるという態度は重要である。肺がんも最近ではヘリカルCTが検診に導入されつつあり、治り得る時期での発見、すなわち早期発見が大きく期待されている。 しかし、全てのがんが早期に発見されるわけではない。例えば、食道がん、膵がんのように早期発見が現在でも難しいがんもある。がんで亡くなる方が毎年30万人はおられるということから、気付かれずにいつの間にか進行してしまい、治らないがんになってしまうことも決して少なくはないことを示している。この様ながんの患者さんをどうするかは大きな問題である。 治癒の可能性がある患者さんについては、やはり積極的に治療すべきであろう。最近の医療の進歩により、各々のがん患者さんについて、初診時すでに治癒の可能性が大体分かるようになっているのが現状である。 よい治療法がないようながん患者さんの場合、どうしたらよいのであろうか。 まず、がんに苦しめられるということ、すなわち痛み、呼吸困難、食欲不振、嘔吐、下痢などがんに由来するような症状で患者さんが苦しめられることを出来るだけ防いであげることが必要である。殊に痛みは辛いものであるが、モルヒネなどの麻薬の適正な使用により、痛みはまずコントロールできるような状態になっている。このような医療は緩和医療と呼ばれており、世に言われるホスピスをはじめ、一般の病院でも広く行われるようになっている。 確かに治す方法がないというがんも決して稀ではないが、総じて言えば、がんの半数は治る病気であり、糖尿病、アルツハイマー病のように治らない病気ではないということを考えるならば、積極的な予防、ことに二次予防と言われる検診の重要性は、各自によく理解していただくことが必要であろう。 |
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V.同門の友達 | |
高4期の中で、石渡隆夫(マンチ)、枡澤英一、藤井秀男、細井潔、今津正男、相川義治の諸君たちとは今でも仲良くしており、毎年1~2回旅行をしたり、ゴルフをしたりして楽しんでいる。
同じく仲間であった大津清君が数年前の正月に亡くなった。彼がマネージャーとしてグループをまとめていたのであるが、残念なことをした。後は、誰かということもなく、お互いに世話をし合うようになり、今でも切れることはなく続いている。 昔の仲間はよいものだ。会えば数分間で昔に戻り、頭の毛のことも、顔のしわ、あごのたるみのことも忘れて、昔の調子で語り出す。昔の仲間は本当にいいものである。もう一つ、私にはグループがある。高1期伊藤邦男さん(元全国朝日放送株式会社(テレビ朝日)社長)、高2期の小野田正愛さん(元山之内製薬株式会社社長)、高6期和地孝さん(テルモ株式会社社長)と私の4人である。
年に2~3回どこかに集まり、ゴルフをしたり、食事をしたりしている。いろいろ分野が違う4人が集まり、ことに現役を離れた方々の舌鋒は厳しく、現役でないからこそそこまで言えるという感じもないわけでもない。 会えば時間の経つのを忘れて昔に返り、年を忘れて語り合う楽しさが続いている。時に同じ問題を論じあっているのか、またはお互いに熱心に話しているのに違う問題だったりすることもある。これも出身高校の取り持つ縁か。有難いことである。 |
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VI.後輩たちへのメッセージ | |
私が第二次世界大戦の終戦を迎えたのは、小学校の6年生のときであり、父は海軍の軍医であった。父がこの大きな変革のときを乗り切り、5人の男の子を無事に育てることができたのは、医師という手に職があったからという思いが強かったようである。長男である私に、医師になることを強く勧めた。
私はあまり乗り気ではなかったが、特に反対する理由もなかったので、医師になったと言っても過言ではない。ちなみに兄弟で医者になったのは私だけである。教育費の問題もあったのであろうか、弟たちがそれぞれ優秀であり、自らの道を選んだということもあろう。 とにかく、手に職があるということは、このような混乱した時代を生きていくのには非常に強い武器であることは間違いない。私は現在、病院長とともに、横浜労災看護専門学校長も併任しているが、最近では40~50歳で看護師を目指して入学試験を受けに来る方の数がとみに増えているのが現状である。このような事実は、現代のような時代においてはやはり手に職があることが珍重されることを示している。 プロということから考えてみると、手に職を持つことは重要であり、プロだからこそということが必要になってくる。プロとは、その職業をもって自ら、そして家族をも養う能力を持った人である。プロへの道は決して容易ではなく、また国家資格など、そのライセンスを持ったからといって、それで終わりではなく、引き続き生涯学び続けることを要求される職業でもある。 これからの世の中は、組織の中で生きるにせよ、個人で生きるにせよ、自らを支えていくためには何らかのプロとしての腕を持った方がよいと思う。会社に入ったとしても、会社の中だけではない、社会に広く通用するプロとしての仕事を持つことが、これからの社会ではより要求されるようになるのではないだろうか。 プロとは何かということを考えながら、皆さん自分の将来の夢を描いていただけたら幸せだと考えている。 |
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<インタビュー雑感> | |
インタービューは阿部さんと同期で、朋友会・名簿委員長、三澤さんに同道いただき、ワールドカップの決勝戦が行なわれた、横浜国際競技場にほど近い横浜労災病院院長室 で行なった。
訪問するまでは、大病院の院長と云うと普段会う事もなく、どの様な方か、どの様な話をしたら良いのか心配であったのが、本音でした。
原稿・写真のやり取りも、EーMailで行なわれ、我々にとっては大変手のかからない取材であった。 ただ、阿部さんは、米国生活が、長かったこと、現在もお孫さんとは英語でのE-Mailのやり取りのためか、EーMailは英語であった。(原稿は日本語でホットしましたが・・・・・・・) 最後になりましたが、三澤さんには、インタービューの日程調整・写真等の収集にご協力を頂き、大変有り難うございました。 |
[005] 小柴 昌俊 さん(中32期) | ||
(取材日:2003年1月31日) | ||
プロフィール | |
1926年 愛知県豊橋市生まれ 1939年 横須賀市立諏訪小学校卒 1944年 神奈川県立横須賀中学校卒 1951年 東京大学理学部卒業 1955年 ロチェスター大学大学院修了 1970年 東京大学理学部教授 1982年 東海大学理学部教授 現在 東京大学名誉教授、 (東京都杉並区在住) |
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受賞歴 | |
燦然と輝くノーベル賞・金メダル |
1985年 ドイツ連邦共和国大功労十字章 (日独文化交流) 1987年 仁科記念賞 (マゼラン雲の超新星爆発の際、 放出された素粒子ニュートリノの検出) 1988年 朝日賞、 文化功労賞 1989年 日本学士院賞 (大マゼラン雲超新星からの ニュートリノの検出) 1997年 藤原賞(第38回)、 文化勲章 2002年 ノーベル物理学賞 |
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~インタビューまでのエピソード~ | |
夕方になってノーベル賞受賞との大ニュースが飛び込んで来て、納得しました。 やはりインタビューどころではありませんでした。
結局、近くから電話でお祝いの挨拶をして改めてと言うことになりました。 それからの小柴さんは、連日大忙しの日程で、文字通り身体の休まる暇もないご様子で、やっとお時間を戴けたのが、2003年1月31日でした。 小柴さんのいらっしゃる素粒子物理国際センター前の庭にはノーベル賞受賞の記念碑が設置されており、受賞内容が写真入で解説がされてあった。 小柴さんのお部屋には、実験用の簡単な装置があり、今も何か研究されておられるご様子でした。<「秘密です!」と内容は教えていただけませんでしたが...> また、昨年の流行語大賞「ダブル受賞」の盾など各種の賞のトロフィーや盾が飾られ、その中で愛用のゴールデンバットを吸いながら、インタビューに答えていただきました。 今回のインタビューは、先生の業績については、テレビ、新聞等で充分ご紹介されているので、特に横須賀時代のお話、若い人達に対するお話を中心にお伺いしました。 |
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◎横中時代の小柴さんは? | |
当時はどこにお住まいでしたか? | |
"横中には最初はバスで通ったが、2学期になって小児麻痺になり、バスのステップが上がれなくなり、しょうがないから、ゆっくりと、のたのたと、歩いて通いました。" "1年後くらいに父が満州から張家口(ちょうかこう)への転任になり、母と兄弟が帰って来ました。その時に公郷に家を借りて一緒に住みました。公郷駅(現・安浦駅)と堀の内駅の丁度中間辺りですね。 " "横須賀にはその他、父の兄が大黒屋をやっていました。今でも私の従兄弟の子供がやっていると思います。" |
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その頃の学校生活は? | |
"朝が、8時から始まって12時までの4時限かな、午後は2時限で終わりでした。"
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"クラブ活動は剣道部に入ってましたが、半年後に病気になり当然やめました。そのあとは別に部に入っていませんでした。" | ||||||
(注)小柴さんのお話にはありませんでしたが、32期会の発行した「思い出の記」を拝見したり、同級の皆さんからお借りした写真を見る限り、相当茶目ッ気?のある悪童?のようでした。 |
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病気で長い間お休みになられたのですか? | |
"だいぶ休んだのでね、2年生になれるかどうか危なかったですけど、担任だった数学の先生の金子英夫先生と歴史を教えていた西山勤二先生がだいぶ応援してくれて、ようやく2年になれたのです。" | ||
朋友会の祝賀会では故・金子先生の奥様に花束を贈られましたが... | |
(注)入院中に担任の金子先生が持ってきてくれた「物理学はいかに創られたか」という本が小柴さんと物理学との最初の出合い、ひいてはノーベル賞受賞への第一歩になったそうです。 |
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◎躾は小さい時に... | |
当時と今の生徒の違いは? | |
"現在の若者たちとの接触は余りありませんが、ここに入ってくる学生はごく一部で、また孫みたいなものです。今時の若い人はと言われても私にはちょっと見当がつかないですよ。"
"ただ、見聞きしているとね、家庭の教育というのが随分昔と違うのかなという感じがしますね。 例えば、昔は、二つ三つの子供がいけないことをしたといったら、お尻をぴしゃぴしゃ叩いたりしました。それは当たり前の事でしたね。それが子供への虐待などと考えたらだめだね。最近は子供に痛い思いをさせると言うことはあんまりしないようですね。やるといけないことだというように考えられているらしい。だけど、これはね、ちょっとおかしいなと思います。 "躾の問題ですが、2,3才の頃 物心つく頃に、これはやってはいけないことなんだと言う事を身体に覚えさせた方が良いんだろうという気がしますけどね。私の考え方が古臭いのかもしれないけれど。" |
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ドイツ人の躾で日本人が見習うことが多いと聞きますが... | |
"ドイツの電車のなかにいると若者が膝を組んで座っていて年寄りがたっていることはありえない。そういう点でも躾がちゃんとしている。"
"日本の昔は、基本的な人間社会の付き合いの仕方というのがあったと思うんです。だけど最近見る限りでは、もう自分さえ良ければ良いという印象を受けますね。" "昔、近所の子供が何人か集まると必ずガキ大将がいて、ガキ大将に色んなことを躾けられたものですよ。" "中学生とかその位の年の人をドイツの家庭に1ヶ月とか2ヶ月くらいステイさせるとか、そういう交換みたいなものをやると、少しずつ良い影響がでるかも知れませんね。 |
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◎教育は若いうち... | |
現在の教育は? | |
"感ずることは、詰め込み教育はいけないと良く言うのですが、これは程度問題だと思いますね。私の経験から言っても小学校時代、あるいは中学時代、人間として記憶力が一番鋭敏な時期で、この時期に物を覚えるのは、ちっとも苦痛ではないんですね、スーッと入っていくんです。 それが掛け算の九九であるかも知れないし、あるいは数学の公式であるかも知れないし、あるいは外国語であるかも知れない。外国語と言うのは、私のように20代の終わり頃になって英語社会に飛びこんだ場合、一生身につかない。10代で英語社会に飛び込んだ人は本当に身につくんです。そういった意味でも僕はある程度のいわゆる詰め込み教育っていうのは、やるべきであると思います。それを禁止するのが、結局その生徒に対して損だと思いますね。" |
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◎本当にやりたいことを自分でみつけよう! | |
ものが豊富な環境の中での子供たちは... | |
"子供たちが、自分が何をやりたいのかということが、見つからないのではという気がしますね。"
"何でも周りにある。ゲームでも何でもね...。だけども僕は一体何をやりたいのかと、これをね見つける為にはね~、自分で色んな事を試してやって見なければ...。 "学校の先生も、子供たちが自分で取り組むという様なことを考えてやったら良いんじゃないかと思いますね。" "本当にやりたいことを自分でみつけなくては..." |
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◎同級生からみた中学時代... | |
32期会の代表幹事である船津英裕さんは、中学時代の小柴さんについて次のように語ってくれた。
『小柴は、授業は途中で帰ることもあったけれど、休むことはなかったですね。 また奥様も、『初めてお目にかかったのは、たしか小柴さんが30代だと思いますが、ちょっと変わった魅力がある方という印象でした。幾度かお目にかかっているうち、若いころの苦労話や外国の女性にもてて、もててという面白い話しを、いろいろ聞かせていただきました。』...と当時のことを思い出しながら語ってくれた。 また、横中32期会発行の「思い出の記」に、小柴さんの授業中の様子を、横田嘉昭さんは「小柴・カルチャーショック」と題して次のように記しています。 横中入学以来、同じ組になったことはなかったが、「小柴昌俊君は、頭は良いが、変わっていると」という噂を聞いていた。 読者の皆様はお2人のコメントから、どのような小柴さんを想像なさいますか? |
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◎取材後記 | |
失礼ながら、もう少し広い部屋でゆったりされていると思っていましたが、案に相違してこじんまりとした、実験室のようなお部屋で、ボロ・タイ姿で、私たちを迎え入れてくれました。
取材中も、63年間、愛煙しているというゴールデンバッドに何度も火をつけて(今でも1日25本くらいお吸いになるとのこと)、インタビューに答えてくれました。 実験装置の傍らには "気付け薬のようなもの" と仰るコーヒーカップを置いて、お仕事をされている、生涯現役の小柴さんでありました。 ただ、大変タイトなスケジュールのためか、ややお疲れのご様子...。(口数も少なかった) 一日も早く、通常の生活に戻り、体調を整えて祝賀会の時に疋田校長がお願いした、"母校の生徒の前でお話いただく" 機会が早期に実現できることを願って、お部屋を後にしました。 最後になりますが、記事作成にあたり色々ご協力戴きました、同期の船津様、長南様、柳田様に厚く御礼申し上げます。 |
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(注) | 2003/1/13開催の朋友会・小柴昌俊先生ノーベル物理学賞受賞祝賀会の模様は こちらをクリックしてください。 |
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[006] 赤星 隆幸 さん(高27期) | ||
(取材日:2003年6月23日) | ||
◎プロフィール | |
1957年 1月 神奈川県横須賀市生まれ 1969年 3月 横須賀市立公郷小学校卒業 1972年 3月 横須賀市立公郷中学校卒業 1975年 3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業 1976年 4月 自治医科大学入学 1982年 3月 自治医科大学卒業 |
1982年 4月 | 横浜市立市民病院研修医 (眼科、内科、小児科、産婦人科、麻酔科研修終了) 自治医科大学眼科科学教室研究生 自治医科大学第一解剖学教室研究員 |
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1984年 4月 | 神奈川県立厚木病院眼科勤務 自治医科大学眼科研究員 |
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1985年 4月 | 神奈川県立煤ヶ谷診療所勤務 県立千木良診療所・県立中井やまゆり園併務 |
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1986年 4月 | 東京大学医学部付属病院眼科医員 | |
1986年 9月 | 東京大学医学部眼科助手(文部教官助手) | |
1989年 2月 | 東京女子医科大学糖尿病センター眼科助手 | |
1990年 7月 | 武蔵野赤十字病院眼科勤務 | |
1991年12月 | 三井記念病院眼科科長 | |
1992年11月 | 三井記念病院眼科部長 |
現在に至る。 東京都中央区佃に在住。 |
白内障の手術~年間5000件! 一回の手術時間~わずか3、4分 |
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取材への協力ありがとうございます。 | |
海外の学会からの招聘が多く、月に最低1週間は講演や手術に出掛けています。長いときは2週間以上かけて数カ国を回ってきます。 昨年は1年間に17カ国、延べ27都市を巡り、130回以上の教育講演や公開手術を行いました。 日本にいる時には、三井記念病院で年間5,000件以上の手術をこなしています。その分外来も混んでしまい、今日はお待たせして申し訳ありませんでした。 |
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お仕事はこの時間(午後7時)にはいつも終わっていらっしやるのですか? | |
毎朝手術室に入るのは午前10時なんですが、その前に前日に手術した患者さんを診察しています。
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社会福祉法人三井記念病院(http://www.mitsuihosp.or.jp/)は、明治39年に三井家総代三井八郎右衞門が、貧しい人達のために私財を投じて建てた病院で100年近くの歴史があります。その設立の精神は今でも引き継がれていて、「全人的視点に立ち、最新・最良の医療を提供し社会に貢献すること」が病院の医療理念になっています。 私が眼科医として勤めていく上で、今まで診療の理念としていたのは、「最新の手術機材と最高の技術で手術を行い、最良の視力を患者さんに提供すること」です。三井に移って10年が過ぎましたが、こうして長く勤めることができたのも、病院の診療理念と私がかねてから抱いていた診療理念とが共鳴しあったからだと思います。
現在の病院長の萬年徹先生はとても理解のある方で、最高の治療を行うためには、惜しみなく最新の手術装置を導入してくれますし、高くても最高級の眼内レンズや薬を使わせてくれます。勤務医の給料は想像を絶するほど安いのですが、患者さんには、とても贅沢な手術をしています。いつも採算に苦慮しながら手術をするのと違い、良いと思ったものは、何でもどんどん取り入れて、理想の手術ができる今の環境に私は満足していますし、そうした環境を提供してくれている院長や理事長に大きな恩に感じて、ご奉公を続けています。 白内障の手術は、どこで受けても同じように考えられがちですが、手術の最中に眼の組織を保護するために使う薬や、移植する眼内レンズ、白内障を除去するための超音波手術装置、また手術の方法など、その選択によって術後の結果に大きな違いが出てきます。角膜の切開に使うメスは、イギリスで特別に作らせたダイヤモンドのメスを使っています。金属のメスでも手術はできますが、ダイヤモンドで切ったきれいな創口は治りも早いし、術後の乱視も少なくてすみます。また白内障を取り除いた後に移植する眼内レンズは、安いものを使えば、それだけ病院は儲かるわけですが、儲けることは医療の目的ではありませんから、高くてもアメリカ製の最高のレンズをすべての患者さんに使っています。手術中に組織を保護するために使う粘弾性物質という薬も、手術の手間は掛かりますが、性質の異なった2種類の薬を使いわけて最大限に組織を保護しながら安全な手術を行うようにしています。こうした配慮がないと、手術を受けた直後はよく見えても、術後何年かしてから後発白内障でまた見えなくなったり、角膜が濁ってくるなどの問題がおこる可能性があります。 白内障の手術には様々な方法があり、手術はどこの病院でもやっています。どのような方法でも手術は可能ですが、小さな傷口から、短い時間で痛みもなく患者さんが楽に手術を受けられ、術後はすぐに視力回復できて、一生その視力を維持できるのが理想です。眼科の手術では、手術時間が長くなればなるほど、角膜などの大切な眼の組織がいたみますし、細菌感染の可能性も高くなります。安全かつ正確に、しかも短時間に手術ができるよう私達は手術方法の改良のために日夜研究を重ねています。日常診療つまり同じ内容の医療だけを日々繰り返ししているのであれば、毎日7時には家に帰れるのですが、更に医学の進歩のために何か新しいことを探求するとなると、帰宅は深夜になってしまうわけです。更に海外での医療協力のことを考えると、もう土曜も日曜もなくなってしまいます。 |
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海外での医療活動もおこなっているのですね。 | |
日本の眼科の医療事情は大変恵まれています。世界的にはまだまだ困っている国がたくさんあります。アジア、アフリカの発展途上国では白内障が失明原因のトップになっています。白内障は手術で簡単に治すことのできる病気です。手術してあげれば簡単に視力を回復させることができるのですが、それが手術できないばかりに毎年何百万という患者さん達が失明しています。直接そうした発展途上国を訪れて手術に携わるのも医療協力ですが、時間的にも経済的にも限界があり、その患者数を考えると焼け石に水です。まずその国の眼科医に効率の良い最新の手術方法を教え、その医者が技術を習得して、また別の医者を教育するというようにしていかないと、とてもこれだけ多くの白内障患者さんには対応できません。
いまだに発展途上国では、大きな傷口から白内障を取り出す昔ながらの手術方法で手術がおこなわれています。一人の患者さんの手術に30分以上かかっては、1日にせいぜい20件の手術を行うのがやっとです。昔の方法では、視力の回復に時間がかかりますし、日本では考えられないような様々な合併症に患者さんは苦しみ、眼科医も苦労しています。そうした海外の人達に私達が日本で開発し育んだ技術を提供し、一人でも多くの人が最新の手術の恩恵に浴することができればと願い、三井記念病院での診療の傍ら時間を捻出して、海外に講演や手術に出掛けています。貧しい勤務医の私個人の力では、発展途上国への経済援助などはできませんが、自分の持つ技術や手術のノウハウは、いくらでも提供することができるのですから、こうしたかたちで世界のお役に立てればと考えています。 |
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手術に使う器具も考案... |
新しい治療法を開拓されたということですが、それに使う機械の設計などもされるのですか。 | ||
はい、そういう事もしています。手術を安全で効率良く、なおかつ誰にでも簡単に出来るようにするには、今ある手術器具や手術方法では対応できません。新しい手術の方法を考え出したら、それを行うための新しい手術器具も必要になります。そこで自分で手術器具の設計図を描いて、海外の医療器具メーカーに試作してもらいます。また出来上がった手術器具の安全性を動物実験で確かめることなどもしています。 世の中には手術の名人という人がいますが、すべての患者さんが名人の手術の恩恵に浴せるわけではありません。しかし、すべての患者さんで名人がしたのと同じ手術結果が得られるのが理想です。テクニックだけの名人芸に頼っていては一般の眼科医の手術水準は高くなりませんし、経験の浅い眼科医が名人のまねをすれば、大きな事故にもなりかねません。また名人とはいえ昔ながらの方法でどんなにうまく手術ができても、その方法に固執して新しい方法を取り入れようとしなければ、いつかは時流に反した医療を行うことになりかねません。どこの眼科医がやっても、名人と同じ結果を安全に出せるような手術法や手術器具を作り出し、それを世界に広く提供したいと考えています。 |
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白内障とは... |
白内障とはどんな病気で、いつ手術を受けたらよいのですか? | ||
白内障と言うのは目の中の水晶体、すなわちレンズが曇ってくる病気なんです。病気というより老化現象の一種と言ってよいかも知れません。歳をとって髪が白くなるのと同じように、60歳をこえると大抵の人の眼には、多かれ少なかれ白内障が出てきます。白内障にはいろいろなタイプがあるので、視力障害の出方も様々です。 ただそこで注意しなくてはならないのは、白内障があるということと、手術が必要だということは別問題だということです。手術をいつ受けたら良いかという相談をよく受けますが、その時期は人それぞれ異なります。日常生活で見え方に不自由をきたすことがあれば、その時が手術の時期だと患者さんにはお話ししています。不自由がないのに手術を受ける必要はありません。日常の生活でどの程度の視力が必要かということは人それぞれ違いますので、一概に視力がいくつになったら手術をするというわけにはいきません。ただし、白内障の中には早く手術をしないといけないものありますので、そこは信頼できる眼科医の指示に従ったら良いでしょう。
昔の白内障手術は、障子の桟が見えなくなるまでギリギリ待って、いよいよトイレにもひとりで行けなくなってからやっていたようです。手術のやり方が現在とは違い、白内障が進行してカチカチにならないとうまくいかない方法でしたし、成功率も100%ではありませんでしたので、視力の良い眼を手術するにはリスクが高かったのです。今でも手術はまったく見えなくなってから受けた方が良いと思い込んでいる人がいますが、これは大きな間違いです。昔と今とでは、手術の方法がまったく違います。今日の超音波白内障手術では逆に、白内障が進行して核が硬くなればなるほど手術はむずかしくなりますし、手術の合併症も多くなります。東京の私達の病院でも、もっと早く受診してくれたら良かったのにという患者さんが、いまだに時々いらっしゃいます。 横中・横高の先輩方で、白内障の心配のある方は、いつでも喜んで診察させていただきますので、三井記念病院までご足労下さい。 |
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白内障の手術はどのようにするのですか? | ||
昔は目玉を半周近く大きく切って、濁った水晶体を塊としてぽこっと取り出し、中を洗って眼内レンズを入れ、傷口を糸で縫って閉じるという手術をしていました(水晶体嚢外摘出術)。この方法は大変時間のかかる手術法で、傷口が大きいために、眼の組織がいたみやすく、また手術の後の炎症が強く、視力回復に時間がかかりました。また糸の締め具合によって眼球の形がゆがむため、術後に大きな乱視が残り、せっかく眼内レンズを入れても、乱視のために度の強い眼鏡を掛けなければならないこともありました。術後の乱視の度数は、傷口の大きさの3乗に比例すると言われています。また傷口が大きければ、それを縫うのにも時間がかかりますし、手術時間が長くなれば、術中に細菌感染を起こす可能性も高くなります。 胆嚢の手術でも、お腹を大きく切って手術すると、術後炎症が強くなり、痛みが強かったり、創傷治癒に時間がかかり入院も必要となります。しかし内視鏡で小さな傷口から手術をすれば、傷の回復も早く、日帰り手術も可能となります。手術は小さな傷口から、組織をいためることなく、簡単に済ませるのが一番です。
白内障の手術においても、小さな傷口から濁った水晶体を取り除き、眼内レンズを移植するという努力がなされてきました。水晶体を大きな塊として取り出すのではなくて、超音波を使って、細かく砕き、吸い取るという方法(超音波乳化吸引術)を用いると、3ミリ以下の小さな傷口から手術が可能です。もっと具体的に言いますと、水晶体は「嚢」という極めて薄い、セロファンのような透明な膜に包まれています。この膜の前の部分に丸く穴を開けて、中の濁った水晶体だけを超音波で砕いて取り除き、残した嚢の中に眼内レンズを移植します。こうお話しすると、いとも簡単に聞こえるかも知れませんが、この嚢は非常に薄い膜なので容易に破れてしまいます。その膜を破らずに、うまく中身だけ取り除くには熟練を要します。白内障を取り除くのに、長い時間超音波をかければ、そのエネルギーで眼の組織がいたんでしまい、視力の回復が悪くなってしまいます。また、手術中に誤って、嚢を破ってしまうと、水晶体の核が眼の奥底に落ちたりして、網膜剥離をおこすなど大事故につながる可能性もあります。 小さい傷口から手術ができるという魅力はあるのですが、技術的にむずかしいという難点がこの手術にはありました。そこで、この手術を誰もがもっと簡単にできるようにならないかと考えたわけです。今までは白内障の核を大きな塊のまま、端から少しずつ削っていましたが、大きい塊を削るとなると、手術に時間がかかりますし、大きな超音波エネルギーが必要でした。そこで、超音波をかける前に特別な手術器具を用いて、白内障を小さな塊に分けてしまい、その塊をひとつずつ超音波で取るという術式を考案しました。この術式は「フェイコ・プレチョップ」と名付けられ、今では広く世界に普及しています。従来の方法では、超音波で核を削るのに何分も時間がかかりましたが、この方法で手術をすると、数秒の超音波時間で核を取り除くことができます。これによって、今まで20分以上かかっていた手術が3~4分ですむようになりました。また手術に要するエネルギーが極めて少なくなったため、角膜などの組織をいためることなく、手術後直ちに良い視力が得られるようになりました。
この発明によって、白内障の手術は名人でなくても、安全かつ短時間で済むようになり、その成果は画期的なものでした。そこでこの術式や手術器具の特許を取ってはと多くの人達から勧められました。しかし敢えて特許申請はしませんでした。特許を押さえてしまえば、確かに個人的には収入になって有り難いのですが、特許料のために手術器具が高いものとなってしまい、この術式の普及の妨げになると考えたからです。私自身、従来の超音波手術の修得には苦労した経験があったので、後から手術を勉強する人達には、無用な苦労なしに安全で確実な方法をはじめから学んでもらいたかったのです。フェイコ・プレチョップ用の手術器具は、パテントフリーで世界に紹介され、各国の手術器械メーカーが自由に器具を作り、各国の眼科医に供給しています。海外に講演に行った時に、私の手術器具を使って、私の方法で手術しているという先生から、握手を求められ、この術式によって手術が大変楽になったという様な話を聞くと、本当にうれしいものです。 |
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今日までの職歴は... |
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三井記念病院へ勤務するまでの経歴をおききしたいのですが。 |
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私は眼科臨床医として働くようになるまでには、すごく変わった道を歩んでいます。エリートコースで、医学部を卒業してそのまま大学の眼科の医局に入り、眼科医になったわけではありません。今の立場に至るまでには随分遠回りをしてきました。もっと楽な人生があったはずですが、敢えて自分が進みたいと思った道を進むために、人の何倍ものエネルギーを使ってここまでたどり着きました。 家はあまり裕福ではなかったので、進学は国公立か、奨学金の貰える大学を選ぶ必要がありました。東大の理Ⅲは落ちましたが、奨学金の貰える防衛医大と自治医大の二校に受かりました。どちらの大学も、卒後9年間の就労義務があり、防衛医大では自衛隊関係の病院に、また自治医大では出身県の僻地の医療施設に勤めることが義務づけられていました。入学当初の神奈川県庁の担当者の話では、神奈川県は医療施設、医師数ともに十分充足しており、現実的には神奈川県には僻地がないので、卒業後は留学でも基礎研究でも、自分の進みたい道に進むことができるとのことでした。この言葉を信じて、自治医大への進学を決めましたが、現実は違い、波乱の人生を歩むことになりました。 自治医大は、僻地医療の改善を目的に各都道府県が基金を拠出して設立された自治省管轄の大学で、各都道府県から毎年1~2名の学生が選抜されて6年間奨学金を得て勉強し、その後は各自の出身県に戻り9年間、都道府県知事が指定する医療施設に勤務することになっています。9年間の勤務を果たさない場合には、奨学金を全額返済する契約です。大学は栃木県小山市の北にあり、大学の施設は非常に立派なもので、教授陣も東大を中心に極めて優れた人材が揃っていました。ただ、当時大学の周辺は市街化規制区域に指定されており周囲に新しい建物はなく、大学病院の建物、学生寮や教職員宿舎が一面の干瓢畑の中に陸の孤島のようにポツンポツンと点在していました。今でこそ宇都宮線の駅ができましたが、以前は最寄り駅からバスで25分、歩けば1時間近くかかる不便な場所でした。全寮制で、と言うより、寮を出ようと思っても、周囲には農家しかなくて、他に住む場所がありませんでしたので、学生は6年間を寮で過ごしました。貧しい学生が殆んどでしたので自家用車もなく、町に出るのも一苦労でした。私たちはこの恵まれた環境の中でただひたすら勉強に励んでいました。私は5期生でしたが、卒業生がいない当時は、どの程度勉強したら良いのかも判らずに、ハリソンの内科学書やクリストファーの外科学書など分厚い英語の教科書を原著で何冊も読破しました。そんな甲斐もあって医師国家試験の合格率は毎年ほぼ100%でした。 私は生物学に興味があり、顕微鏡を覗くのが好きでしたので、1年生の頃から組織学の教室に出入りするようになりました。斎藤多久馬先生が組織学を担当する第一解剖学教室の教授で、学生の私に遅くまで顕微鏡を覗くことを許して下さいました。当時はまだ大学が設立されて日が浅く、研究員も少なかったので、学生の私も教室のカンファランスに参加させてもらったりして、電子顕微鏡の技術や組織化学の実験手法などを、教授直々にご指導いただきました。ここで、私はかねてから興味のあった眼組織の基礎研究をはじめることになりました。斎藤多久馬教授は、解剖学に造詣が深いだけでなく、人格者で温かく思い遣りに溢れた方で、熱心な医学生の私に最新の実験手法を一から丁寧にご指導下さいました。私は学生でしたから、まず学業を修めることが一番の使命であり、研究によって本業の学問が疎かになることを厳に戒められました。私が研究室に出入りして研究をする上で、教授と交わした約束は、どんなに研究に熱中しても絶対に授業は休まないという事でした。私は研究がしたいばかりに授業には皆勤して、夕方の授業が終わると研究室にこもり、明け方まで実験を続けました。朝の早い教授が研究室に出勤される前に、そっと研究を切り上げて寮に戻るという毎日でした。睡眠時間は随分短かったはずですが、まったく苦はありませんでした。自分で計画し丹念に行った実験で、教科書に書かれていない新たな事実を次々に明らかにしてくれる基礎研究は、まるで闇夜を照らすサーチライトのようで、文字通り寝食を忘れるくらいに私を熱中させました。そんな努力の甲斐もあって、網膜や角膜の研究でいくつかの大きな発見があり、学生の身分でしたが、その成果を学会で研究発表することができました。最初の学会発表は学部の1年生の時に解剖学会で、3年生の時には国際学会にデビューしました。研究に関するアイデアは山ほどありましたし、100年の時間があってもやりきれない程やりたい研究テーマがあって、学生をしていることがもどかしくてなりませんでした。 6年間の栃木での充実した学生生活も終わり、いよいよ卒業となった時、私は大学に残って眼の基礎研究を続けたいと願いました。しかし入学当初の神奈川県の担当者は、基礎研究に進む道もあると言っていたのに関わらす、卒業時には担当者がすっかり変わっていて、私も他の卒業生同様、出身県に戻るよう命じられました。とても残念でしたが、契約に背くことはできません。自分の意志ではどうにもならない運命という流れに身を委ねるしかありませんでした。ただ私にできたことは、やり残した研究を神奈川に戻ってから、週に1日の研究日と週末に、大学に通って続けることでした。 基礎研究者として学問の道に進むことのできなかった私は、臨床医として故郷の神奈川県で働くことになりました。ふつうの医学部の卒業生はここで自分の専攻を決め、その科の医局に入局して臨床医としてのトレーニングを始めるのですが、自治医大の卒業生の場合は大学から離れた、それぞれの出身県でトレーニングを受けなければなりません。出身県によっては、施設や症例に恵まれた大学病院で研修を受けることができますが、神奈川県の場合は、横浜の市立病院が最初の2年間の研修指定病院でした。私は、臨床をやるならば眼科の専門医になりたいと思っていましたが、そんな希望も受け入れられずに、神奈川では眼科のほかに内科、小児科、麻酔科、産婦人科を今でいうスーパーローテートすることになりました。自分の志以外の科の勉強に時間を割くことは、時間をロスしているようで焦りを感じましたが、今にして思うと、この時代に経験した内科や麻酔科の臨床は、その後の臨床生活上、決して無駄にはなりませんでした。 研修病院では各科の一般診療と一般眼科の研修をする傍ら、特殊な疾患や眼科の先進医療に関しては週に1回大学に戻り、そこで勉強しました。その時の恩師が、今は亡き清水昊幸名誉教授です。手術によって病を治すことのできる素晴らしさ、美しい手術、完璧な手術、手術の理想をこの先生から学びました。 基礎研究の内容もこの頃から少しずつ変わりました。臨床をやっている上で生じた疑問を解決するために基礎研究の手法を使うようになり、研究のテーマはより臨床的なものになりました。自己満足だけの基礎研究ではなく、その成果が実際の患者さんの治療に生かせるようなものにしたいと考えたからです。 2年間の横浜での研修の後は、厚木の県立病院で1年間眼科医として勤務し、4年目には県内2つの診療所と秦野の山奥にある心身障害者施設を掛け持ちで勤務することになりました。診療所ではすべての科の患者さんを診ますし、内科当直のほか産婦人科のお産の当直までしました。診療所は丹沢山系に近い厚木の山奥の診療所と、中央線の相模湖からバスで山の中に入った所にありました。診療自体はたいしたことはありませんでしたが、通勤がとにかく大変でした。毎日行き先が違いましたし、交通の便が悪くて時間のロスが多大でした。通勤の途中ふと居眠りをして、目覚めた時に自分がどこに行くのか、行くのか帰るのか、判らなくなることもありました。 診療所で一般診療をして、何時間にも及ぶ通勤に疲れながらも、眼の研究や最先端の眼科治療への興味は尽きませんでした。当時週に1日、研究日と称して週中に自由に使える日があったのですが、その1日は栃木の大学での研究と臨床研修に当てました。毎週水曜日には、診療が終わると山奥の診療所を出て上野に向かい、東北線の最終電車で大学に着くのは深夜の1時過ぎでした。診療所から大学まで4時間。夜中に着いて研究室で実験をしてそのまま研究室のソファーで仮眠して、翌日はまた実験と眼科での専門研修。週末の土曜日も同じようにして、週2回神奈川の山奥から自治医大のある栃木まで行くという生活が卒後4年間続きました。一般臨床医としての僻地勤務、大学での基礎研究と眼科の専門研修。ひとり3役をこなした訳です。 そして卒後5年目になった時、神奈川県から保健所に行って公衆衛生の仕事に携わるよう指示がありました。保健所勤務では臨床ができなくなりますし、ましてや眼科などといった専門分野での基礎研究や専門臨床などできる筈はありません。このままでは自分の将来の夢からどんどん離れていってしまう。かといってあと5年間を指示通り勤めなければ1,680万円の奨学金を返済しなくてはなりません。半分勤めたからといって、返済額が半分になるわけではありません。1日でも足りなければ全額を一括返済しなくてはならないのです。 それでまた人生の岐路に立ったわけです。このままずっと神奈川県にいれば、いずれ保健所長になり定年まで安定した生活があるけれども、それで自分の人生が納得できるかと・・・自問しました。自分の意志ではどうにもならない大河のような運命に流されて一生を終えてしまうか、無理を承知で足掻いてみるか?給料の殆どを大学での勉強と学会出張のために使い果たしていたので、1,680万円を一括返済する貯金などありませんでした。今更親の臑を齧るわけにもいかず、銀行から借金をして、自分の将来に投資することを決意しました。奨学金を返済して眼科をやろうと決心したわけです。 こうして卒後5年目にしてやっと自由の身になりました。しかし神奈川県を辞めた以上、もう自治医大に戻るわけにはいきません。これからどうするか?自分で進む道を探さなくてはなりません。せっかく眼科を勉強するんだったら日本一の場所で勉強したい。それで受験ではダメだった東大の門を再度叩きました。当時、東京大学の眼科の医局には東大の卒業生かその師弟でないと入局できなかったのですが、今までの研究業績を持って、当時の三島済一教授にお願いに行きました。「いい仕事をしている。しかし一流の眼科医になるには臨床もできなくてはいけない。うちでしっかり勉強しなさい。」と外物の私を受け入れてくれました。それで東大で眼科を勉強することが決まりました。人生の大きな岐点でした。 東大での毎日は、今にして思うと天国のような毎日でした。好きなだけ眼科の勉強ができましたし、好きなだけ眼科の臨床をして、手術にも携わることができました。多くの優秀な同僚や先輩にも恵まれ、東大の医局で過ごした日々は、非常に思い出深いものでした。 東大での研修の後、基礎研究の腕を買われて東京女子医大の糖尿病センターに赴任することになりました。糖尿病の患者さんだけを集めた特殊なセンターで、眼科に来るのも糖尿病の患者さんだけでした。来る日も来る日も糖尿病の患者さんばかりを診察して、おかげで糖尿病網膜症に関してはエキスパートになりました。毎月何百人という患者さんをレーザー治療しましたが、手術室で行う手術は硝子体手術が殆どで、白内障を自分で執刀する機会は月に数回しかありませんでした。大学病院の施設で、糖尿病網膜症に関する基礎研究を行うことはできましたが、手術に関しては症例が少なくて、十分な臨床経験を積むことができませんでした。眼科の領域では、診断をつけて点眼や内服薬を処方する内科的な眼科医と、積極的に悪い部分を手術で治す外科的な眼科医がいますが、私は自分の技量で治療ができる外科的な眼科医になりたいと思っていました。診断や処方は教科書や臨床見学でいくらでも勉強できますが、手術は良い手術を見て、実際に自分で執刀しなければ上達できません。そこで大学に勤めながら、名人の手術を見学に毎週外の病院に出掛けました。 当時白内障の手術では、武蔵野日赤の清水公也先生が超音波の手術で素晴らしい成績を上げていましたので、毎週無給で日赤に通い、手術の助手をさせてもらいました。しかし大学に戻っても、超音波の手術器械はありませんでしたので、実際に自分で手術をすることはできませんでした。術後に炎症のおきやすい糖尿病の患者さんにこそ、小さな創口から手術ができる超音波の手術は最適だと思いましたが、大学では昔ながらの手術法で手術をしていました。患者さんは、大学病院という立派な建物と看板を信頼して病院を受診する。しかし、こと白内障に関しては、地方の日赤病院の方がずっと良い治療をしている。大学病院は確かに設備は素晴らしいかも知れないが、そこに勤める医師の技量がその看板にそぐわなければ、虎の皮を着た狐ではないかと疑問を抱き始めました。優れた手術の技量のある眼科医になりたい。それにはもっと手術をしたい。しかしそれは大学病院では叶わない。私は悩みました。 先輩にこのことを相談すると、せっかく名の通った大学病院に就職することができたのだから、何も無理することはない。毎日ふつうにしていれば、そのうち講師になり、助教授になり、エスカレータ式で出世できると言われました。しかし、たとえ教授だろうが院長だろうが、目の前にいる患者さんを実際に治すことができなければ、医師たる資格はない。私は、そう考えました。手術の腕を磨くために、大学病院での地位と職を捨て、日赤病院に就職することを決意しました。この選択には同僚や先輩達が驚き、思い留まるよう多くの助言を受けました。しかし私の決意は変わりませんでした。 大学を卒業した時には、あれほど大学病院での勤務に憧れていたのに、今ではまったく逆に都下の日赤病院に勤めようとしている。運命の大河の流れに逆らっているかのようにも思えましたが、私が臨床眼科医として志していた道を日赤の手術室に見いだすことができました。日赤にも週に1日の研究日があり、大学病院に研修に行く医師もいましたが、私はその分余計に手術室に入り手術を学ぶことに専念しました。日赤での仕事は、朝早くから夜遅くまで、第一線の臨床病院の多忙を極めましたが、私にとってはとても充実した毎日でした。給料が良くて手術もできて、とても幸せな毎日でしたが、幸せはそう長くは続きませんでした。日赤に移って1年そこそこで、東大の教授から異動命令が下りました。 三井記念病院の科長が開業してやめてしまうので、手術のできる医者がいなくなってしまう。日赤からすぐ三井に移るよう教授から異動命令があったのです。当時三井記念病院は、眼科ではあまり評判のいい病院ではありませんでした。手術件数も年間300件程度。十分な手術設備も揃っていませんでしたし、給料も日赤の半分以下でした。しかし教授命令は絶対です。かくして私は三井記念病院に勤めることになりました。今から11年前のことです。 |
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眼科を志したきっかけは... |
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先生は、いつごろから眼に興味をもったのですか。 | ||
眼には小学生のときから興味がありました。私は衣笠病院で生まれましたが、そこに古谷智恵子先生という眼科の部長先生がいて結膜炎になるとしょっちゅうそこに通いましてね。
それからうちの祖父(中9期 赤星直忠氏)が横中の卒業生なんですが、横須賀の地元で考古学者をしていました。高校の教師をしていましたが、安月給を考古学の研究のためにつぎ込んで自腹で発掘調査なんかをしていましてね。小学校時代には祖父に連れられて発掘に行ったり、野山を歩いて地質学や動植物の生態について、いろいろ学びました。教科書を暗記することもなく、塾や予備校もなく、ただ自然の中でのんびりとしたアナログ教育を受けました。自分の目でものを見て考え、自分で何かを工夫して創り出す。そんな基本的なことを教えられた気がします。家はあまり裕福ではなかったので、プラモデルなんかは買ってもらえず、自分で工夫して鉄道模型なんかを作って遊びました。腕時計を分解してまた組み立てたり、手先が器用だったので、眼科のマイクロサージェリーの訓練はそのころからしていたのかも知れません。 |
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中学、高校時代は... |
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中学は公郷なんですね。 | ||
市立の公郷小学校を卒業して、入学したのは池上中学校です。学級数がものすごく多く
実は父親も伯父も、2人の叔母もみんな横高の出身なんです。家は横高から5分とかからない距離にあり、中学校まですべて歩いて通学できる距離だったので、高校こそはどこか遠くに行きたいと思っていました。当時、神奈川県では栄光学園と湘南高校が進学校として有名でした。私立は無理なので、県立の湘南高校に行きたかったのですが、受験実績のない公郷中から進学することができずに、結局横高に入ったわけです。 |
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横高時代にインパクトのあった先生はいらっしゃいますか。 |
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私は、昔から語学が好きだったものですから、英語は中学の頃から一生懸命勉強していました。ラジオで大学受験講座や極東放送を聞いていましたから、高校に入った頃には高校の教科書は殆んど理解できました。その語学力が現在海外で講演や公開手術をするのに大いに役に立っています。日本人は、研究でも手術でも非常に高いレベルのものをもっているのですが、残念ながら語学力に劣るものですから、それを世界の表舞台で他国の人達と同等の立場で披露することができません。英語ができないばかりに、せっかく素晴らしい能力をもっていながら、世界的に正当な評価を受けられないでいることが多いように思われます。国際学会で発表するにしても、原稿を丸読みして、質問が来たら何を聞かれているのかわからないというレベルなのですね。海外で何かを教えたり、教わったり、また生の言葉で感情をぶつけ合って議論したりするには、まず語学力が必要です。そういった意味で高校時代に英語を仕込んでくれた担任の小林義昌先生には感謝しています。 生物の加藤寿治先生。理科系で受験は物理化学だったのですが、生物学には大変興味がありました。生物は大学受験を別にして学問として好きな科目でした。
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後輩へ一言... |
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最後に後輩にひとこと。 | ||
このインタビューを受けて、自分の半生を振り返ってみると、その無駄な生き方に辟易とします。賢い人は、もっとスマートな生き方ができる筈です。頭の悪い人間は、努力でそれを補わなくてはなりません。頭が悪かった分、私は同じことをするのに人の何倍も苦労しなければなりませんでした。 後輩に伝えたいことは、まず高い志をいだき、そのために全力を尽くして努力すること。力が及ばず願いが叶わなくても、その方向に向けて歩み続けることをやめないことです。人生の目標は人それぞれあるでしょう。しかしお金儲けや出世など、自分のことだけを考えていると、いつまでたっても幸せにはなれません。上を望んだらきりがないからです。しかし自分のまわりにいる人達を幸せにすることを考えてみると、結構簡単に幸福になれるものです。若い時の努力は必ず報われます。年を取ってから人生を変えようと思ってもそれは叶いません。月並みな言葉ですが、たった一度の人生ですから、悔いのない生き方であってもらいたいものです。若い人達には、これから歩む人生に無限の選択肢があるのですから。 |
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恩師・小林義昌先生から一言... |
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担任の小林義昌先生に高校時代の印象を伺ってきました。 | ||
地味なので、目だったことはなかったが、勉強が好きで、勉強ばっかりしていた。よくできたね。 彼は、入学当初から英語が抜群で、横高で何年かにひとりの英語力を持ってはいってきた。 これはものになる逸材だ、国際舞台で活躍できる人になるなと思った。教員生活で出会った、英語がよくできた生徒10人中の1人だったね。現在、国際的な学界で活躍しているのを見て、やはり英語が生きたなあと思った。 先日、テレビに出演しているのを見たが、高校時代とまったく変わっていなかったね。顔つきから話し方、身のこなし方まで、当時のままに誠実で。今後もひき続き活躍するようねがっている。 |
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取材後記 |
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治療器具の開発・治療法の開拓・現場での治療・海外での技術指導等、己の理想に向かって研鑚を積む姿勢と行動力に圧倒されました。 その上、趣味もクラシック音楽・ビデオ編集・カメラ・写真などいろいろ楽しんでいるとのお話に感激、早速ポートレート撮影のコツを教えてもらいました。 取材後に届いた近況を伝えるメールを紹介します。 先週まで、オーストラリア、ベトナム、スリランカ、モルディブの4カ国へ公開手術と講演 に出掛けておりました。この会期中、Asia Pacific Association of Cataract and Refractive Surgery より、昨年度この地域の白内障手術教育に最も貢献した眼科医として、表彰を受 けました。またモルディブでは、厚生大臣や大統領夫人と会見して、この国の眼科医療の 発展に協力する事を約束しました。 三井記念病院眼科 赤星隆幸 多忙な毎日のご様子、ご健康で活躍されることをお祈りします。 高12期 山本誓一記 |
[007] 和 地 孝 さん(高6期) | ||
(取材日:2004年1月17日) | ||
プロフィール | |
昭和29年3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業 昭和34年3月 横浜国立大学経済学部卒業 昭和34年4月 株式会社富士銀行入行 昭和63年6月 同 行 取締役 平成元年12月 テルモ株式会社常務取締役 平成5年4月 同 社 代表取締役専務 平成6年6月 同 社 代表取締役副社長 平成7年6月 同 社 代表取締役社長 平成16年6月 同 社 代表取締役会長兼CEO 現在 葉山町に在住 |
現在までの経緯は... | |
横浜国大卒業時、ゼミの黒澤 清教授の勧めで金融業界を就職先として選び、富士銀行に入行した。国内部門で3ケ所ほど支店勤務後、本店に戻った。銀行員生活の3分の2が国内部門、3分の1が国際部門で、当時、国内と国際部門の両方を経験した人は非常に少なかった。 44歳の時、ハーバードのビジネススクールへの留学を命ぜられ、3ケ月間学ぶ。その間は部屋へ帰って来ても山ほどケーススタディが積み上げてあって、物凄い勉強量であった。 やっと3ケ月の厳しかった勉強も終わり、やれやれこれで日本に帰れると思ったら、「帰るに及ばず」との事、そのままニューヨーク支店勤務を命ぜられる。 ビジネススクールでは、160人位の人達と一緒に学んだ。日本人も7~8人いたが、彼らは日本に帰りのんびりと温泉に入り、ラーメンでも食べているのか思うと悔しい思いだった。 ニューヨーク支店には副支店長として6年弱勤務した。支店のあった場所は、あの同時多発テロの対象となったワールドセンターにあった。ワールドセンターの建物は I と II があり、当時、私のいた支店は I の80階にあった。私が帰国した後 II の82階に移ったが、いずれにしても、事件後は跡形もなかった。 当時若かった人達も、その後出世したが、その中に、事件に際して、行員皆を避難させ、自分は最後まで残ってテロの犠牲となった人がいる事は、優秀な人材だけに非常に残念であるとともにつらい思いである。 当時のニューヨークでは商社を除き、多くの日本企業が拠点を持っていなかったので、日本から来られた経営者の対応は、銀行が案内や食事の面倒を見る事が多かった。 ハーバードの経験で、英語をうまく話せなくても外国人に対しての恐怖感がなくなった。 この時の経験が役に立ち、現在中国等どこの国へも現地語が話せなくても平気で出かけている。6年弱のニューヨーク支店勤務を終え本店に戻った。 <転機> 平成元年にテルモ(株)へ入社。 テルモのメインバンクが当時の富士銀行と三菱銀行、三菱信託銀行であり、3行から役員人材が招聘された。海外経験もあるという事で、私がテルモへ派遣された。常務、専務、副社長を経験し、平成7年に社長に就任し、現在9期目である。 |
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テルモとはどの様な会社ですか ? | |
社名の由来はドイツ語の「THERMOMETER(体温計)」から来ている。カタカナの社名の為、よく外資系の会社と間違えられるが、純粋に日本の会社である。
日本では第一次世界大戦の影響を受け、海外からの体温計の輸入が途絶えた。北里柴三郎博士をはじめとした医学者が発起人とり、優秀な体温計の国産化を目指して、1921年に「赤線検温器株式会社」を設立したのが始まりで、その後数度の社名変更により現在の「テルモ」となった。 このように体温計の製造から始まったテルモも現在は様々な医療機器・医薬品を世界150ケ国以上に供給する企業に成長した。主に病院等の医療機関を対象として、多様な医療機器や医薬品を製造販売している。たとえば、電子体温計、医療事故防止に役立つ薬剤充填済注射器(プレフィルドシリンジ)、詰まった心臓の血管を広げて血流を回復させるカテーテル、痛みが少なく短時間で測れる血糖測定システム、腕を通すだけで簡単に測れるアームイン血圧計、点滴剤、血液バッグ、腹膜透析関連、ME機器など。 特に以前の注射器はガラス製で針を交換せずに何人にも使用していたので、完全な滅菌消毒が出来ず、病原菌に感染し、その人の一生を台無しにする事故等が発生していた。そのような事故をなくす為に、使い捨ての注射器の開発に取り組み成功させた。普及まで10年位掛かったが現在ではこの分野では60%を超えるシェアーを占めている。 また旧来の体温計は、水銀を使用していたが、人や環境に対する影響に配慮して、いち早く電子体温計を開発し、水銀体温計に代わり主流を占めることとなった。 最近では、「磁気浮上方式(リニア方式)」という新しいコンセプトを持った左心補助人工心臓を開発し、ヨーロッパで臨床試験を開始した。 |
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会社経営に対する考え方取り組み方は... | |
<経営危機> 私がテルモに入社した当時は、26年間同じ人が社長だったことからか、社内の体質は上をみて仕事をすると言う風潮で活気がなく、会社自体も連結決算3期連続赤字という大変厳しい状態であった。しかも社内には危機感というものが全く無かった。このままでは大変な事になるとの思いから、社長就任後どの様に改革をしたらいいのかを考えた。 <風土改革への取り組み> この指示待ち体質、内向きの体質を変革することが最重要と考え、国内で4,800人位の社員全員を対象に、全国の営業所・工場へ足を伸ばし、社員一人一人に直接語りかける事を始めた。 たとえば工場の中には、今まで工場長も行ったことの無いような工場廃水処理場で汚水処理に1人で取り組んでいる社員もいるし、地方の3~4人しか居ない営業の出張所もあるが、そのような所へも積極的に出かけて話をした。今でも社員一人一人への語りかけは続いており、社内で私と話した事の無い社員は1人もいない。
研究開発・生産・営業・本社部門全てに、経営幹部の間に壁があり、経営に関しての認識がバラバラの状態であった。営業部門では研究開発部門でどの様な製品開発を行っているのかが分からず、顧客のニーズに応えられなかったことが多かった。 一方、研究開発部門と生産現場との連携も悪く、コスト面に対する認識も薄かった。縦の関連を重視し、まるで別会社のように各部門が完全に分かれていた。 経営合宿を行なうこととして、先ず幹部を、その後中堅層を集め、私の経営に対する取り組みについての考えを話した。合宿では、経営の勉強の他に座禅なども行ない、夜は参加者同士の懇親を深める為、私は参加者一人一人と酒を酌み交わしながら語り合った。この方法は、中堅層に特に効果があったようだ。参加者が家に帰って、家族に社長と一対一で酒を飲んだ事を話すと、家族は非常に驚くと同時に感激をしたそうだ。 一般の社員に対しては別の方法をとった。会社の創立75周年に「ふじ丸」を借り、会社全部門から「有言実行」キャンペーンで業績を上げた社員600人ほどを招待し、
私は社員一人一人に話かけたことによって、皆が意識を高め、目覚めたことが現在の高収益につながる要因だと思っている。いくら立派な言葉を並べても、受ける方が本気で受けとめなければ駄目である。銀行時代に取引先で社風が気になった3社を反面教師として、テルモの経営改革に取り組んだ。参考にした3社とも名門老舗であったが、共通して社員のモラルが低く、名前に甘えた体質であった。3社のうち2社は倒産、1社は吸収された。 <社員の心に火を点ける> テルモも医療保険制度によりガードされているせいか、経営に対して甘い考えをもった体質であった。社員が本気にならない限り、社長がいくら立派なことを言っても無駄だということが分っていたので、そのためには、副社長や専務でなく社長が直接動かねば駄目である。 私は社員一人一人との対話により、社員も私の考えを理解し本気になったことで、今日のテルモがあるのだと思う。社員の心に火を点けることが大事である。 特に気をつけなければならないのは、現場を回って同じ質問が3回出たら、すぐに取り上げなければならない。そういった質問は役員会ではなかなか出てこない。たとえ出ても、実際に数字として結果が表れてからであり、その時ではもう遅く対応出来ない。社員の眼の輝きをみれば店の状態が分かる。良い拠点の社員の眼は輝いている。 これらを見極める為にも現場に出て話すことが最良の方法ではないか。云ってみれば、社長は足で考える体力勝負であり社長室にいたのでは駄目である。 <人を軸とした経営> 現在多くの企業が成果主義を取り入れているが、一定の効果はあると思うが、必ずしも手放しで賛成ではない。私は「人は財産でありコストではない」と言い続けている。エリートになるとある程度要領がよく、失敗もないが、無理もしないからそれ以上に伸びもない。 自らが努力しなければ、この財産は目減りしてしまう。自分で頑張れば含み資産が出る。努力して含み資産を増やす事が、人生においても仕事においても大事な事であると云い続けている。 |
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今後の課題は? |
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<医療機器の貢献> 医療の進歩は早い。一昔前は医療というと「薬」中心であったが、今ではむしろ医療機器と薬をドッキングすることが、患者のQOLにとっても医療経済性の面からも有用であることが認められてきた。 良い例が心筋梗塞の場合、以前だと一ヶ月位入院して開腹(胸)手術したが、現在ではカテーテルの使用により2~3日で済んでしまう。患者さんの体力的な負担も、医療費もはるかに小さい。ただし、カテーテルなどの先進的な医療に使われる医療機器は、開発競争が激しい。 医療行為がパテント化する方向にあるのが懸念材料の一つ。今後どの様に対応するか考えなければならない。 <社会への貢献> 会社としては、医療の安全と環境の調和を目指して取り組んでいる。人々の健康に関わる企業として、生産における廃棄物や有害物質の削減、自家発電施設による省エネルギー化、医療現場からの医療廃棄物を削減するための製品の小型化・肉薄化や包装の簡略化や有害物質を出さず焼却できる製品の開発等、地味だが一歩ずつ「医療を通じて社会に貢献する」という企業理念のもと環境へ取り組んでいる。 少子高齢化が進んでいるので、患者の肉体的・経済的負担が少ない治療器具や医療費抑制に寄与する医療器具・システムを中心にした事業展開、また、医療の安全と効率化に寄与するプレフィルドシリンジ(薬剤が充填された注射器)を製薬会社と提携して商品化するなど、新しい事業展開も進めている。また在宅医療分野も事業を強化し、在宅での医療のすべてが揃う「生活医療」の実現を目指している。 |
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横高時代は? 思い出のある恩師は? |
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我々6期は男女共学になって2期目で女子が少なく、8クラスの内半分の4クラスが男女クラスだった。1年生の時は男女クラスであった。この時は新鮮で楽しかった。
模擬テストが終わると、職員室の前の廊下に成績順に貼り出され、競争意識を刺激されたことが思い出される。 プールは工事中で使えなかった。古い講堂で芸大の先輩のピアノ演奏を聴いたり、円覚寺の朝比奈管長の講話が印象に残っている。裏山(現在のグランド)へ行って時間を過ごしたりしたことなども楽しい思い出である。 部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。 部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。 <恩師の思い出> 国語の石渡先生は黒パンといって、担任でもあり、印象深い先生であった。卒業してからも黒パン会として、伊豆のかつらぎ山のハイキング・美ヶ原高原のキャンプへ行ったことが思い出される。黒パン会は何年間か続いたが立ち消えとなってしまった。
体育の本間先生は、我々の入学した時、初めて教職に就かれたので、色々と思い出も多く、現在でも6期全体として交流が続いている。その他、英語の小島先生、国語の志賀先生、数学の高橋先生等が思い出のある先生方である。 ある時、音楽の青山(五十嵐)先生に、「貴方は声が良いから本格的に声楽をやらないか」と勧められたことがあったが、当時は音楽にあまり興味がなかったので、その道には進まなかった。 テルモの研究開発などで、発想を変えることが大切だが、当時の生物の勉強が大変役立っている。そのものに精通するとかえって既成観念に拘って、考えが固まってしまうことが多い。素人の方が柔軟な考え方で思わぬものを見つける。横高時代に金田先生のお陰で生物に興味を持ったことが現在の仕事に大いに役立っていることで、金田先生には感謝している。 忘れられないのは、卒業式での中川校長の言葉である。「人のやらないことをやれ」と言われた。経営でも同じことが言える。特に新製品の開発においては人と同じことをやっていては駄目で、オンリーワンを目指さなければならない。この一言は今でも忘れない。 |
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横高生に望むことは? |
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自分の個性を磨くことが大事。 学校で教えられたから、マスコミがこう言っているから、誰かがこう言っているからでは、この変化の激しい世の中では振り回されてしまう。自分で考えるというトレーニングをしておかないと、これからの人生は生き抜いていけない。 世の中がグローバル化しているだけに、むしろ日本の文化・歴史を勉強しておかないと対応出来ない。多くの日本人は日本の文化・歴史について知らなすぎる。外国人と話す時に、経済成長率がどうの、経済政策がどうだとか話すことも大切だが、自分の国に対する誇りや知識がないと底が浅い話になってしまう。 今、中国に二つの工場があるが、中国のトップと付き合うときは政治・経済の話は一切しない。たとえ話したとしても国家主席と同じ内容の答えが返ってくる。工場のある浙江省というのは南宋の首都で、日本との交流が深く、民度は官吏登用試験で一目置かれているほど水準が高かったことなど、歴史と文化の話をすると物凄く打ち解けて尊敬してくれる。 ところが、日本の人達は経済の話、ビジネスの話しか出来ない人が多く、中国の人と歴史や文化についてまともに話せる人がいない。特に中国では食事の時は取引の話をしないことがマナーである。日本人は取引の話をしてしまうためレベルを低くみられてしまう。 受験勉強用でなく、興味を持って歴史を勉強する事が大事。歴史はちゃんと勉強して置かないと、時代の流れを考える上でも、海外とのビジネスを進める上でも、必要となる非常に大切な事である。 又、横高は武骨な所が良い。かっての横高はどちらかと言うと骨っぽい面が有り、小泉総理や小柴先生が出たのではないか。 これからも武骨な所を保ち、歴史を勉強し、社会に役立つ人となって欲しい。 自分の殻に閉じこもらず、常に一流の人、一流の文化に触れる努力をする必要がある。 |
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取材後記 |
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会食時和地氏の話によると、テルモの研究所が東名高速秦野中井IC傍に建設されたその2年程後に、日野原重明先生の関係するホスピスが近所に建設されたそうです。ホームを訪れると真正面に富士山が見えるのだが、テルモの研究所の建物が邪魔をしている。入居している人達に申し訳ないとの考えから、毎年クリスマスの時期に建物にイルミネーションを施し花火を打ち上げたら大変喜ばれたとのことでした。企業も自己の利益のみ追求しているのではなく、社会にどの様にして還元するのかを考える時代だなと改めて考えさせられました。 話の中で社長は体力勝負と話されたが、実際は体育会系ではないので、普通の体格であるが社員の一人一人と酒を酌み交わす体力は何処から出てくるのか。また地球規模でのご
経営改革にあたり、成功するには社員にやる気を持たせる事が如何に大事なことかが痛感させられもしたが、これはどの分野でもおなじことでないかと思い、実践するための行動力と決断のすばらしさを感じました。 (取材...里見、石井(正)、小野関) |
[008] 山口 治男 さん(高17期) | ||
(取材日:2004年6月19日) | ||
プロフィール | |
1959年 横須賀市立田戸小学校卒業 東京都練馬区石神井台に在住。 |
<東京工科大学を訪ねて> | |
《八王子みなみ野駅に降りてスクールバスのターミナルに着いたとき、その本数の多さに驚きました。後で伺うところによると、日中でも3分おき。朝は同時に2~3台が来るということです。また、駅のすぐ前の建物は大学の学生寮だそうです。
さて、八王子みなみ野駅からスクールバスで約7分。バスを降りると山口先生自ら出迎えて下さいました。まず学部長室で少しお話を伺った後、カフェで昼食をとりながら大学についてお話を伺いました。その後、緑豊かな広大な敷地と最先端の施設が美しく配置された校内を車で案内していただき、再びお部屋に戻り取材の続きとなりました。》 |
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◎東京工科大学について | |
東京工科大学は1986年に工学部をもって開学した大学です。その母体は1947年にスタートした専門学校で、つねに時代を見据えた改革を進めています。1999年に工学部に加えて、日本初のメディア学部を新設し、2学部体制としました。
特色としては、『問題発見・解決型教育の導入』『大学院は複数の専門分野を有するダブルメジャーをめざす』また、『産業界、社会のニーズを踏まえた改革を展開し、産業に役立つ研究をめざす』ことを挙げることができます。 こうした特色により、他大学、海外からの視察が急増しています。特に、2003年に完成した"片柳研究所"はレベルの高い産学官共同研究を実施していて、私立大学としては初めての政府関連の産業総合研究所リサーチセンタが設置されています。○メディア学部とは? ロングマンの英語辞典には、『メディア』とは、"新聞・ラジオ・テレビのこと"と書かれています。一般的にはそう捉えられることが多いのですが、その一方で、フロッピィディスクやCDなどもメディアと呼んでいます。また、ある人が「孫と手紙をやり取りし、孫をメディアとして生活を楽しんでいる。」というような言い方をする場合さえあります。その場合は"媒体"あるいは"手段"という意味で使っているのですね。 しかし、"メディアとは何か?"という議論をしても非常に幅広いのでほとんど実りはないでしょう。大学でメディア学部というものを創った場合、学問領域としてどういう研究対象をどういう風に攻めるかということが重要だと思います。 私たちがメディア学部を創ったときは、ITやインターネットの時代になって何かが変わりつつあり、一番影響を受けているのは、『メディア』ではないかと考えました。映画の映像が今やディジタル技術で作られるようになって、様々な作品が生まれています。最新の技術は人間の表現やコミュニケーションの変革を通じて人間生活に大きなインパクトを与えています。そこで、最新技術をベースとする表現とコミュニケーションの領域を取り上げ、技術的な視点に加えて人間・社会との関係という視点から研究・教育を行おうと考えました。 本学のメディア学部は理系に分類されていますが、メディアを技術からのみ捉えるのではなく、コミュニケーションの道具あるいは表現の手段として捉えています。そのため、コンテンツ制作、それを生かすビジネス、またそれらが人間に与える文化、法律、制度なども重視したいと考えました。本学のメディア学部は、技術・コンテンツ・ビジネス・組織・社会まで捉えるため、多様な専門分野の先生が集まっています。 ○大学と専門学校が併設 大学と専門学校が併設されていますが、日本電子工学院専門学校(蒲田校)、日本電子工学院八王子専門学校(八王子校)、日本電子工学院北海道専門学校(北海道校)の3つがあり、八王子校が本学と同じキャンパス内にあります。 本学のキャンパスは、芸術家でもある理事長が理想的な環境の大学を作りたいとの構想でキャンパスのデザインも20年以上前から作り上げてきたものです。 専門学校には、技術・芸術・体育・各種の職業教育も含んだあらゆる分野があります。メディア学部は専門学校との連携も重視していて、専門学校からの推薦入学や編入学の制度もあります。八王子キャンパスの学生数は8,000人(専門学校4,000人、大学4,000人)を超えています。 ○先進的な設備に加えて庭園もあるキャンパス 学内の施設についてお話ししますと、キャンパスの建物はデザインが統一されており、本部棟、厚生棟、図書館棟、研究棟、講義実験棟、体育館、メディアホール、美術館等の色々な用途の建物がありますが、全て調和した雰囲気を保っています。最近新築された"研究所棟"と"フーズフー"という名前の南欧風の建物が目立っています。フーズフーの前にはヨーロッパ風の庭園があり、日本建築の美術館の前には日本庭園があります。 大学での大きな課題の一つに、8000人という大勢の学生の食事などを提供する厚生施設の整備があります。これが貧弱では、楽しい学生生活は送れません。 そこで、厚生棟の2、3、4階はすべて学生食堂となっていて、それぞれが一味違った食事を提供しています。他にも、南欧風の建物"フーズフー"は2階が洒落た食堂テラスとなっており、ドトール、吉野家、一口茶屋など外の業者が入っていて、色々な食事を楽しめます。 「フーズフー」の1階にはブックセンターとコンビニ(サンクス)があります。このサンクスは床面積が日本最大のコンビニとの噂もあります。昼食にお弁当やお握りなどを買い求める学生も沢山います。学内の別の場所にはマクドナルドが大きな店舗で営業していて、学生には人気のランチスポットとなっています。また、本部棟には、池を見ながら食事ができる職員食堂があります。ここは主に教職員用の食堂ですが、学生が利用することもできます。 |
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<見学感想> | |
ここで昼食に行きました。昼食後、学部長の自家用車に乗ってのキャンパス巡り、途中歩いて施設内の見学をしました。以下、私たちの見学感想です。
全ての施設が最先端のように感じられましたが、対照的にキャンパス内に造られている日本庭園と日本建築の美術館は、落ち着いた美しい景観を見せていました。また、本部棟の壁面には元々は芸術家で、日展で受賞したこともあるとお聞きした理事長が描かれたとても大きな絵がかけられていました。 学内を学生が掃除をしている光景を見ました。学生に学内のアルバイトを色々と斡旋しているそうです。清掃のアルバイトもその一つです。これは、学生に学業に支障の出ない身近なアルバイトを提供し、経済的な支援をすることが目的だそうですが、それに加えて、自分たちが清掃をすることで汚さないという意識を高める効果もあるそうです。高学年の学生には、授業のティーチングアシスタント等の仕事もあるそうです。 講義実験棟という建物には4階にわたっていろいろな演習をやる演習室があり、すばらしい演習設備があるのを見せていただきました。また、体育館、テニスコート、プール、グラウンドからフィットネスセンター、ボーリング場等の体育施設までありました。 グラウンドはサークル棟に面していて、グラウンドとのレイアウトが素晴らしいものでした。サークル棟といっても、名前からはイメージできない規模の大きいものでした。》 《研究室のある建物にあった飲み物の自販機は人を関知して、照明などのスイッチが入るようになっていたのには驚きました。 研究棟では、卒研でコンテンツ音楽をやっている学生がピアノを弾いていました。普通の理系の大学では考えられないことです。》 |
<先進的なメディア・ネットワーク環境でした> | |
《500~600人の学生に授業ができ、その授業を録画できる施設(レコーディングセンター)が備わっていて、山口先生の授業はここで行っていらっしゃるそうです。レコーディングセンターでは、学内のいろいろなコンテンツを収録・保存し、ネットワークで配信しているそうです。
山口先生の予定はすべてPCで管理していて、web上で他の職員、学生もみられるようにしているとのことです。また、先生の授業はすべてアーカイブされていて、誰でも後で見られるようになっています。 メディア学部の授業は、400人を前にしての授業から10名程度の卒研生まで規模は色々とあるそうですが、学生はすべてノートパソコンを文房具のように使いこなしているそうです。学内の各机にはノートパソコン用の情報コンセントが設置され、インターネットに接続できます。学生は入学時に全員ノートPCを購入して、授業を始めいろいろなことに使用しています。そのメンテナンスのために、PC相談カウンターが「フーズフー」の1階にあり、ここは100メガという高速で快適にインターネットに接続できるネットカフェにもなっていました。学生は下宿やアパート、家にいるより快適だろうと思います。 授業の出欠、質問、レポート提出などもネットワークを使ったシステムで行っているそうです。また、匿名で教員の授業を評価するシステムも使っているとのことです。 研究棟には、産総研(産業技術研究所)のセンターが入っているので、そこの職員も来ています。私立大学で国の研究所のセンターが設置されたのは日本初だそうです。 ここの高層階の窓からは芝生に置かれた馬のブロンズ像を見ることができました。》 ○学生による授業の評価 本学では、学生による授業評価を全ての授業で行っており、その評価はパソコンを使って匿名で行われます。メディア学部では全教員の評価データはアゴラで他の教員に公表されます。 試験で甘い点を付ける教員には学生から良い評価が、厳しい教員には悪い評価が付けられるのではないかという意見が当初はありましたが、実行に移してみた結果では、甘く易しすぎる授業も難しすぎる授業も評価は悪く出ました。学生にとって、ちょうどよく理解でき、満足できる授業の評価が高いという結果が出ました。 中には、5点評価で全ての項目に「1」をつけるようないい加減な評価をする学生が何人かいますが、それは授業全体の評価にはほとんど影響しないこともわかりました。評価はだいたい3.0付近に集まり、3.7以上だと「なかなかいい授業です」。3.0未満だと「授業に何か欠点があります」という感じです。4.0以上というのはほとんどありませんが、受講生が10人程度の体育などではこういう評価を受けることもあります。 ○授業の改善には発声練習も 集計されたデータは会議で公表されます。教授会で全員の評価一覧表を出すけれども、コメントはしないことにしています。各教員に配布される評価シートには、点数だけでなく、例えば、教材が工夫されていない、声が聞き取りにくい、熱意を持って授業をしていない、レポートの問題が難しすぎる等の学生のコメントがあげられているので、各教員が自分の授業の改善に役立たせることができます。教員はそれを反省材料にしています。授業も公開されていて他の先生の授業を見ることができ、改善に役立っています。 自分が予想したとおりに評価結果が出てきます。自分が悪いと予感したところは、学生は正直に悪く評価します。工夫したところ、自分が改善を心がけたところは良くなっているのです。こうして毎年改善されてきて、全体で評価は年々良くなってきています。 《山口先生自身も「授業の声がこもって聞き取りにくい」「聞いていると眠くなる」と学生に書かれたことがあり、収録ビデオで確かめてみたら確かにその通りでしたので、ハリのある声にしなくてはと思い、発声練習をしました。口をはっきり開けるとか、母音の発音などに気をつけた所、次の学期の授業では「先生の授業は、大変聞き取り易くて良い。」との評価を得られたとのことです。》 ○授業の公開 かつて、大学では他の教員の授業を傍聴するのは、その先生に了解を得るのが慣習となっていて、余り歓迎されませんでしたが、メディア学部では、教員は他の教員の授業を自由に見ていいことになっています。したがって、教員は常に誰かが見ていることを意識して、また学生が評価することを前提に授業をすることになるので、かなりきびしいといえます。こうしたことには多少のプレッシャーは感じるでしょうが、改善に努力していれば何も問題はないはずです。 |
◎東京工科大学に移ったきっかけ | |
NTTの研究所は伝統的に50才前後に退職して再就職する方が多いですね。その時のひとつの選択肢が大学に再就職して教員になることですが、ただ、大学に再就職する場合、その前から長い時間をかけて、学位を取る、論文を書く、専門領域を明確にするなどの準備が必要です。
50才を間近に控えた頃、大学に移ることを考えました。ちょうどそのころ、今いる大学がメディア学部を作るので教員を募集していたので応募しました。NTTをやめたら教員をやりたいと思っていましたが、もともと人に教えることが好きなんですね。 ただ、50才過ぎてからだと余生の仕事という感じになってしまうので、50才以前に転職したいと思って探していました。決まったのがちょうど50才の時で、2年後メディア学部開設と同時に移りました。今年で6年目となり、58才となりました。 ○学部長へ 前任の学部長が東京都三鷹市の市長に立候補して退職することになって、その後任として学部長に選ばれました。大学に来て管理業務はもう余りやりたくなかったので、断ったのですが、許されませんでした(笑)。大学に移る前は企業にいたので、組織がうまく回るにはどうしたらよいかというようなことを知らない間に身に付けていたようで、そのようなところが買われたのだと思っています。 この3月、前任者の1年間の残任期間が終了し、改めて、2年間の任期で学部長に選ばれました。 ○学部長としての仕事 学部長を実際に務めてみて、予想していた以上にいろいろな仕事がありました。学部をまとめることや学部がマンネリ化しないように工夫することが第1の仕事です。学部をどっちの方向に持っていくかということを考えることが一番大切なことですね。それにしたがって、教員の採用などを行います。教員の管理、ヤル気を起こすような努力、人事も大きい仕事です。その他に日常的に、入試関係、カリキュラム関係、卒業・就職関係など何から何までやります。あとは大学全体の運営関係の会議が多いですね。 学生を教えて研究したいと思っていましたので、学部長の仕事だけだと学校へ来た意味がないので、授業も持ち、卒業研究や大学院の授業など、学生に接する機会を多く持つようにしています。必然的にさらに忙しくなり、土日に出勤することも多く、学期の途中では休日も忙しく働いていることが多いですね。空いている日は月2回ぐらい。そういうときは、昔からの仲間とゴルフに行ったりすることもあります。 ○意識改革 教員の意識改革はとても大切ですね。以前は教授会が多くの決定権を持っていました。したがって、教授会で教授が一人でも反対すると何も進まないということがありましたが、今はそういうことが完全になくなりました。そういう面では、物事がスムーズに進むようになりました。従来の教授会の代わりになっているのが「アゴラ(教育研究集会)」というユニークな会議で、全教員が参加して何でも議論しますが、決定権はありません。 アゴラでは何でも発言できます。言いたい放題言っても最後にはまとまるし、不満も残らないで合意が形成されていきます。ここで、皆の意見を吸収して、それを学部運営委員会に上げて効率的に物事を決めていきます。 ○全てトップダウンで決めるということではないのですね? 違います。もちろん、トップダウンのものもありますが、意見を吸い上げて、効率的に物事を決めています。 「授業の評価」については、「評価の低い教員は、反省と共に授業の改善計画を提出させてはどうか」というような厳しい意見もありましたが、そんな必要はなく、各自自分の授業評価を公開されるだけで効果が現れます。他の教員のものも見て、自分の授業を考えるという伝統が続いています。 また、逆に、学生による授業の評価の公表について「効果がないので公表を中止する」という意見も出ましたが、再検討をお願いしました。こうした元に戻ろうとする力がローカルには働くことがありますが、まあ、わかってやっている部分もあると思います。このようなことでメディア学部はなかなかうまくいっています。 《この部分ではある意味、トップダウンといえるでしょう。ハード面は大学の施設を見学することで知ることができますが、ソフト面については、こうして話を聞くことで初めてわかることが多いとつくづく感じました。》 |
◎学生時代は | |
常葉台中学出身です。中学入学時は不入斗中学で、途中から3つに分かれて常葉台中学に移りました。中学校では生徒会長をやっていました。そのとき、各学校の生徒会執行部が集まるリーダースキャンプを参考にして「全校で学校に泊まろう」という企画を立て実行しました。実行委員を集めて進行を相談したり、床にゴザを敷いたり、ふとんを借りたり、キャンプファイヤーをしたり、3日間学校に泊り込んだのが良い思い出です。
リーダースキャンプで知り合った他校の生徒の何人かが偶然にも横高に入学したら同じクラスになりました。 横高に入学してからは1年間弓道部に在籍しましたが、先輩の練習に対する方針で意見が合わずに辞めてしまいました。その後は、受験勉強をしなくてはと思い、2年生からは勉強に専念しました。夏休みに教室で問題集を解いていたという記憶が残っています。皆で塀をのり越えて佐野のバス停そばのタンメン屋さんへ食べに行ったことがありますね。あとは受験勉強していたのかな・・・? 仲間に会うといろいろ思い出すのでしょうが・・・。 ○東工大進学のきっかけ 下町に住んでおりましたので、横須賀中央から通える場所にある月謝の安い公立大学の工学部を探し、担任の福田先生に相談しました。「東工大はどうですか?」と聞きましたら、「ま、大丈夫じゃない!?」とおっしゃったので「じゃあ、そこにします」って決めました(笑)。 何の疑問もなく入ったけれど、楽しかったです。中学の時は何だかも知らないで「数学者になりたい」と思っていたし、高校では「物理学者になりたい」と思っていました。 大学に入って、仲間から「物理では食えない(就職先がない)よ」と言われ考えた末、当時比較的新しい電子工学に行こうと決めました。 研究室を選んだ理由は、「卒論でできるような簡単な問題は無いので絶対来ないように」という教授の説明がユニークだったから・・・!? |
◎NTT入社と思い出 |
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NTTに入った時、「本社事業部に行く気はないか」と言われましたが、研究所に行きたかったので断りました。何かディジタルをやっている所はないかと尋ねたところ、伝送システム研究所がディジタル伝送をやっているということでそこに入りましたが、当時はハンダごてで回路を作ったりしました。「これってディジタルですか?」と上司に聞いたら、「上を飛んでいるのはディジタルだが動かしているのはアナログなんだ。しっかりやれ!」となんだかわけのわからないことを言われ、やっているうちに面白くなりました。
ちょうどその頃、片付けものをしている時に中学時代の文集が出てきました。それには「将来は大きな研究をやる国の組織のような所で世の中の役に立つような研究をやりたい」と書いてありました。気がつくと「あれ!?今NTTにいる!」。その時々で気持ちは変わってきたように感じていましたが、小さい時感じていた通りに人間は道を選択していくものなんだと思いました。入社のきっかけは深層心理の中に子供の頃の想いがあったことと、奨学金をくれたことですかね(笑)。 武蔵野の研究所に入社して2年目に横須賀武山の新しい研究所に移り18年、そこでホームページ委員長(里見氏)のお世話になったこともありました。それからまた武蔵野へ移って退社後、東京工科大へ移りました。 小泉ファンで、総理が郵政大臣だった頃、通研を訪問された時一緒に写した写真は宝物として大切にしています。(最前列右から2人目が山口先生) NTTには留学制度があって、1年間研究員としてアメリカの大学でデジタルネットワークの研究をしました。仕事が忙しい時で準備もろくにできず、とりあえずニューヨークへ行きましたが、知らない所で住まい探しから何から全部自分でしなければならず、大変でした。 一月後に生活の準備も整ったので、妻と二人の子供(6歳の娘と2歳の息子)も来て一年間米国の生活をしましたが、一年ではやはり不十分でした。仕事の合間を見つけて、よくミュージカルやコンサートに行ったり、郊外のピクニックなどを楽しみました。 |
◎メッセージ | |
よく学生に言っていることですが、「いつになっても初心忘するべからず」「何かにチャレンジし続ける気持ちを忘れないようにしなさい」ということ、とにかく新しいことにチャレンジしなさい。一生懸命頑張ることが大事です。
新しいことをやるのが嬉しいという気持ちを大切に、与えられたチャンスをチョイスして、その時その時に自分にとってチャレンジする価値のあるものを見つけ、続けていくのが良いのではないかと思います。 今どきの学校教育の中では、よく「やりがいのあることを見つけなさい」と言われていますが、就職先を探す時には「自分がやりたいことを見つける」ではなく、「世の中が自分にやらせてくれることは何か」をよく考えることが大切なのです。「やらせてくれることが存在するように、今やっていることを一生懸命やりなさい」ということですね。 ○理科離れについて 《最近よく、「理科嫌い」「理科離れ」という言葉を聞きますが、本当にそうでしょうか?》 みんなが理系である必要はないと思いますが、理科に関心のある人、理科が好きな人はたくさんいると思います。そう言う気持ちを大切に伸ばしてあげれば良いと思います。問題は、職業を選ぶと言う将来選択の観点から理系を避けている気がします。理系を出たらお金持ちになるというイメージができれば良いのかもしれませんね。 |
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取材後記 | |
東京工科大学の改革は、他大学や産業界からの注目が高く、海外からの視察もあるということで、大学や学部の様子の紹介を織り混ぜながら構成してみました。
広い敷地に最新設備の整った建物、特に先進的なネットワークが整備されたメディア環境のキャンパスだけでなく、各所に飾られた素晴らしい美術品の数々、和風庭園、書店、日本一広いコンビニ、オープンカフェ、食堂等の厚生施設も充実しており、大学のキャンパスというより、どこか外国の美しい街といった感じ。取材を忘れてカメラに夢中になることも・・・ また、わかりやすく楽しいお話を伺い、想い出に残る楽しい1日となりました。貴重な休日を私達におつき合い下さいまして、本当にありがとうございました。
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プロフィール | |
昭和29年3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業 昭和34年3月 横浜国立大学経済学部卒業 昭和34年4月 株式会社富士銀行入行 昭和63年6月 同 行 取締役 平成元年12月 テルモ株式会社常務取締役 平成5年4月 同 社 代表取締役専務 平成6年6月 同 社 代表取締役副社長 平成7年6月 同 社 代表取締役社長 平成16年6月 同 社 代表取締役会長兼CEO 現在 葉山町に在住 |
現在までの経緯は... | |
横浜国大卒業時、ゼミの黒澤 清教授の勧めで金融業界を就職先として選び、富士銀行に入行した。国内部門で3ケ所ほど支店勤務後、本店に戻った。銀行員生活の3分の2が国内部門、3分の1が国際部門で、当時、国内と国際部門の両方を経験した人は非常に少なかった。 44歳の時、ハーバードのビジネススクールへの留学を命ぜられ、3ケ月間学ぶ。その間は部屋へ帰って来ても山ほどケーススタディが積み上げてあって、物凄い勉強量であった。 やっと3ケ月の厳しかった勉強も終わり、やれやれこれで日本に帰れると思ったら、「帰るに及ばず」との事、そのままニューヨーク支店勤務を命ぜられる。 ビジネススクールでは、160人位の人達と一緒に学んだ。日本人も7~8人いたが、彼らは日本に帰りのんびりと温泉に入り、ラーメンでも食べているのか思うと悔しい思いだった。 ニューヨーク支店には副支店長として6年弱勤務した。支店のあった場所は、あの同時多発テロの対象となったワールドセンターにあった。ワールドセンターの建物は I と II があり、当時、私のいた支店は I の80階にあった。私が帰国した後 II の82階に移ったが、いずれにしても、事件後は跡形もなかった。 当時若かった人達も、その後出世したが、その中に、事件に際して、行員皆を避難させ、自分は最後まで残ってテロの犠牲となった人がいる事は、優秀な人材だけに非常に残念であるとともにつらい思いである。 当時のニューヨークでは商社を除き、多くの日本企業が拠点を持っていなかったので、日本から来られた経営者の対応は、銀行が案内や食事の面倒を見る事が多かった。 ハーバードの経験で、英語をうまく話せなくても外国人に対しての恐怖感がなくなった。 この時の経験が役に立ち、現在中国等どこの国へも現地語が話せなくても平気で出かけている。6年弱のニューヨーク支店勤務を終え本店に戻った。 <転機> 平成元年にテルモ(株)へ入社。 テルモのメインバンクが当時の富士銀行と三菱銀行、三菱信託銀行であり、3行から役員人材が招聘された。海外経験もあるという事で、私がテルモへ派遣された。常務、専務、副社長を経験し、平成7年に社長に就任し、現在9期目である。 |
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テルモとはどの様な会社ですか ? | |
社名の由来はドイツ語の「THERMOMETER(体温計)」から来ている。カタカナの社名の為、よく外資系の会社と間違えられるが、純粋に日本の会社である。
日本では第一次世界大戦の影響を受け、海外からの体温計の輸入が途絶えた。北里柴三郎博士をはじめとした医学者が発起人とり、優秀な体温計の国産化を目指して、1921年に「赤線検温器株式会社」を設立したのが始まりで、その後数度の社名変更により現在の「テルモ」となった。 このように体温計の製造から始まったテルモも現在は様々な医療機器・医薬品を世界150ケ国以上に供給する企業に成長した。主に病院等の医療機関を対象として、多様な医療機器や医薬品を製造販売している。たとえば、電子体温計、医療事故防止に役立つ薬剤充填済注射器(プレフィルドシリンジ)、詰まった心臓の血管を広げて血流を回復させるカテーテル、痛みが少なく短時間で測れる血糖測定システム、腕を通すだけで簡単に測れるアームイン血圧計、点滴剤、血液バッグ、腹膜透析関連、ME機器など。 特に以前の注射器はガラス製で針を交換せずに何人にも使用していたので、完全な滅菌消毒が出来ず、病原菌に感染し、その人の一生を台無しにする事故等が発生していた。そのような事故をなくす為に、使い捨ての注射器の開発に取り組み成功させた。普及まで10年位掛かったが現在ではこの分野では60%を超えるシェアーを占めている。 また旧来の体温計は、水銀を使用していたが、人や環境に対する影響に配慮して、いち早く電子体温計を開発し、水銀体温計に代わり主流を占めることとなった。 最近では、「磁気浮上方式(リニア方式)」という新しいコンセプトを持った左心補助人工心臓を開発し、ヨーロッパで臨床試験を開始した。 |
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会社経営に対する考え方取り組み方は... | |
<経営危機> 私がテルモに入社した当時は、26年間同じ人が社長だったことからか、社内の体質は上をみて仕事をすると言う風潮で活気がなく、会社自体も連結決算3期連続赤字という大変厳しい状態であった。しかも社内には危機感というものが全く無かった。このままでは大変な事になるとの思いから、社長就任後どの様に改革をしたらいいのかを考えた。 <風土改革への取り組み> この指示待ち体質、内向きの体質を変革することが最重要と考え、国内で4,800人位の社員全員を対象に、全国の営業所・工場へ足を伸ばし、社員一人一人に直接語りかける事を始めた。 たとえば工場の中には、今まで工場長も行ったことの無いような工場廃水処理場で汚水処理に1人で取り組んでいる社員もいるし、地方の3~4人しか居ない営業の出張所もあるが、そのような所へも積極的に出かけて話をした。今でも社員一人一人への語りかけは続いており、社内で私と話した事の無い社員は1人もいない。
研究開発・生産・営業・本社部門全てに、経営幹部の間に壁があり、経営に関しての認識がバラバラの状態であった。営業部門では研究開発部門でどの様な製品開発を行っているのかが分からず、顧客のニーズに応えられなかったことが多かった。 一方、研究開発部門と生産現場との連携も悪く、コスト面に対する認識も薄かった。縦の関連を重視し、まるで別会社のように各部門が完全に分かれていた。 経営合宿を行なうこととして、先ず幹部を、その後中堅層を集め、私の経営に対する取り組みについての考えを話した。合宿では、経営の勉強の他に座禅なども行ない、夜は参加者同士の懇親を深める為、私は参加者一人一人と酒を酌み交わしながら語り合った。この方法は、中堅層に特に効果があったようだ。参加者が家に帰って、家族に社長と一対一で酒を飲んだ事を話すと、家族は非常に驚くと同時に感激をしたそうだ。 一般の社員に対しては別の方法をとった。会社の創立75周年に「ふじ丸」を借り、会社全部門から「有言実行」キャンペーンで業績を上げた社員600人ほどを招待し、
私は社員一人一人に話かけたことによって、皆が意識を高め、目覚めたことが現在の高収益につながる要因だと思っている。いくら立派な言葉を並べても、受ける方が本気で受けとめなければ駄目である。銀行時代に取引先で社風が気になった3社を反面教師として、テルモの経営改革に取り組んだ。参考にした3社とも名門老舗であったが、共通して社員のモラルが低く、名前に甘えた体質であった。3社のうち2社は倒産、1社は吸収された。 <社員の心に火を点ける> テルモも医療保険制度によりガードされているせいか、経営に対して甘い考えをもった体質であった。社員が本気にならない限り、社長がいくら立派なことを言っても無駄だということが分っていたので、そのためには、副社長や専務でなく社長が直接動かねば駄目である。 私は社員一人一人との対話により、社員も私の考えを理解し本気になったことで、今日のテルモがあるのだと思う。社員の心に火を点けることが大事である。 特に気をつけなければならないのは、現場を回って同じ質問が3回出たら、すぐに取り上げなければならない。そういった質問は役員会ではなかなか出てこない。たとえ出ても、実際に数字として結果が表れてからであり、その時ではもう遅く対応出来ない。社員の眼の輝きをみれば店の状態が分かる。良い拠点の社員の眼は輝いている。 これらを見極める為にも現場に出て話すことが最良の方法ではないか。云ってみれば、社長は足で考える体力勝負であり社長室にいたのでは駄目である。 <人を軸とした経営> 現在多くの企業が成果主義を取り入れているが、一定の効果はあると思うが、必ずしも手放しで賛成ではない。私は「人は財産でありコストではない」と言い続けている。エリートになるとある程度要領がよく、失敗もないが、無理もしないからそれ以上に伸びもない。 自らが努力しなければ、この財産は目減りしてしまう。自分で頑張れば含み資産が出る。努力して含み資産を増やす事が、人生においても仕事においても大事な事であると云い続けている。 |
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今後の課題は? |
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<医療機器の貢献> 医療の進歩は早い。一昔前は医療というと「薬」中心であったが、今ではむしろ医療機器と薬をドッキングすることが、患者のQOLにとっても医療経済性の面からも有用であることが認められてきた。 良い例が心筋梗塞の場合、以前だと一ヶ月位入院して開腹(胸)手術したが、現在ではカテーテルの使用により2~3日で済んでしまう。患者さんの体力的な負担も、医療費もはるかに小さい。ただし、カテーテルなどの先進的な医療に使われる医療機器は、開発競争が激しい。 医療行為がパテント化する方向にあるのが懸念材料の一つ。今後どの様に対応するか考えなければならない。 <社会への貢献> 会社としては、医療の安全と環境の調和を目指して取り組んでいる。人々の健康に関わる企業として、生産における廃棄物や有害物質の削減、自家発電施設による省エネルギー化、医療現場からの医療廃棄物を削減するための製品の小型化・肉薄化や包装の簡略化や有害物質を出さず焼却できる製品の開発等、地味だが一歩ずつ「医療を通じて社会に貢献する」という企業理念のもと環境へ取り組んでいる。 少子高齢化が進んでいるので、患者の肉体的・経済的負担が少ない治療器具や医療費抑制に寄与する医療器具・システムを中心にした事業展開、また、医療の安全と効率化に寄与するプレフィルドシリンジ(薬剤が充填された注射器)を製薬会社と提携して商品化するなど、新しい事業展開も進めている。また在宅医療分野も事業を強化し、在宅での医療のすべてが揃う「生活医療」の実現を目指している。 |
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横高時代は? 思い出のある恩師は? |
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我々6期は男女共学になって2期目で女子が少なく、8クラスの内半分の4クラスが男女クラスだった。1年生の時は男女クラスであった。この時は新鮮で楽しかった。
模擬テストが終わると、職員室の前の廊下に成績順に貼り出され、競争意識を刺激されたことが思い出される。 プールは工事中で使えなかった。古い講堂で芸大の先輩のピアノ演奏を聴いたり、円覚寺の朝比奈管長の講話が印象に残っている。裏山(現在のグランド)へ行って時間を過ごしたりしたことなども楽しい思い出である。 部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。 部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。 <恩師の思い出> 国語の石渡先生は黒パンといって、担任でもあり、印象深い先生であった。卒業してからも黒パン会として、伊豆のかつらぎ山のハイキング・美ヶ原高原のキャンプへ行ったことが思い出される。黒パン会は何年間か続いたが立ち消えとなってしまった。
体育の本間先生は、我々の入学した時、初めて教職に就かれたので、色々と思い出も多く、現在でも6期全体として交流が続いている。その他、英語の小島先生、国語の志賀先生、数学の高橋先生等が思い出のある先生方である。 ある時、音楽の青山(五十嵐)先生に、「貴方は声が良いから本格的に声楽をやらないか」と勧められたことがあったが、当時は音楽にあまり興味がなかったので、その道には進まなかった。 テルモの研究開発などで、発想を変えることが大切だが、当時の生物の勉強が大変役立っている。そのものに精通するとかえって既成観念に拘って、考えが固まってしまうことが多い。素人の方が柔軟な考え方で思わぬものを見つける。横高時代に金田先生のお陰で生物に興味を持ったことが現在の仕事に大いに役立っていることで、金田先生には感謝している。 忘れられないのは、卒業式での中川校長の言葉である。「人のやらないことをやれ」と言われた。経営でも同じことが言える。特に新製品の開発においては人と同じことをやっていては駄目で、オンリーワンを目指さなければならない。この一言は今でも忘れない。 |
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横高生に望むことは? |
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自分の個性を磨くことが大事。 学校で教えられたから、マスコミがこう言っているから、誰かがこう言っているからでは、この変化の激しい世の中では振り回されてしまう。自分で考えるというトレーニングをしておかないと、これからの人生は生き抜いていけない。 世の中がグローバル化しているだけに、むしろ日本の文化・歴史を勉強しておかないと対応出来ない。多くの日本人は日本の文化・歴史について知らなすぎる。外国人と話す時に、経済成長率がどうの、経済政策がどうだとか話すことも大切だが、自分の国に対する誇りや知識がないと底が浅い話になってしまう。 今、中国に二つの工場があるが、中国のトップと付き合うときは政治・経済の話は一切しない。たとえ話したとしても国家主席と同じ内容の答えが返ってくる。工場のある浙江省というのは南宋の首都で、日本との交流が深く、民度は官吏登用試験で一目置かれているほど水準が高かったことなど、歴史と文化の話をすると物凄く打ち解けて尊敬してくれる。 ところが、日本の人達は経済の話、ビジネスの話しか出来ない人が多く、中国の人と歴史や文化についてまともに話せる人がいない。特に中国では食事の時は取引の話をしないことがマナーである。日本人は取引の話をしてしまうためレベルを低くみられてしまう。 受験勉強用でなく、興味を持って歴史を勉強する事が大事。歴史はちゃんと勉強して置かないと、時代の流れを考える上でも、海外とのビジネスを進める上でも、必要となる非常に大切な事である。 又、横高は武骨な所が良い。かっての横高はどちらかと言うと骨っぽい面が有り、小泉総理や小柴先生が出たのではないか。 これからも武骨な所を保ち、歴史を勉強し、社会に役立つ人となって欲しい。 自分の殻に閉じこもらず、常に一流の人、一流の文化に触れる努力をする必要がある。 |
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取材後記 |
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会食時和地氏の話によると、テルモの研究所が東名高速秦野中井IC傍に建設されたその2年程後に、日野原重明先生の関係するホスピスが近所に建設されたそうです。ホームを訪れると真正面に富士山が見えるのだが、テルモの研究所の建物が邪魔をしている。入居している人達に申し訳ないとの考えから、毎年クリスマスの時期に建物にイルミネーションを施し花火を打ち上げたら大変喜ばれたとのことでした。企業も自己の利益のみ追求しているのではなく、社会にどの様にして還元するのかを考える時代だなと改めて考えさせられました。 話の中で社長は体力勝負と話されたが、実際は体育会系ではないので、普通の体格であるが社員の一人一人と酒を酌み交わす体力は何処から出てくるのか。また地球規模でのご
経営改革にあたり、成功するには社員にやる気を持たせる事が如何に大事なことかが痛感させられもしたが、これはどの分野でもおなじことでないかと思い、実践するための行動力と決断のすばらしさを感じました。 (取材...里見、石井(正)、小野関) |
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[009] 西 岡 淳 さん(高26期) | ||
(取材日:2005年1月22日) | ||
プロフィール | |
昭和46年 | 逗子市立逗子中学校卒業 | |||
昭和49年 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
昭和53年 | 外務公務員上級試験合格 | |||
昭和54年 | 東京外国語大学外国語学部仏語学科卒 | |||
昭和54年 | 外務省入省 | |||
昭和57年 | 在アルジェリア大使館三等書記官 | |||
昭和61年 | 通訳担当官(仏語) 外務大臣、内閣総理大臣等の通訳を務める |
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昭和64年 | 経済協力局開発協力課首席事務官 | |||
平成 3年 | OECD代表部一等書記官 | |||
平成 6年 | 外務審議官企画官 | |||
平成 7年 | 海外経済協力基金 業務第一部業務第二課長 |
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平成 9年 | 宮内庁御用掛 天皇陛下の仏語通訳を務める |
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平成11年 | 在インド大使館参事官 | |||
平成13年 | 在仏大使館参事官、 次いで公使(広報文化センター所長) |
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平成15年 | 内閣府国際平和協力本部事務局参事官 | |||
平成16年 | 独立行政法人日本学生支援機構 留学生事業部長 |
最初に、現在のお仕事について、ご説明をお願いいたします | ||
一昨年の8月まで、パリの日本大使館の公使を勤めていました。
帰国後は、1年間、内閣府の国際平和協力本部事務局で日本の国連PKO活動に関する仕事を担当しました。 現在は、独立行政法人 日本学生支援機構というところで、日本の留学生事業全体を所掌しています。 |
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外交官になられた経緯・動機をお聞かせください | ||
(1) | 何時ごろ(高校時代、大学時代)から、志を持たれましたか? | |
大学2年生の頃、将来の進路について悩んでいた時、知人から外交官試験を受けることを勧められたことが、きっかけです。 | ||
(2) | 小学校、中学校の少年時代どのようでしたか? | |
父親の職業の関係で、転校を繰り返していました。友達ができても、すぐに別れてしまうのが、辛かったことが、今でも思い出されます。 北海道から逗子中に転校してきたのが、中2の2学期でした。逗子中から横高に進学しました。 |
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(3) | 語学がお好きだったのでしょうか? 海外に目をむけられたからでしょうか? 理由をお聞かせください |
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語学に対しては、色々な言葉を理解してみたいという興味はありましたが、中学・高校の英語の成績は人並みです。 歴史が大好きだったので、世界史の舞台となった場所に、何時かは行ってみたいと思っていました。 |
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赴任地の印象をお聞かせください | ||
(1) | 初めての赴任地(アルジェリア?)では、 どのような想いで任務を遂行なさいましたか? |
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赴任直前にパリで結婚式を挙げ、新婚で参りました。当時の在アルジェリアの大使館は、規
大使が不在の時には、臨時代理大使も務めました。御陰で在外公館の全体の機能をよく理解することができ、その後の仕事を進める上で大いに役立ちました。 また、生活環境も厳しい所でしたので、開発途上国で暮らしていくための、良い訓練になったように思います。 |
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(2) | いままでの任地で、何処の国が一番印象に残られましたか。 その理由もお聞かせください |
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どの国も、夫々深く印象付けられました。 その中でも、フランスには、研修も含めると3回在勤し、通算8年余り生活しましたので、友人も多く、関係は一番深いといえます。 アルジェリアもインドも好きですね。 |
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(3) | 成功談、失敗談などエピソードをお聞かせください | |
成功談といえるかどうかは解りませんが、一昨年のエヴィアンサミットを無事に終えられたことでしょうか。
小泉総理は、私の任期中3回訪仏されましたが、フランス政府からは、その都度大歓迎を受けました。エヴィアンサミットの時も、参加首脳の中で、一番最後までフランスにとどまられたので、一般のフランス人も、小泉総理にはとても良い印象をもっています。私もプレス担当として、訪問のお手伝いを致しました。 失敗談はきりがない位沢山ありますので、どうか御容赦頂ければと思います。 |
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外国から日本をご覧になって、感じられたことをお聞かせください | ||
まず、日本からの情報発信が少ないことです。未だに、日本についての偏った報道がなされるのは問題です。外国語による情報の量を格段に増加させる必要があります。 また、現代は、飛躍的に国際社会との関係が深まっています。国際競争も厳しくなっています。その中で勝ち残っていくためには、日本国内で通用するルールが世界でも通用する訳ではないということを、肝に銘じていなくてはならないと思います。 今の日本が享受している平和で豊かな日常生活が、当然のものとしてこれからも続いていくという保障はありません。この点を一人一人が良く認識して、世界的視野に立って物を考え、行動していくことが必要だと思います。 |
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天皇陛下や総理大臣の通訳(仏語)をなさいます時は、 プレッシャーも大きいことと思われますが、 どのような想いで任務を遂行なさいましたか? |
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余りプレッシャーを感じたことはありませんが、鈍感なせいでしょうか。通訳としては、相互に誤解が生じないよう常に注意し、必要があれば、言葉を補うなどの配慮を心がけています。 どんな場合でも、事前の周到な準備が重要ですね。重要な会談の場合ですと、歴史の瞬間に立ち会っている興奮感を覚えます。 |
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漠然とした質問になりますが、外交官の果たす(果たしている)お役目について、 国家や外務省の建前ではない、個人的な想いもお聞かせいただけますか? |
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国家間の関係を調整する上で、政府首脳や閣僚が直接相手側と交渉するケースは増加していますが、そこに至るプロセスで、実務家である外交官の交渉の手腕や資質、そして判断というものが、依然として重要な役割を果たしているのではないでしょうか。 |
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横須賀高校在学中のことをお尋ねいたします | ||
印象に残られたエピソード(部活、思い出、教わった先生、等々)を お聞かせください |
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1、2年生の時は山岳部に所属していました。その頃は、部活が生活の中心を占めていました。1年の夏休みは、南アルプスを縦走しました。途中、雨に降られ、我々は既にテントを張り終わっていたので、難を避けることができましたが、後続のパーティーでは、肺炎を起こした部員が出たと聞きました。週末はもっぱら丹沢に行っていました。 体育祭も一生懸命やりましたが、1年生の時には応援でドジョウすくいをやって、みんなから大笑いされたりしました。 2年生の後半からは、一転して内向的になり、文学書や哲学書を学校の図書館で読み耽るようになりました。 |
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西脇先生はとても温厚な方で、私に対しても決して怒らず、諭してくださいました。無事に横高を卒業できたのも、西脇先生の御陰だと感謝しています。先生の存命中にお礼が申し上げられなかったのが、本当に悔やまれます。 |
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現在は、多くの人々が世界中で活躍をして、 国境が無くなりつつあるような想いにかられますが、 これから、世界へ羽ばたくことを準備中の後輩へ、メッセージをお願いします。 外国語に堪能になるための、秘訣とかはあるのでしょうか? やはり勉強するしかないのでしょうね。 |
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外国語の習得は必須だと思いますが、外国語の習得を通じて、その国の文化や、人々の物の考え方についての理解を広げられることも、一層重要です。相手のことを本当に理解せずに、既成観念に依ったり、独りよがりの言動を行うことは避けなければなりません。 また、自分自身に対する自信や気迫といったものが欠けていれば、どこの国の人にも伍してはいけないでしょう。自分が日本人であることに誇りをもって、自己の能力と人間性を磨くことが重要だと、私自身、自分に言い聞かせています。 知的な訓練の場として、又、日本人としての胆力を練り上げる場所として、横高は最高の学校だと思います。どうか皆さん頑張って下さい。 |
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西岡さんのこれからの抱負をお聞かせください | ||
(1) | 混沌とした世界情勢をどのような想いでご覧になっていらっしゃいますか? | |
国際テロリズムや地球環境問題のような人類全体が直面する問題が、とても心配です。自分の子や孫に、一層平和で豊かな社会を引き継いでもらえるように頑張りたいと思います。日本は日本なりのやり方で、信念をもって、世界がこれらの問題に対処するために、リーダーシップを果たしていかなければならないと考えています。 横高から、外務省に入られた大先輩に、高校3期の西山健彦大使がおられます。欧亜局長、アルジェリア大使、EU大使等を歴任され、今から13年前、58歳の若さで、道半ばにして病に倒れられました。私は外務省に入ってから、何度か直接お話を聞く機会がありましたが、素晴らしい才能に恵まれた非凡な方でした。 私は、後に続く者として、西山大使がやり残したと思っておられた事が何であったのかに考えを巡らし乍ら、日本外交に携わっていきたいと考えています。 |
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(2) | 全世界から、争いがなくなることは未来永劫に望めないことでしょうか? | |
現在、起きている紛争を見ると、政治的な対立だけではなく、人種や民族、宗教といった要素が複雑に絡んでいます。それだけ紛争の根は深く、容易には解決できない性格のものであるといえます。貧困や教育の問題、あるいは民主主義的価値観の受容度の違いといった深刻な問題が、そこには横たわっています。 こうした紛争の原因を除去するには、万能薬や特効薬は無いように思います。息長く一つ一つの問題と対峙して、忍耐強く解決策を見出していくやり方しか、無いように思われます。このような努力を続けていく上で、世論の果たす役割は、特に重要だと思います。 日本はこれまで、国際社会から様々な恩恵を受けて、現在の繁栄を築いてきました。これからも平和国家として、世界に対する責務を、一層果たしていかなければならないと思うのです。 |
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親友からのメッセージ | ||
<中学・高校時代> 西岡淳君との付き合いは、今から36年前に、私が在学していた逗子中学校に西岡君が北海道から転校してきた時から始まりました。特に中学3年生の時は同級で、そのクラスから横須賀高校に進学したのが西岡君と私だけでしたので、高校ではクラスは違いましたが、今日まで親しくお付き合いをさせて頂いております。 中学・高校時代の彼は、普段はガリ勉タイプではないのですが、定期試験や受験前になると、超人的勉強量で好成績をあげてしまうところに非凡さを感じていました。 一方で、語学があまり得意でない私を含む学友に、高度な読解技法を披露してくれる心の広い人でした。また、我々の中学・高校時代はラジオの深夜放送全盛期でしたが、文章力とウィットに富む彼の投稿葉書がラジオでよく採りあげられていた事を思い出します。
<大学時代> <大学卒業後> 高校26期 山崎正幸 |
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取材後記 | |
物静かで、スマートな西岡さんにお会いして感じたことは、強烈なバイタリティです。何事も、やると時はやる! そんな強いオーラを感じました。外交官は大変なお仕事だと伺いましたが、これからも国際舞台での、益々のご活躍を期待致しております。
(高10期・饗場記) これから、世界に羽ばたこうとする方々に、お役にたっていただけると信じて若い世代の外交官にご登場いただきました。お怪我のために、暫くの間、日本で過ごされることになられた時期に取材をさせていただきました。 (高9期・里見記) |
[010] 齋 藤 隆 さん(高18期) | ||
(取材日:2005年7月20日) | ||
プロフィール | |
昭和29~35年 | 市立池上小学校 | |||
昭和35~38年 | 市立池上中学校 | |||
昭和38~41年 | 県立横須賀高等学校(18期生) | |||
昭和41~45年 | 防衛大学校(14期生) | |||
昭和45~46年 | 海上自衛隊幹部候補生学校 | |||
昭和46~54年 | 潜水艦乗り組み | |||
昭和61~62年 | 潜水艦「はましお」艦長 | |||
昭和62~63年 | 潜水艦「せとしお」艦長 | |||
平成 1~ 2年 | 米国海軍大学留学 | |||
平成 4~ 6年 | 第22護衛隊司令 | |||
平成 6~ 8年 | 海上幕僚監部防衛課長 | |||
平成 9~13年 | 海上幕僚監部防衛部長 | |||
平成13~14年 | 舞鶴地方総監 | |||
平成14~17年 | 横須賀地方総監 | |||
平成17年~ | 第27代海上幕僚長 |
海上自衛隊とは... | ||
最初に、現在のお仕事についてお聞かせください。 | ||
私は、現在、海上自衛隊の海上幕僚長という仕事をしています。 海上自衛隊は約4万8千人の人員と約140隻の艦艇、約300機の航空機をかかえています。これらの人員と艦艇、航空機を使って一年365日、日本の周辺海域の警戒監視を実施しています。
これらの活動の総元締め(会社でいうと本社)が海上幕僚監部(市ヶ谷の防衛庁内)というところです。幕僚監部は防衛庁長官を補佐する組織であり陸海空自衛隊がそれぞれ幕僚監部を保有しています。その中の海上幕僚監部の長が海上幕僚長です。 もちろん国民から選ばれた防衛庁長官に部隊を指揮する権限があるわけで、海上幕僚長には、その指揮を補佐する役目があります。海上自衛隊の部隊の指揮、人事、将来の海上防衛力の方向性等について防衛庁長官を補佐する立場にあり、極めて責任の重い配置であります。 |
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海上自衛隊では、潜水艦艦長を2回お勤めとお聞きしております。私たちにはちょっと想像も出来ない世界ですが、艦内の様子、生活などをお聞かせください。 | ||
現在海上自衛隊は18隻の潜水艦を保有しています。一隻の乗員数は約70名程度です。一回の航海は1週間から数週間に及ぶ時もあります。
時々お魚さんは見えるのと子供から聞かれることがありますが、残念ながら遊覧船のように水中ガラス窓があるわけではありませんので外は見えません。しかし聴音機を通して色々な魚の音を聞くことはできます。 航海中の楽しみは食事と外に音が出ないようにヘッドホーンを付けてのビデオ鑑賞程度です。そんな中で70名の乗員が3交代で常に艦を運航しています。乗員同士は極めて家族的であり、艦内で喧嘩等のトラブルが生ずることはほとんどありません。 ある時、出港して一週間くらい経った時だったでしょうか、艦内を蝶々が飛んでいるではありませんか。何処から飛んできたのかと艦内では大騒ぎ(話題が少ないから)調べてみると食料用のキャベツに付いていた青虫が孵化していたのでした。しばらくはその話題で艦内は持ち切り。その後その蝶々はどうなったのでしょうか・・・。 |
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私たちは、船といえばクルーズ、クルーズといえば、世界を廻る豪華で優雅な客船をイメージしますが、それでも、悪天候を考えますと「船酔い」に行き着きます。海上自衛官の方は、「船酔い」に無縁の方ばかりでしょうか? | ||
先天的に船酔いに強い人も、弱い人もそんなにいるものではありません。 海上自衛官と言っても普通の人、船酔いはするものです。でも出港して二、三日も揺られるとだいたい慣れるものなのです。 後輩諸君で海上自衛官を希望されて船酔いが心配な方は、是非とも潜水艦を希望して下さい。どんな台風の中でも数十メートル潜ってしまえば、それは静かなものですよ。船酔いしません。 |
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航海中、赤道祭のようなものはやるのですか? | ||
潜水艦は、そういう海域まで出ませんが、遠洋練習航海という、防衛大学校を卒業して幹部候補生が1年間職業教育を江田島で受け、それが終わったあとに150日位、各国をまわるときがあります。 その折に、赤道を通るときに、やりますね。まあ、そのときばかりは無礼講といった感じでしょうか。 |
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最近の自衛艦は、世界の各地に派遣されていますが、灼熱の地や、極寒の地での艦船の様子をお聞かせください。 | ||
海上自衛隊は現在、テロ対策特別措置法に基づきインド洋に護衛艦2隻と補給艦1隻(8月中旬からは1隻ずつ)を派遣しているほか、練習艦1隻、護衛艦2隻の合計3隻が世界一周の遠洋練習航海に出ております。(9月20日に帰国) また、南極観測船「しらせ」は毎年11月から4月にかけ、文部科学省が実施する南極観測を支援しております。
まず灼熱のインド洋では、艦上での最高気温が50度以上にもなり、鉄製の甲板上では、目玉焼きが出来るほどです。 |
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それでは、海上自衛隊での若い頃の様子とかエピソードなどをお聞かせください(成功談・失敗談など)。 | ||
失敗談は一杯ありますが、多くは若干専門的な話となりますので・・・。潜水艦に乗り込んで間もない頃の話をひとつだけします。
潜水艦に乗り込むと特別に手当がつきます。それで独身貴族を謳歌していました。 |
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自衛艦で思い出に残る艦船はございますか?ありましたらお聞かせください。 | ||
若干専門的な話しになってしまい恐縮ですが、約10年前のことです。 海上幕僚監部の防衛課長時代(将来を予測し、どの様な艦、航空機を整備していくかを考える中核部署)に今後の情勢を予測し、護衛艦の数を減らし、その代わり、その下支えとなる補給艦等を増やす方向に方針を転換しました。そこで、より大型の補給艦2隻を新たに建造し、補給艦を4隻~5隻体制としました。
そして今年、13,500トン型補給艦の2番艦「おうみ」が完成し5隻体制となりました。これでインド洋での給油活動の負担も少し軽減されました。 もちろん当時は、テロ対策で海上自衛隊がインド洋の給油活動に参加する事態など予想もしていませんでした。しかし時代の流れ(本流)は見失っていなかったと若干自己満足しているところであります。 |
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これからの抱負をお聞かせください。 | ||
今年(平成17年/2005年)は日本海海戦100周年の記念すべき年であります。当時、江戸末期の海軍黎明期から数えて50年にも満たない経験の浅い海軍が大国ロシアを相手に戦ったのであります。
翻って海上自衛隊は創設50年をすでに超えました。国難があればきちっとした対応ができなくてはならない円熟期に入っていると自覚すべきでありましょう。色々問題は抱えてはいますが、総じて現在の海上自衛官の練度、士気は他国の海軍からも高い評価を受けています。しかし現状に甘んじていてはなりません。 我々が防大に入った時代は艦に乗れば外国に行けるというのが魅力の一つでした。しかし今は飛行機で行こうと思えば世界の何処にでも行ける時代です。また少子化が進む中、誰が好んで親元から離れた海上勤務を選択するでしょうか。 日本は海洋国家であります。しかし、海洋に関する国民の関心が薄れてきているような気がします。海洋国家の国民が海洋に関心を持たなくなってしまったら国が滅びるような気がしてなりません。 元気な若者を長期間洋上で勤務させるためにはそれなりの工夫が必要でもあります。先程述べましたように、今年は日本海海戦100周年の記念すべき年であります。明治の気概に学びつつ、海洋の問題について少しでも国民の皆さんに理解が深まるように努力したいと考えています。 |
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学生時代の思い出は... | ||
小学校、中学校の少年時代はどのようでしたか? | ||
小学校低学年時代は非常に病弱で神経質な子供でした。学校から帰ると疲れたといって横になるという状況でした。 中学に入って陸上をやるようになってから体も丈夫になってきました。 |
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県立横須賀高校時代の思い出などをお聞かせください。 | ||
中学時代から始めた陸上競技を高校に入っても続けました。
顧問の先生は私が2年の時、横高陸上部を全国優勝に導いた本間慎司先生でした。 当時の3年生(1年先輩)には全国級の選手がゴロゴロいる状況で、この様な先輩の中で練習したおかげで、それほど素質のない私でしたが、200mハードルではインターハイ全国大会に出場することができました。 当時を振り返ると、陸上の練習と勉学だけに励んだ極めて真面目な学生だったと思います。 しかし学科については好き嫌いが激しく、数学、物理はかなりの自信がありましたが、国語、英語は惨憺たるものでした。 |
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思い出に残る先生はいらっしゃいますか? | ||
思い出に残るといえば、本間先生と、同じクラスで3年間もちあがりですから担任の、数学の先生で鉄仮面というあだ名の大川先生。お顔を見たら、そのまま鉄仮面という感じなので、これはとんでもないクラスに来たなと思いましたが、ところがすごく心優しい方なんですよ。ニーっと笑うとなんとも。
私はどちらかというと数学はまかせろというほうでしたので、先生から比較的かわいがってもらったという印象があります。 あとは陸上をやってましたので本間先生。 当時まだビデオがありませんでしたから、8ミリ映写機で撮ったものを見せていただいたのをよく覚えてますね。 |
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それでは次に、防衛大学校を志望した経緯、動機をお聞かせください。 | ||
私の親父は横中を卒業し海軍機関学校に入り、終戦後も海上自衛隊に奉職した人間です。祖父は福島から海軍の水兵として横須賀に移り住んだ人間であります。 今でこそ抵抗はなくなりましたが、当時は学生運動華やかな頃であり、自衛隊に入ることに関して世の中では「え?何故」という風潮でありました。 |
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防衛大学校時代についてもお聞かせください。(陸上競技は続けられたのですか?) | ||
当初、防大では陸上をやるつもりはありませんでした。好きな物理の勉強をゆっくりやりたかったのですが、防大の実態は懸け離れていました。そんなこんなあり、4年生からの強力な勧誘もあり、入部せざるを得なくなりました。
学生生活はもちろん全寮制ですから、1年生の時は特に慣れていないせいもあって、朝から時間に追われる日々でした。しかし防大の陸上部は全般にレベルが低かったこともあり、1年生から結構幅をきかせることができ、クラブ活動においては息を抜くことができたというところでした。 中学時代から幅跳びを始めて、高校、大学と性懲りもなく通算10年間続け、なんとか7mは超したいと思っていましたが、かないませんでした。防大3年の頃には、練習では7m近く跳んでいたのですが、残念ながら公式記録は6m55cmでありました。今でこそ見なくなりましたが、40才頃までは7mを超える空中遊泳の夢を時々見ていました。 |
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その学生生活ぶりというのはどんなものだったのですか? | ||
たとえば夏ですと、朝6時に起床してすぐ整列して点呼で、それから体操して、そのあとすぐ掃除です。
12時で食事ですが順番が回ってくると配食もやらないといけない。 よく時間がないから勉強ができないと言いますが、時間があったって、やらない奴はやらないんですよ。 |
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横須賀高校の現役生へのメッセージをお願いします。 | ||
戦前、横中は海軍兵学校、機関学校、経理学校の予備校といわれていた時代もありました。横須賀には海軍鎮守府、そして大きな海軍工廠があり多くの海軍の師弟が在住していた関係もあったのでしょう。
しかし鹿児島、岩手等が多くの大将を輩出しているのに、横須賀からはその割には将星が生まれていません。 振り返って現在の海上自衛隊を見てみますと、かなりの横高出身者が重要な配置を占めています。なにもこれは私が海上幕僚長だからということではありません。 自由闊達な横高教育、そして時には厳しい体育の授業等々、これらから培ったバランス感覚(知育、徳育、体育のバランス)が、海上自衛隊の風土にあっているのではないかと考える今日この頃です。 「後輩諸君、日本は海洋国家です。海洋の安定的利用が日本の繁栄に繋がります。志ある者は、来たれ海上自衛隊へ!」 |
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<参考>海上自衛隊のURLは、http://www.mod.go.jp/JMSDF/ です。 |
(注)2007/1/9 防衛省昇格によりURL変更しました。 (2007/1/21) | ||
横須賀高校陸上競技部時代の恩師 本間愼司先生からのお祝いメッセージです。 |
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高18期の齋藤隆君の海上幕僚長御就任おめでとう御座います。 この事は朋友会会員の皆様方どなたも、きっと、お喜びくださっているものと思います。 御本人は勿論、朋友会会員の皆様おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。 彼は、池上中学校の頃から陸上競技を始め短距離と走り幅跳びを中心に練習をしていた様でありますが、昭和38年横須賀高等学校に入学して参りました。 その頃、一学年上に池上中学の先輩にあたる、石井 満・後藤和夫・西村隆夫・根上 進・(田浦中学)から大森哲夫・(三崎中学)から三上賢司・(坂本中学)から田村泰雄・(不入斗中学)から川浦健作達が居て、翌昭和39年の大阪での全国インターハイに優勝すると言う猛者が揃って居りましたが、彼は何に臆する事も無く、自然に陸上部に入って参りました。やや小柄で目立つ方ではありませんでしたが、中学時代と同じく短距離・走り幅跳びを中心に練習を続けておりました。彼はいつも明るく、礼儀正しく、真面目で、練習にも真剣に取り組んでおり、大柄な陸上部員の中に在って、人の倍以上の努力をしておりました。 2年の時の県大会では、走り幅跳びで第4位に入賞し、また、その年の大阪インターハイには、選手ではありませんでしたがマネージャー兼選手と監督との使い走りとして活躍をして頂きました。2年生の秋頃から、やや小柄なのに、200mハードルの練習も始め、その翌年3年生になっては、県大会で200mハードル優勝、走り幅跳びはやや不調で第5位、そして一人400mづつ走る4×400mリレーの第一走者としてトップでバトンを渡すと言う大奮闘をいたしました。200mハードルでは関東大会も通過し全国インターハイにまで進出致しましたが、力及ばず決勝進出はなりませんでした。何事にも一途に突き進んでゆく当時の彼の姿は、今でも私の瞼に浮かんで参ります。そして、翌年卒業と同時に憧れの防衛大学へと進んで参りました。 彼は、防衛大学に入学するや、その明るく、礼儀正しく真面目で、何事にも真剣に真っ直ぐに取り組んでゆく姿勢は、やがて大学の先生方・自衛官の方々・防衛庁の方々から高く評価されていたのではないかと思います。 どうか健康に十分留意されて大任を無事全うされます事を心から祈念致します。そして、神奈川県立横須賀高等学校の益々の発展と、拡大の環が広がり続ける朋友会の結束の絆が益々強くなります事を祈念致しまして筆を置かせて頂きます。 拙い一文で御座いましたが、これを私に依頼して下さった、高10期の饗場元二さんに深く感謝致します。有難う御座いました。 昭和26年~昭和60年 陸上競技部 顧問 |
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取材後記 | |
翌日から夏休みという7月20日、全校集会を終え、クラスで大掃除とホームルームを済ませ、あわただしく市ヶ谷へ向かいました。 防衛庁の入口は、さすがに警戒厳重という雰囲気でしたが、まずは海幕長副官の方にお出迎えいただき、また広報担当の方の案内で、市ヶ谷記念館各所を見学しました。この記念館は、三島由紀夫事件や極東軍事裁判の法廷として使われたことで有名な建物の主要部分を移設、復元したもので興味深くもありました。 朋友会の元文会長、陸上部のOB会(記恩ヶ丘走友会)から三澤名誉会長、そしてHP委員会の里見委員長に率いられての緊張した初取材となりました。 齋藤さんのお話をうかがいながら、後進の育成に思いを致すことは、将来のためにすべての分野で共通なものを感じました。 (高31期 岡花記)
いささかの緊張の中で訪れた防衛庁、精悍な笑顔で迎えてくださいましたのは、2人の横須賀高校OBでした。 (高9期・里見記) |
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[011] 島田 章三 さん(高5期) | ||
(取材日:2005年9月22日) | ||
プロフィール | |
昭和8年7月 | 神奈川県浦賀町大津(現横須賀市大津町)に生まれる | |||
昭和15年 | 横須賀市立大津小学校入学 | |||
昭和22年 | 横須賀市立馬堀中学校入学 | |||
昭和25年 | 神奈川県立横須賀高等学校入学 美術部入部 | |||
昭和28年 | 同校卒業 | |||
昭和29年 | 東京藝術大学美術学部油画科に入学 | |||
昭和33年 | 同校卒業 油画専攻学科に進む | |||
昭和35年 | 同校 油画専攻学科を終了 | |||
昭和41年 | 愛知県立芸術大学に常勤講師として赴任 | ||
昭和43年 | 同校より愛知県在外研究生として1年間海外派遣される パリに滞在し、スペイン・イタリアなどを廻る |
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昭和44年 | 帰国 同校 美術学部助教授となる | ||
昭和49年 | 同校 美術学部教授となる | ||
平成4年 | 同校 美術学部教授を退官 客員教授となる | ||
平成5年 | 紺綬褒章を受章 | ||
平成8年 | 愛知県立芸術大学名誉教授となる | ||
平成11年 | 日本芸術院会員に任命される | ||
平成13年 | 愛知県立芸術大学学長に就任 | ||
平成16年 | 文化功労者に顕彰される |
主な受賞等 | ||
昭和22年 | 納税ポスターコンクールで全国一位となり大蔵大臣(現財務大臣)賞を受賞 | ||
昭和32年 | 国画会展に初出品 国画賞を受賞 《ノイローゼ》 | ||
福島繁太郎の推薦により初の個展を開催 | |||
昭和36年 | 国画会会員となる | ||
昭和42年 | 第11回安井賞を受賞 《母と子のスペース》 | ||
昭和51年 | 第29回中日文化賞を受賞 | ||
昭和55年 | 第3回東郷青児美術館大賞を受賞 《炎》 | ||
平成2年 | 第8回宮本三郎記念賞を受賞 《鳥からの啓示》 | ||
愛知県教育委員会より愛知県文化功労賞を受賞 | |||
平成5年 | 第26回東海テレビ文化賞を受賞 | ||
平成9年 | 愛知県知事表彰を受ける | ||
平成11年 | 1998年度日本芸術院賞を受賞 | ||
平成17年 | 名古屋市芸術賞受賞 | ||
これまでの経緯について | ||
画家を目指した動機は | ||
幼い頃から、絵を画く事は好きであった。画家の道を目指した第一段階は、馬堀中学の2年生の時(昭和22年)納税ポスター・コンクールがあり、応募したところ、全国一位となり大蔵大臣賞(現財務大臣)を受賞したことである。賞金として5,000円(現在では約200,000円位)を貰い、その賞金で油絵の道具・材料を購入したのが始まりであった。 その後、昭和42年に画家への登竜門と言われている第11回安井賞を《母と子のスペース》で受賞した事で画家として生活できる自信がついた。これが第2段階だと思っている。 中学生時代は、市内の中学校には、不入斗中に小川、池上中に原、馬堀中に島田と優秀な人材がいた。これらが揃って横高に入学し、美術部に入部し、お互いに切磋琢磨しながら美術の勉強に励んだ。 |
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東京芸術大学入学について | ||
昭和29年に東京芸術大学に入学したが、同校は入学定員が少なく当時同校に入学するのは大変難しかった。東京大学が14倍強の入学倍率であったが、東京芸術大学はそれより少し高い16倍の倍率であった。又、東京芸術大学を受験するには、普通3~4年間研究所等で絵画の勉強をしなければ入試で合格する事が出来なかった。幸いにも私は横高の美術部での絵画の勉強だけで合格し、入学する事が出来た。これは、横高の美術の宮川先生をはじめ諸先生がたから暖かく見守っていただき、献身的なご指導の賜と感謝している。 東京芸術大学美術学部を卒業とともに、油画専攻学科に進み、油画の研修を行った。東京芸術大学在学中に国画会展に初出品し国画賞を受賞し、福島繁太郎氏の推薦により初の個展を開催する等の活動をした。しかし画家としての生活は大変なものであった。画材のうち特に油絵具は高価なものであり、画材費を捻出するのに大変苦労した時代であった。 |
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東京芸術大学卒業後は | ||
横浜西口の岩崎学園で研究所を開設し、東京芸術大学の学生達に講師として絵画を教えていたが、家賃もちゃんと払えない状態であった。
しかし、その生徒の中から若くて優秀な人が何人か出た。 以前から親交のあった高3期の髙梨昌芳さん経営のタカナシ乳業(株)の社報の表紙を画いて原稿料を頂き、画材を買っていた時代もあった。 |
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[注:現在髙梨さんは同社の会長であり、壽子夫人は島田さんと同期の5期生である。] | ||||
愛知県立芸術大学との係わりは | ||
東京芸術大学在学時、師事していた教授が、名古屋出身であり、愛知県で芸術大学を開校するとの事で、昭和41年に講師として推薦され赴任したのが始まりであった。 学校は名古屋市の郊外にあり(愛知万博の会場の近辺)、当時としては革新的で理想的な建物であった。又、開校して間が無いため革新的な教授も多く夢のある大学であった。 昭和43年に愛知県在外研究生として1年間海外派遣され、パリに滞在して、スペインやイタリアなどを廻り、絵画の勉強をした。画家になるためには自費でパリに渡り絵画の勉強をするのが普通である。 私は愛知県在外研究生のため、県から給与を貰っていたので、普通の人よりは好条件であり、皆よりは一寸高級なモンマルトルの丘のぶどう棚のある場所のアパートに住む事が出来た。 この1年間の海外研修は、その後の私の画家としての大成、日常的や精神的なテーマに傾倒し、造形の革新を追求して、一目瞭然それと分る島田様式の確立、今、皆さんから「かたちびと」と呼ばれている画風の完成に大いに役立ったと思っている。 帰国後、教授・名誉教授・学長に就任し現在に至る。 現在は、昼間は学長として学校の運営に関わるため、夜に絵を画くという生活をしている。 |
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画家として大成されておられますが | ||
画家として大成するまでには、大変苦しい時代がある。私の場合は大学の講師・教授としての勤務があったので、ある程度の生活は出来たが、それでも画材費の捻出には苦労した。世界でも日本でも有名画家と云われている人達でも、最初から有名ではなく、一流画家になるために苦労を重ね頑張ったからこそ、その地位や名声を得たのである。 名前が売れると生活も楽になるとと思われ勝ちだが、それは、ごく一部の人たちで、多くは画廊・画商の方達がいなければ生活は成り立たない。画廊・画商の方が個展等の会場準備、宣伝、販売を行い、その一部が画家に画料として入ってくる仕組みである。 |
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芸術家ご一家ですが(取材班が紹介) | ||
兄の故修二さん(中34期)は歌人として別分野で活躍されておられました。 父君は京都工芸大学(現京都繊維大学)を出て浦賀船渠(現住友重機械工業)の客船インテリアデザイナーとして、母君は斎藤茂吉門下の歌人でしたので、島田さんはそれらの血を引いているのではないでしょうか。 ちなみに、鮎子夫人は東京芸術大学時代の同級生で、現在画家としてご活躍です。 |
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横高時代は | ||
前にも述べた様に、中学時代から絵画で優秀な人材と云われていた不入斗中の小川清彦君・池上中の原和子君と馬堀中の私と、今で言う野球のスカウト合戦ではないが揃って横高に入学する事ができ、美術部に集まった。1年後輩には横須賀市中央公園のモニュメントをデザインした最上寿之君が入部し、横高の美術部が最も充実した時であった。
当時の横高はどちらかと云うと受験勉強一本槍の時代であった。先輩達が大学卒業後は一流会社に就職したとの話題が多かった。 そのような中、私は美術一辺倒で暇さえあれば絵を画いていた。 |
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思い出に残る先生は | ||
特に担任であった山田(宮澤)先生を始めとして、小川・渡辺・美術の宮川先生達が思い出に残っている。 当時の先生がたは教科書だけでなく、自分で種々の本を使って献身的に我々生徒に様々なことを教えてくれた。現在でも当時に教えて貰ったことが大変生きている。
山田(宮澤)先生には、色々と励まされて、美術に専念出来た事が、今日の自分があると感謝している。だから今でも信州の山田先生を時々訪問している。 その他、当時の中川校長も思い出に残っている。中川校長は斬新的な考えを持っておられ、我々5期は男女共学の最初の学年である。男女共学には反対の先生も数多くいたと云われていたが中川校長が男女共学に踏み切ったと云われ、この様な事が他の高等学校と違い、先生がたにも自由放任主義のような所があり、自己責任で何事も行うという校風があるのではないか。形にはまった人間形成でなく独自の生き方を学ぶ事により、数多くの著名人が出ているのではないかと思われる。 |
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在校生に望む事は | ||
先ず、何事でも受け入れる人間でないと成功しない。又、謙虚でなければならない。 自分の才能を早く見つける事。成功する為には頑張らなければならないが、駄目だったら何時までもその事にしがみついていないで、早く辞める事が大切である。真面目だけでは成功しない。 特に美術の面では、直感的にならなければならない。考えた時はいい作品は絶対に出来ない。絵画では基礎であるデッサンが一番重要である。 何事も基礎を大事にして物を正しく見て正しく画く事が大切で、常に感激したものを持つ事が重要である。 |
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取材後記 | |
(取材日 平成17年9月22日) 今回は、9月に地元横須賀での個展開催時に、三和義彦さん(高7期)の手配により同期の髙梨壽子さんの同席を得て取材する事が出来ました。愛知県立芸術大学学長として公務ご多用中、又、個展開催時ではありましたが島田さんには快くお引き受け戴き有り難うございました。
取材当日、偶然にも堀江三俊先生も会場にご夫妻でお見えになり、島田さんと談笑されておられました。 同期の髙梨さん、以前より親交のある三和さんを交えての取材でしたので、横高時代の思い出に話が弾み、予定時間を大幅に超過し楽しい一時が過ごせました。 話の中で、髙梨さんより島田さんの結婚式の時のエピソードが披露されました。 結婚当時は、島田さんの話にもあったように、大変な時代だったとの事。披露宴の出席者には後日記念品として島田さんより一人ひとりに絵が贈られたとのこと。 島田さんはその事はすっかり忘れていて、「そんなことがあったかな」と。 当時の島田さんは、現在の名声は無かったと思われますが、今となるとその絵を大切に取っておいた方は大変な価値のある物となっています。 最後になりますが、手配をして下さいました三和義彦さんに感謝申し上げます。 (取材担当 幸嶋孝治(高5期)・小野関浩(高11期))
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[012] 小林 俊一 さん(高13期) | ||
(取材日:2006年5月5日) | ||
プロフィール |
昭和33年 | 横須賀市立池上中学校卒業 | |||
昭和36年 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
昭和43年 | 早稲田大学法学部卒業 | |||
昭和43年 | サントリー(株)入社 | |||
昭和51年 | サントリー(株)退社 | |||
昭和52年 | ケニア・ナイロビへ行く(スワヒリ語を学ぶため) 以来今日まで29年間、ケニアに住む。 |
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<以後、ケニアのナショナル・チームに同行する> | ||||
昭和54年 | モスクワ プレオリンピック |
昭和59年 | 世界陸上 ヘルシンキ大会 | ||
昭和59年 | ロサンゼルス オリンピック | ||
昭和62年 | 世界陸上 ローマ大会 | ||
昭和63年 | ソウル オリンピック | ||
平成3年 | 世界陸上 東京大会 | ||
平成4年 | バルセロナ オリンピック | ||
平成8年 | アトランタ オリンピック | ||
平成10年 | 英連邦大会 クアラルンプール(マレーシア) | ||
平成12年 | シドニー オリンピック | ||
平成16年 | アテネ オリンピック | ||
平成18年 | 英連邦大会 メルボルン(オーストラリア) |
お仕事について | ||
● | 現在のお仕事についてお聞かせください。 | |
ケニアのランナー(長距離選手)を、日本の学校(高校・大学)や企業に斡旋、紹介するコーディネーターの仕事をしています。ボランティアでは、飯が食べていけないので、選手を紹介する学校・企業からコーディネート料という顧問料を受け取っております。 大相撲のモンゴル、サッカーの中南米・ヨーロッパ、プロ野球のアメリカ・キューバ・ドミニカ、バスケットボールのアメリカ、卓球の中国など、いろいろなスポーツ界で活躍する外国人のプレーヤーを日本にジョイントさせる仲介人がいるから日本でプレー出来るわけです。 外国人が日本で仕事(スポーツ)をするには、出入国管理事務所から労働許可書を取らなくてはなりません。ケニアの中学、高校卒業のランナーを日本に行かせる場合、まず、パスポートの作成、日本での身元保証人など諸手続を私がすべて代行します。こうして就学ビザ、就労ビザも下り、いよいよ日本に行くためにケニアを旅立ちます。 15才~18才のケニアの少年・少女は、飛行機に乗るのも、エレベーター、エスカレーターに乗るのも初体験です。もっと身近なところでは、洋式のトイレの使い方が分からないので、こと細かく教えてあげなくてはなりません。飛行機に乗って安全ベルトを締めますが、これのはずし方が分かりません。すべてこと細かく私が、教えてあげるのです。でもそこは若者、一度教えればのみ込みは早いものです。 日本に来てからも異文化(日本の文化)の吸収は早く、すぐ理解してしまいます。日本の私たちは、中学、高校、大学と英語を学んできたけれど、英語をペラペラ話せる人はそんなに多くはいません。ところが、ケニアの子供たちは、一年も日本にいると日本語を実に上手にしゃべれるようになります。大相撲の朝青龍、琴欧州なども、実に上手に日本語をしゃべるでしょう。ケニアは、かつて英国の植民地だったので、共通語は英語なのですが、29年ケニアにいる私は、いまだに英会話は上手にしゃべれません。 日常生活や、仕事での打ち合わせはすべてスワヒリ語と英語でしますけれど、たどたどしくて決して上手とはいえません。でも、ケニアの子供達は実に上手に日本語を話します。私の女房は、モンゴルやケニアから来たこれらの人々が日本語を上手に話すことに大変驚いております。 私はこの仕事を日本に持ち込んだパイオニアとして、自負し満足しております。 |
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● | ビジネスマンから現在の仕事に変わられた経緯、動機をお聞かせください。 | |
以前はサントリーでビールを売る営業の仕事をしていました。これもビジネスなら今のコーディネートの仕事もビジネス、この世の中アイディアひとつでいろいろな仕事が巷に転がっていると思います。サントリーをやめてケニアに行くと決心をしてから1年間、英会話と写真の技術を習得するために三浦市の市民講座に通いました。当時私は34歳、あの頃本当に元気そのものでした。 両親は、私がアフリカのケニアに行くと言ったらびっくりして反対しました。しかし、私の心の中では広く大海に舟を漕ぎ出してみたいという血が騒いだのです。その気持ちが今でもケニアに居させるのだと思います。父は今でいうJR、昔の日本国有鉄道で測量の技師をしていました。趣味だったのかな?英会話で横須賀の米軍の兵士と話すのが大好きな人でした。言ってみれば、私は父の血を引いているのだと思います。 私は、昭和52年にケニアに行き、当初はスワヒリ語を学びながら写真の技術を生かしフォト・ジャーナリストを志しました。そのためケニア陸上競技連盟、ケニアオリンピック委員会、ケニア体育協会、この三つのスポーツ団体に足を運び、顔を売ったわけです。顔なじみになるとどの世界でもそうだと思いますが、人と人とのつながり、顔を知られることはとても大切だと思います。 1978年(昭和53年)私がケニアに行った次の年、アルジェリアの首都アルジェでオール・アフリカ・ゲーム(全アフリカ・スポーツの祭典)が行われました。この時私は、ケニアオリンピック委員会の推薦でプレス(カメラ記者)としてIDカードを取る事が出来ました。 それ以来ケニアのナショナル・チームに同行して、オリンピック、世界選手権、英連邦大会と渡り歩いて、ケニアでは変な外国人、変わった日本人と思われているでしょう。 |
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学校時代は | ||
● | 小学校、中学校の少年時代はどのようでしたか。 | |
小学校の時は、普通の少年だったと思います。中学時代のクラブ活動は陸上競技部、走ることが大好きでした。ただグランドを走っていれば気が済んだ少年でした。勉強はビリ。でも中学3年の10月からアチーブメント・テストがある翌年の2月までは猛勉強をしました。生涯で一番勉強したのは、あの中学時代の5ヶ月だったと思います。
横高に入りたくて、ただその一途な気持ちでした。お袋(今も健在、90歳、三浦市に在住)が「しゅうぼう、寝なくて大丈夫かい」と心配してくれたこの言葉を励みに、ただ横高に入りたくて猛勉強をしました。 |
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● | 横須賀高校時代の思い出などを聞かせてください。 | |
勉強はからきしだめでしたが、1年に2度私が登場する時がありました。秋の運動会と弁論大会です。運動会の時は、長距離走からリレーまで大活躍で、絶えずトラックに立っていたのを覚えています。弁論大会の時は、人の前でしゃべることが苦にならなかったし、あがることがなかったですね。思いつくままに良くしゃべりました。これは私の一種の特技だったと思います。
クラブ活動は陸上競技部で、本間慎司先生と毎日夕方暗くなるまで、あの250メートルのトラックをぐるぐる走りまくっていました。横高の長距離部員は4人いたと記憶しています。私は関東大会にも行けなかった3流のランナーでした。ただ走るのが好きという素朴な原点が、アフリカに行って生きるのですね。そして今日のビジネスにつながったのですね。 人生、こうして振り返ると面白いものですね。 |
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ケニアでの活動について | ||
● | ケニアから日本に紹介したランナーについてお聞かせください。 | |
私は、アマチュア・スポーツの原点、頂点はオリンピックだと思っているし、そう信じています。私がケニアから日本の実業団に紹介したランナーで、オリンピックのケニア代表となり、メダルを取った選手が2人います。 ○ダグラス・ワキウリについて 1983年、S.B食品の監督をしていた中村清さんに、「先生、脚力2番手、性格が良く練習大好きという18才の青年がいますよ」と紹介しましたところ「ニュージーランドのアシュ ○エリック・ワイナイナについて 私の個人的な意見ですが、コニカミノルタの酒井監督は、日本の実業団の監督・コーチ(長距離)では、指導力は、ピカ一だと思います。 私の自負は、優勝引受人、優勝請負人です。高校では仙台育英高校、大学ではかつての山梨学院大学、実業団では、男子・コニカミノルタ、女子・宮崎沖電気と駅伝の全国大会で優勝しているチームに、私がコーディネイトしたケニアのランナーがいることです。こうして27年、私がケニアと日本のスポーツを通じて、文化のかけ橋となっているのもケニアの子供達、その両親、家族の喜ぶ姿を見ることが楽しみだからです。
「二本の脚で人生を切り開け! ケニアの田舎で一生百姓して、とうもろこしとジャガイモ、にんじん、キャベツを作るのも人生。走ってオリンピックのスタートラインに立つのも人生。好きにしたらいい。私は君の選ぶ道を応援するから。あなたには幸い素晴らしい長い距離を走る才能がある。これを生かさない手はない」と言って聞かせます。 |
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● | ケニア国内で、どのようにして優秀な選手を見つけ出すのですか。 | |
選手の見つけ出し方、これは一言でいうとカンとひらめきなのです。 池上中学校、横高時代、長距離の三流選手だったけれど、三浦半島レベルの駅伝、ロードレースでは、それでも強い方でした。私は、走る事が好きでした。それが今は走るのを見るのが好きに変わりました。 そしてケニアのナイロビから300キロも離れた、まさにアフリカのサバンナの草原や海抜2000メートルの高地、朝靄の中朝露をふんで裸足で着の身着のまま、これといった指導者コーチがいる訳でもなし、ただ黙々と走る子供達の中に将来花咲くだろう選手を見つけ出すこと、これは結構楽しいものですよ。 他の国々にもどのスポーツにも、私の様なスカウトがいるのです。ケニアの長距離のスカウトをするために29年前アフリカにいったのではないのです。ただ、「目指すはアフリカのケニア」「そこに何かがあるぞ」といった漠然としたカンとひらめき、これなのです。それが今、ビジネスとして花咲いている訳です。 |
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ケニアでの生活について | ||
● | 奥様との出会いなどをお聞かせください。 | |
私は、34歳の時ケニアに行き、そこで旅行者として来ていた当時27歳だった群馬県出身の女性と出会いました。この人が今の私の女房です。知り合って1年間文通をしました。そして結婚することになった訳です。
私が数えで40歳になる年に男の子を授かりました。ナイロビで生まれ、日本大使館に出生届を出したケニア生まれの日本国籍のひとり息子は、小学校、中学校、高校と、ケニアの英国系の学校で学び、今、米国アリゾナ州立大学の4年生。今年12月晴れて卒業します。 途中2年間は、他の大学でゴルフ部のチームのメンバーとして活躍していました。 私は世界を目指したマラソン選手、ケニアのダグラス・ワキウリ、エリック・ワイナイナ、タンザニアのジュマ・イカンガー、エチオピアのアベベ・メコネン、ベライネ・デンシモ、ジプチのアーメド・サーラ、ロブレ・ジャアーといった一時期マラソンで頂点に近づいたスポーツ選手をたくさん見てきました。彼らは、才能もさることながらその努力のすさまじいこと、これでもかこれでもかと自らに負荷をかけて苦しみぬいていました。彼らは走る事がただ好きな連中でしたね。走って走って、朝から晩まで走りまくっていました。 だから、息子には「スポーツで飯を食べていくって大変な事だよ」と、よく言ったものです。それでも、ゴルフ道を極めたいと言うから、それではやりなさいと言いました。あと5年、私は息子をじっと見守って行こうと思っています。 私の女房はネアカな性格でして、息子の母親としてインタビューを受けたいのだと言っています。オーガスタのグリーンジャケット、そう、あのマスターズ・トーナメントを制する最初の日本人は「走」なんだときめています。こういう、ネアカな母親のもとで育った子だから、息子はネアカな明るい青年です。何か親バカ、パパバカ、子離れしない父親だけど、世界中、この世の中、親子関係なんていうのは、みんなこういったものでしょう。 |
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● | ケニア・ナイロビでの生活をお聞かせください。 | |
ナイロビでの生活は、午前中デスクワーク、その後ケニア陸連、オリンピック委員会、体育協会に出かけ情報の収集、午後は運動代わりにゴルフに出かけます。ひとりで9ホール、ボールを2個ずつ打ちながら回ることもあれば、ケニア人と連絡を取り合って、メンバーコースで18ホールプレーすることもあります。 今の趣味はゴルフ。ケニアでゴルフに出会う前は、ジョキングと水泳が趣味でした。私は、日本時代はゴルフをしなかったし、するチャンスもありませんでした。 1983年ロスオリンピックの前年、日本から来た友人に誘われたのがきっかけで、以来、ゴルフのとりこになって23年になります。私たち家族3人、共通の趣味はゴルフです。息子が18歳で米国のアリゾナ州立大学に入るまでは、週末というと三人で家から半径20キロ以内のメンバーになっているゴルフ場でプレーをしていました。 ハンディ息子は0、私は11、女房は14、親子3人で、ホールイン・ワンを11回達成しています。内訳は息子5回、私4回、女房2回、回数をこなせば、こういう事もあるということですね。家族対抗戦が世界で行われたら、優勝するかもしれないですね。 現在は、私と女房との二人の生活。食べ物は、日本から持ち帰る、米、味噌、醤油、だしの素を使った日本食です。食材はケニアで手に入ります。女房の打つ手打ちラーメンは、ナイロビの在留邦人の間では「いくみ亭のラーメン」といって、その味は大変有名なのです。 家族の申し合わせ事項、それは健康でいようという事。快眠、快食、快便、まず健康に注意してケニアのナイロビで生活しています。 |
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● | ケニアに住んでよかったと思うことはありますか。 | |
アフリカのケニアに住んでいるという土地の利か、アフリカ最高峰5895メートルのキリマンジャロ山の頂上まで登ったこともあります。 動物サファリといわれて有名な、マサイマラ、セレンゲッティなどという所で自然の動物の生態を見ることが出来る幸運にも恵まれました。 英国までは、ケニアから8時間。家族3人で「THE OPEN」そう全英オープンの行われるセントアンドリュースで、一週間に3ラウンドもするチャンスに恵まれ、日本にいたのではとてもかなわぬ体験をしております。 住めば都とはよく言ったものです。私は三浦半島の横須賀で育ち、現在90歳になる私の母と4つ年下の妹(横高出身)が、三浦市に住んでいます。 日本に帰ると必ず実家に顔を出しますが、なぜか日本に一週間もいるとケニアに帰りたくなります。 |
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● | ケニアについてお聞かせください。 | |
ケニアから見た日本の物質文化は豊かですね。。ケニアはこれに比べたら貧しいです。でも、私が選手を発掘に行く、ケニアの田舎の人たちはみんな明るいです。降りそそぐ太陽、自然の恵みで、農作物は豊富。食べていくのに不自由はしません。生きる原点は食べること。ケニア国民の主食はトウモロコシです。これを粉末にしてから蒸しパンの様にして、スープとまぶして食べます。 世界の食文化は、米食、粉食(小麦、パン食)、トウモロコシ食の三つに区分されると思います。日本・アジアは米食、ヨーロッパ・アメリカはパン食、アフリカはトウモロコシ食です。トウモロコシ食の人は、走るのに強い力を発揮するのかも知れません。ケニアの長距離選手は、日本に来て2、3年経つとこのトウモロコシの粉末から作るウガリという、蒸しパン状の食事が恋しくなるようです。米食に慣れると脚力が落ちます。人間は生まれながらに食べてきたものを食べるのが一番いいのです。私が接しているのは田舎の農民で、住まいは掘っ立て小屋同然、着ている物はぼろです。それでもみんな明るいです。 あるもので納得して生きている感じです。日本からTシャツを持ち帰り、こういう人たちにあげるとすごく喜んでくれます。ダグラスもエリックも、私と出合った18歳の頃、走っている姿は裸足でした。私と出会って、初めてシューズを手にし、宝物のように大事にしてレースの時だけ履くのです。その姿を見ていると、胸があつくなります。でも同情はいけません。自然体で接することです。二本の脚で人生を切り開くためには、今ある現実の貧しさに打ち勝っていかなくてはいけないのです。そして日本へのスポーツ留学を手にするのです。ハングリーはスポーツの原点なのです。ぼろを着て裸足で走っていた少年が、何年か後にオリンピックの表彰台の上に立っているのです。自分の第2の人生が、なぜケニアだったのか、私も即答できません。成り行きだったと答えることが正解だと自分では思います。 現在、29年経ってケニアに来て良かったと思っています。女房流の言い方をすれば「小林さんは、ケニアが合うのよ」これですね。 これからも、北京(2008年)ロンドン(2012年)とオリンピックは続きます。スポーツの頂点オリンピックで、メダルに届くランナーを一人でも多くケニアから、私の手で送り出したいと思っております。 |
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● | 2004年に、小林さんはNHKのBS放送で紹介されましたが、その時の様子をお聞かせください。 | |
2004年11月、NHKのBS放送で「遠くにありて、にっぽん人」「マラソンで夢をつかめ、ケニア、小林俊一」が企画され、ロケハン、本撮影とほぼ1年の歳月かけて一時間のドキュメンタリーとして完成し、テレビ放映されました。 放映を見た当人の感想は、「あれはカッコよすぎる、現実はあんなものではない」。でも、女房が留守のとき一人でビデオを見たら胸にこみあげるものがあって涙が出てきました。29年間よくこつこつとやって来たものだなと。 私の眼にとまるのを期待して、田舎の山野を、サバンナの草原を駆け巡る少年少女は、私に認められる事がランナーとしてのスタートなのです。 マスコミに取り上げられることは、悪いことでなければいいのだろうが、人は受け取り方が色々だから難しいのです。私がケニアに29年在住してこの活動をしていることを、前向きにとらえてくれる人はいいとして、金儲けのためだとか、人身売買だとか人は何かと言うからたいへんです。いちいちそんなことに耳を傾けていたら切りがありませんものね。 |
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在校生へのメッセージ | ||
● | 横須賀高校の現役生諸君にメッセージを、お聞かせください。 | |
私はケニアでの今日の人生を、日本を発つ時に決めていた訳ではありません。 ランナーを発掘するのがカンとひらめきなら、私の人生もカンとひらめきでした。池中、横高時代、中距離ランナーで、関東大会にも行けなかった三流ランナーの私でも、身体の中に人が走る姿に感動するメンタリズムが生きていたのでしょう。 私は、34歳でケニアに来て、英語とスワヒリ語を学びながらスポーツジャーナリストを志しました。そのためにはケニア陸上競技連盟、ケニアオリンピック委員会、ケニア体育協会といった団体の役員に私の存在を認めてもらう事が大切だと考えました。私は、これらの団体の事務所によく顔を出し、私という人間を知ってもらいました。一方で競技会の写真を撮って、地元の新聞社に提供しました。新聞に載った写真の下に「Photo by Kobayashi」と名前が出ます。そうするとスポーツファンの読者が私の名前を覚えてくれます。 この世の中、自己PRが非常に大切なのです。それが仕事に結びつくのです。 横須賀高校現役生諸君、人生とは自己PR、自己演出なのです。何も派手なパフォーマンスは必要としません。自分を演出し、相手に印象づける自己PRが必要だと思います。現役生諸君の人生は、自ら切り開くしかないのです。 私はケニアの少年少女に「二本の脚で、人生を切り開け」と言ってきました。彼らは自分の脚力が人より秀でていれば、それを前向きに自己PRしてきます。私はたまたまスポーツの世界に関わったけれど、小泉先輩は政治家、小柴先輩(ノーベル賞受賞者)は物理学者、島田先輩は画家とジャンルはいろいろあります。「自分が何に向いているか」それを見つけ出すのが諸君の努めだと思います。これから大学受験、就職、結婚など色々な壁が立ちはだかっています。これらを自らの手で切り開いていって下さい。 横須賀高校現役生諸君の輝かしい将来を期待しております。 |
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取材後記 | |
(取材日 2006年5月5日) 陸上競技部の先輩・後輩という事で、私が取材担当者になりました。
カンとひらめきで、第二の人生をケニアで過ごし自らの信念で、ケニアと日本のかけ橋となった小林俊一さんの活動を見聞し非常に感動を受けました。 小林さんが4月に来日した際、私と小野関とで会い質問事項など取材内容の打合せを行いました。5月に来日した際は写真撮影と、最初の原稿を受け取りました。その後8月に残りの原稿を受け取りました。 原稿は手書きのものでしたので、私がパソコンに入力し、ケニアの小林さんとメールで原稿の確認、校正などのやり取りを何回か行いました。小林さんは、パソコンはやらないので、奥様のいくみさんにすべてを代行していただきました。この欄をお借りして、奥様には、全面的にご協力いただきました事を心から感謝申し上げます。大変有難うございました。 (高10期 饗場・記) |
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[013] 矢野 薫 さん(高14期) | ||
(取材日:2007年3月15日) | ||
プロフィール | |
1959年 3月 | 逗子市立逗子中学校卒業 | |||
1962年 3月 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
1966年 3月 | 東京大学工学部卒業 | |||
1966年 4月 | 日本電気株式会社(NEC)入社 | |||
1985年11月 | NEC AMERICA Inc. 出向 | |||
1990年 7月 | 伝送通信事業部長 | |||
1994年 6月 | 伝送事業本部長 | |||
1995年 6月 | 取締役支配人 | |||
1998年 7月 | NEC USA Inc. President | |||
1999年 6月 | 常務取締役(NEC USA Inc. President 兼務) | |||
2000年12月 | 取締役常務、NECネットワークス カンパニー副社長 | |||
2002年 4月 | 取締役常務、NECネットワークス カンパニー社長 | |||
2002年10月 | 取締役専務、NECネットワークス カンパニー社長 | |||
2003年 4月 | 取締役専務 | |||
2004年 6月 | 代表取締役副社長 | |||
2005年 3月 | 代表取締役 執行役員副社長(役職表記変更) | |||
2006年 4月 | 代表取締役 執行役員社長 |
前社長がご病気になられ、緊急事態のなかでの社長ご就任と伺っております。間もなくご就任をなさって一年が経過することになられますが、会社のトップになられたご感想と抱負についてお聞かせ下さい。 | ||
突然の社長就任でしたので、心の準備はなかったのですが、日頃から何かあったら後は頼むと前社長から言われていましたので、引き受けたというのが実情です。 企業の社長というのは最終的な責任をとるのはもちろんですが、日々、決定を一人で下さないといけないプレッシャーが重いのです。誰かがこの役目を果たさなくてはならないので、今は会社にとって自分が必要だと納得して全力を尽くそうと思っています。 NECを社会から必要とされる存在意義のある会社にしたいと考えています。 まずは社員が元気を出して困難に挑戦できるよう励ますのが私の仕事だと思っています。 |
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社員の皆様が、困難に挑戦し社員として誇りを持つということについては、どのような施策や励ますことの具体例などをお持ちでしょうか? | ||
ただ、私どもには、海外を含めて多くの事業所があり社員も15万6千人(グループ企業を含む)おりますので接点が限られてしまうことは否めませんが、できる限り、このようなことを実行するようにしています。 第二には、首都圏にある事業所などの講堂で、出来るだけ多くの社員を集めて会社の方針や社長の考え方などを伝えています。社長の生の声を届けることが、会社の方向性を示すには大事だと思うからです。 第三には、毎週月曜日、社員用ホームページの社長のコーナーに、社員に宛てた1000字程度のメッセージを掲載しています。週のテーマによって、社長が何を感じ、何をしたいかを感じ取ってもらい、身近な存在になれたらと願い、土・日に一生懸命に書いています。このメッセージでも、書くことの難しさは伴いますが出来るだけ良き事例などを取り上げて、褒めることを書こうと心がけています。 |
大学ご卒業時に、NECを就職先にされた理由をお聞かせください。 また、新聞によりますと、「英語が苦手でエンジニアの道を歩まれた」とありますが、NECでは、英語力が要求される、大変重要なポストを歴任された様子、英語が苦手を克服されたエピソードなどがございましたらご披露ください。 |
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英語が苦手なのでエンジニアなら何とかなるだろうと思っていましたが、実際はそう甘くはなかったというのが実態です。 入社当時はまだ日本は欧米を追いかける立場でしたから、彼らの先進技術を英語の文献を通して学ぶのが日常的でした。 入社して7年ほどたったころ海外に留学する機会が会社から与えられました。 私はアメリカのスタンフォード大学の大学院に留学したのですが、入学を許可されるためにはTOEFL550点以上というのが条件でした。結果として何とかクリアしたのですが、残業で夜遅く帰ってからリスニングの勉強をするのが大変だったのを今でも覚えています。 このときの勉強がその後、海外の仕事をするのに大いに役立ちました。横高時代に嫌いでも英語を勉強したのが効いたのだと感謝しています。 |
NECでは、通信分野のお仕事を永年担当されたとのことですが、衛星通信、携帯電話など、通信の大きな変革をどのような想いで受け止めていらっしゃるでしょうか。 | ||
会社に入るときディジタル通信をやりたいと思っていましたので、通信はディジタル技術の応用で大きく発展するだろうという予感が当たったのだと思います。
通信技術の原理は古くから発明されているものが多いのですが、いかに実用化するかが課題でした。半導体やソフトウェアなどいろいろな技術が組み合わされて通信の発展を実現したのだと思います。 この発展の一部を技術者、経営者として担うことができたのは幸せ者だと思います。 |
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ネットワークの将来像などについての「夢」をお聞かせください。(※1) | |||||||
私たちは今、いつでも、どこでも 誰とでもコミュニケーションしたり、色々なサービスが利用できる、ユビキタス(※2)社会の入り口に立っていると思います。
ユビキタス社会のインフラがネットワークで、これからさらに発展が期待されます。人々の活動がいつでもどこでもITに支えられて、人間性を十分発揮できる豊かな社会がユビキタス社会です。日本は今モバイル(※3)やブロードバンド(※4)のネットワークで 、世界でも最も先進的な市場になっています。 これらのネットワークを、より「安心・安全」で、もっと「便利・快適」にする《次の世代のネットワーク》が登場し、世界で期待が高まっています。それらを通じて、真のユビキタス社会を実現させたいと考えています。 これからも日本が世界をリードしていけるよう皆で協力したいと思います。 |
目標達成をされた仕事と思いどおりにいかなかった(失敗?)仕事について、後輩を念頭に置いてお話しください。 | ||
製品開発の仕事では小さな失敗を繰り返しながらゴールに向かって粘り強く走り続ける事が必要です。失敗というのは成功するまで続けなかったということで、あきらめずに頑張るという粘り強さが必要です。
成功するプロジェクトは基本に忠実に実行可能な計画を作り、プロジェクトマネジメントをしっかりやり、基盤技術を事前に十分確保して、進めたときに初めて実現されます。これらのいずれかが欠けた場合は失敗プロジェクトになっています。 私もたくさん失敗をしましたが、失敗を恐れず、失敗にめげずに挑戦しつづけることが最も大事だと思います。 |
「失敗を恐れず、失敗にめげずに挑戦する」というメッセージをいただきましたが、これは、強靭な心を持ち続けることになると思われます。強い心を持って生きることは、なかなか困難なことのようにも思われますが、なにか良き処方箋のようなものをお持ちでしょうか? | ||
いつも諦めない強い気持ちを持つことが必要と思いますが、失敗をして落ち込む、そこから快復することには個人差がある訳で、一般的な処方箋はないと思います。
しかし、一番大事なのは、自分の夢を持つということと今日どうするかということです。 夢を実現していくために、今日出来ることを一つだけやって夢に一歩ずつ近づく、それが出来たときには自分に褒美を与えていくようなことが必要と思われます。 今日出来ることが何もないのは単なる夢で、今日出来ることを一歩一歩積み重ねていくことが大切です。人間は、弱いものですから、強い気持ちを持つというよりは、小さな気持ちを積み重ねていくことが大切だと思います。 |
スタンフォード大学への留学、NECアメリカの社長など、海外に出て日本をご覧になったときの思い(学ばれたもの、日本を再認識なさったことなど)をお聞かせ下さい。 | ||
アメリカに行って最も印象的だったのはアメリカがものすごい競争社会だということでした。みんなでなかよくという日本の文化はすばらしいと思いますが、残念ながらグローバル化の中では競争力がありません。 日本人は日本の良さを残しながら、グローバル化するという難しい課題に挑戦しなくてはなりません。 日本は美しい国土とすばらしい文化を持っています。グローバル競争の中で日本が生き延びて、子孫に日本の良さを伝えていきたいものです。 |
横高時代の思い出で、特に印象に残っていらっしゃるエピソードをお聞かせください。(授業、運動会、文化祭、部活動など) | ||
両親に負担をかけたくないとの思いから大学は国立に行くと決めていましたのでこつこつ勉強したのを覚えています。
1年生のときに数学の試験で100点満点の27点という悲惨な結果をとってショックを受けて、気を引き締められたのを思い出します。 3年生の運動会でみな受験が気になるのに応援の飾り作りを一緒になってやったのが思い出です。 |
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横高時代に、特に印象に残られた先生について、お聞かせ下さい。 | |||||
担任でもなく、授業を受けた訳でもないのですが、英語の伊東先生に感謝しています。
あるとき友人に誘われて伊東先生のご自宅に伺い、受験の心構えのお話をいただきました。目標を高く持てとのお話でその後の勉強に大きな励みになりました。 自分の人生の大きな転機だったと思います。 |
新聞によりますと、ご趣味が、「家族と一緒に過ごすこと」となっていますが、日本では家族崩壊が危惧されています現在、とても優しく、身も心も温かくなる思いです。お差支えの無い範囲で、ご家族との関わりについてお聞かせください。 | ||
子供たちが小さいころにアメリカに赴任しましたので、家族みんなで力を合わせて新しい生活に挑戦したことが家族の仲の良さのきっかけだと思います。
先日も結婚した子供たちが伴侶とともに来てくれて私の63歳の誕生日を祝ってくれました。老いては子に従えという格言を忘れずに残りの人生を楽しみたいと思います。 |
未来への可能性を大きく秘めて、現在、母校で学んでいる後輩たちに、メッセージをお願いいたします。 | ||
私の好きな言葉は、「日々新たに」です。
自分の目標に向かって日々努力している皆さんは、『昨日と少しだけ違う自分に今日はなろう』 と努力しているのだと思います。 日々新たな気持ちになってマンネリに陥らずに青春を駆け抜けてください。 |
横高の校歌は、「天かける白雲か、日に新た 我らの望み」ではじまりますが、お好きな言葉への連続性を感じました。NECのトップとしてのメッセージが多くの後輩たちに届くことを願って、取材を終わらせていただきます。 | ||
取材後記 | |
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今回、お訪ねをいたしました 矢野 薫さんは、未来への大きな飛躍が秘められているようなシンボリックな本社ビルで執務をされていました。 (高9期・里見記) |
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[014] 髙嶋 達佳 さん(高14期) | ||
(取材日:2007年11月29日) | ||
プロフィール |
昭和34年(1959) | 御成中学校卒業 | |||
昭和37年(1962) | 横須賀高校卒業 | |||
昭和41年(1966) | 慶応大学卒業 | |||
昭和41年(1966) | 電通入社 営業局勤務 | |||
昭和53年(1970) | 雑誌局 | |||
昭和58年(1983) | 新聞雑誌局 地方部長 | |||
平成元年(1989) | 新聞局次長 | |||
平成4年(1992) | 営業局次長 兼 営業部長 | |||
平成5年(1993) | 新聞局長 | |||
平成9年(1997) | 取締役 | |||
平成12年(2000) | 常務取締役 | |||
平成14年(2002) | 専務取締役 | |||
平成16年(2004) | 取締役副社長 | |||
平成19年(2007) | 代表取締役社長 |
(株)電通に入社! | ||
● | 電通入社の動機は? | |
もともとはTVというメディアに興味を抱き、テレビ局も受けましたが、最終的にはメディアの世界全体に携わる総合広告会社である「電通」に入社。実は会社に入社した後で、自分の周りにいる同期生や先輩がとても優秀であったため、この会社ではとても出世は出来ないと感じたことを思い出します。 |
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● | 電通とはどの様な会社ですか | |
一口で言うと「総合広告コミュニケーショングループ」です。業務の中心は、TVコマーシャルや新聞広告を制作し、それらを消費者に伝えるために広告媒体のスペースを確保し販売するという業態ですが、その他にも、オリンピックやワールドカップのようなスポーツイベントとスポンサーを結び付けたり、
また、コミュニケーションの世界では欠かすことの出来なくなっているインターネットやモバイルの世界にも積極的に取り組んでおり、日進月歩の世界で新しいテクノロジーを活用しながら、新しいマーケティングの手法の開発と実施に励んでいます。 このように電通は、広告という枠に捕らわれることなく、広告主のマーケティング課題の解決のため、日本国内はもちろんのこと、世界各地に拠点を持ち、グローバル規模で様々な領域にビジネスフィールドを大きく拡げています。 よく言われているのは、電通という会社は、自己実現がしやすい会社ということで、自分がしたいと思うことがなんらかの形で実現する可能性が高い組織だと言えるかもしれません。 |
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● | 現在までのお仕事の経緯と特に強調したい信条は? | |
1966年に電通に入社して以来、新聞局という新聞の広告を取り扱う部署が長く、新聞社さんを相手に仕事をしてきました。その後、広告主を相手にする営業局を経験した後に、再び新聞局に戻り、そこの長(局長)を勤めて取締役となった後は、テレビや新聞などメディア部門全般と、スポーツマーケティングなどのコンテンツビジネスを扱う担当の他に、海外部門の仕事にも一時期携わりました。 信条というか、昔から常に心がけていることは「現場主義」。現場、すなわち若い人が働いている職場にこそ真実があると思っているので、そういった活きた声に耳を傾けて、それらを出来る限り受け止めて業務に反映してきました。社長に就任してからも、各部門の長たちと懇談会を開くなどして、現場で起こっていることの詳細の把握に努め、経営の場で会社全体をうまく運営してゆくための生の情報として活用しています。 |
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● | 会社経営に対する考え方 取り組みについて | |
会社経営とは日々の判断が求められる仕事だと思います。ふだん学生の皆さんにとっては、試験と言えば年に何回かある定期試験のことを指すでしょうが、私にとっては毎日が試験のようなものです。その中で大切に心がけているのは、「常識で考える」ことと「現場主義」という二つのことです。様々な案件について判断をする際に、「常識で考える」という姿勢は意外と忘れられやすいことかもしれませんが、極端に時代や流行に流されること無く、また並べられた数字を見て何かがおかしいと気づくのも、常識で考えて何かが間違っていると感じるからです。 もうひとつは、先ほど申し上げた「現場主義」ですが、常に正しい情報がインプットされていなければ正しい判断ができないのは周知の事実、いつも現場からの声を大切にしています。 経営者としては、やはり会社の将来を考えて舵取りをするということだと思います。自分がいる現在はもちろんのこと、5年後、10年後、100年後もこの会社がいい会社であるために、今何をすべきかということを常に考えて取り組んでいます。 |
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● | 広告業界の現状と今後の見通し | |
ここ数年は、インターネットの発達により、広告ビジネスが大きく変化してきています。テレビコマーシャルや新聞広告で企業の商品やサービスについてのメッセージを消費者に届けていたのが、今ではインターネットが媒体として欠かせない存在になってきています。業界用語でクロスメディアと言うのですが、消費者がいつどこで、どのような広告やコンテンツに興味を持ち、メディアに接触するかという観点から、様々なメディアを組み合わせることによってメッセージを効率よく伝え、さらに口コミやメールなどを通じて情報の二次伝達をしてくれるかまで考慮して企画立案をします。この際にクロスメディアを駆使して、キャンペーンを構築することがますます大事になってきています。テクノロジーの進歩とともに、消費者の情報入手の形態や行動様式が変化しており、広告の姿もますます変わっていきます。 テレビとインターネットの融合、セカンドライフに代表されるバーチャルな世界の誕生など、スピードのある変化の中で、新しく大きなビジネスの可能性が多く芽生えていると言えます。 |
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横高時代 | ||
● | 横高時代の思い出や恩師について | |
正式な部活動としては、どの部にも所属することはありませんでしたが、試合等にはメンバーが足りない場合に、いくつかの運動部から手を貸して欲しいと誘われて参加したことが何回かありました。 横高は生徒の「自主・自律」を重んじる校風で、校則に縛られる事も少なく割合と自由でした。その代表的なものとして、当時どの学校でも靴での通学でしたが、今では殆ど見かけなくなった下駄での通学ではないでしょうか。私もカランコロンと下駄の音を響かせながら通学した事が懐かしく思い出されます。 もともとは理科系志望だったのですが、進路を選択する段階で眼病を患ったため、受験科目が多かった理科系を諦め、文科系に変えることになりました。担任の先生からは志望校には受からないと言われ、浪人を覚悟していましたが、受験日の3ヶ月前くらいから目の調子が回復したため、猛勉強をして試験に合格して、浪人せずに大学に進むことが出来ました。 |
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在校生へのメッセージ | ||
● | 在校生に望む事 メッセージ | |
自分自身を振り返っても、勉強ばかりでなく、学生生活全体を楽しんでいた気がします。勉強は学生の本分としてもちろん大事ですが、そればかりでなく、是非3年間をバランス良く、友人との付き合いを大切に学生生活を謳歌してください。 高校時代に共に学び、共に遊んだ友人はかけがいのないもので、私も今もなお社会で活躍している友人がたくさんいます。 |
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趣味 | ||
● | 趣味の陶芸について | |
20数年続いている趣味で、若い頃は地方に出かけて土に触れることもありましたが、最近は、時間が無いため自分で創ることも、窯出しに出かけて行き、作品を買い求めることも出来ません。 地元の葉山にはいつでも行けるように、焼窯を確保してあるので、将来時間ができたら、自分の手で作品づくりをしたいと、思っています。個人的には備前焼の持つ素朴な作風が好きで、釉薬を使わずに焼いた風合いに引かれ、自宅にあるコレクションを暇をみつけては入れ替えて鑑賞しています。 |
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取材後記 | |
(取材日 2007年11月29日) 眼下にレインボーブリッジ・お台場を見渡せるロケーションの電通本社ビル44階の応接室にて取材をいたしました。
立派な応接室での取材で緊張しておりましたが、髙嶋社長の笑顔での挨拶で、気も落ち着き、同窓生という気安さもあり無事取材が出来ました。 話の中で、特に広告業界ではここ数年来のインターネットの急速な発達により消費者の行動様式の変化が激しくて、その変化に敏感に迅速かつ柔軟な対処がもとめられているようです。将来も電通がいい会社でありつづける為に「現場にこそ真実がある」の信条に基づいて、社員一人ひとりの才能や個性を重視し、クライアントや生活者から信頼される会社を目指しての思いと経営姿勢を感じ取ることが出来ました。 ご多忙にも拘わらず、今回の取材を快くお受け戴きました、髙嶋社長に心より御礼申し上げます。 |
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[015] 高澤 俊治 さん(高34期) | ||
(取材日:2008年4月23日) | ||
プロフィール | |
昭和54年 | 逗子市立久木中学校卒業 | |||
昭和57年 | 県立横須賀高等学校卒業 | |||
平成 2年 | 順天堂大学 医学部卒業 同整形外科教室入局 (順天堂医院・順天堂浦安病院・山梨県立中央病院などにて研修) |
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平成 4年 | 静岡県 共立蒲原病院 整形外科 勤務 | |||
平成 6年 | 横浜市立港湾病院にてスポーツ医学研修(専攻生) | |||
平成 7年 | 葛南病院(現浦安市川市民病院)整形外科 勤務 | |||
平成 8年 | 東京都教職員互助会 三楽病院 整形外科 医長 | |||
平成 9年 | 三郷純心病院 整形外科 勤務 | |||
平成10年 | 順天堂浦安病院 整形外科 勤務 | |||
平成12年 | 順天堂医院 整形外科 勤務 | |||
平成13年 | 吉方病院 整形外科 勤務 | |||
平成15年 | 順天堂医院 リハビリテーション科 勤務 | |||
平成17年 | 吉方病院 整形外科 勤務 | |||
平成18年 | 高澤整形外科医院 開業 |
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整形外科医を目指した動機と今までの経緯 | ||
小学校よりラグビーを始め、ラクビーの名門高校への進学を考えたこともありました。 横高に入学し、当然のごとくラグビー部に入部。当時はまだ医学部に行くという目標は全くなく、早稲田大学でラグビーをやりたくて、教育学部と理工学部を受験しましたが、横高時代はラグビーと体育祭に明け暮れ、受験勉強は二の次でしたので、当然の如くの結果となり、その後二年間の予備校通いとなりました。 浪人中に進路変更し医学部を目指すことになりましたが、順天堂大学は入学するまで全寮制とは知りませんでした。学部は医学部と体育学部のみの小さな大学で、女子は数名しかおりませんでした。 学校内に寮があったため、Tシャツ・短パンが制服の様になっており、通常の華やいだキャンパスライフとは程遠いものでしたが、ここでの数多くのスポーツ選手達との出会いが、スポーツ医学を志す要因の一つではないかと思います。
父親も整形外科医、スポーツ外科医をしており結果として自分も同じ道を歩んでいます。 平成2年より整形外科医となり、各地で研修をすると共に、平成6年より形は異なりましたが幼少期より憧れていた早稲田大学ラグビー部のメディカルスタッフの一員となり、その後、ラグビー高校代表NZ遠征・U19ラグビー世界大会の遠征にメディカルスタッフとして帯同する機会を得ました。平成14年からは、清宮監督の下で、早稲田大学ラグビー部のチームドクターとなり、3度の大学日本一に加えトップリーグ(社会人)を倒すという快挙にも立ち会えました。 現在もトップリーグのクボタスピアーズラグビー部はじめいくつかのチームドクターを務めています。 この様な現場での経験を生かし、平成18年に各種運動療法を中心とした、整形外科医院を開院しました(高澤整形外科醫院 http://www.takazawa-seikei.com/)。
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当医院の信条は | ||
通常医院では、患者の治療は注射や薬の服用ですが、当医院では、私のこれまでの順天堂大学および関連病院での臨床経験(骨折など外傷一般、膝靭帯損傷・肩関節脱臼などのスポーツ外傷、変形性膝関節症など)、ラグビーの代表や大学、トップリーグのドクターとしての現場経験を生かし、従来の受動的な医療(内服・注射・物理療法)から人間が本来持つ自然治癒能力を引き出せるようさまざまな手法(各種運動療法)を用いスタッフ一丸となり、みなさまの健康生活へのお手伝いをさせていただければと考えています 。 |
早稲田大学ラグビー部チームドクターとして後輩選手の思い出は | ||
横高の後輩選手が大学選手権等で活躍する姿を見て、大いに感激しました。 特にNHKの選手紹介時に出身高校名が掲載されますが、県横須賀と出た時などは、何か誇らしく感じました。
横高出身者は全部で5名おり皆印象深い選手ですが、特に印象に残った選手としては、池上・臼井の2選手です。 池上選手は当初国立大学への進学希望でしたが、早稲田大学ラグビー部の現役高校生を対象としたサマースクールというものがありまして、昼間はラグビーの練習・夜は早稲田大学の入試等についてのガイダンスがあり、そこへの参加をきっかけに志望校を早稲田大学に変更し、難関を突破し池上選手は早稲田大学に入学した訳です。 並居る高校代表クラスの選手らを押しのけ1年生から試合に出場していました。3年生の時には怪我により1年間試合には出る事が出来ませんでしたが、頑張って治療に取り組んだ結果4年生ではレギュラー選手として、活躍し見事大学日本一に輝きました。横高時代 彼と一緒に練習していた後輩達が刺激され、その後数名、早稲田大学ラグビー部に入って来ました。その中のひとりが臼井選手です。彼は大学入学後ポジションを変え長い下積みもありましたが、日常の頑張りの結果、4年生でやっと花開くといった感じで最終学年ではレギュラーとして体を張ったプレーが見ごたえの選手でした。彼もまた大学日本一になっており、二人とも現在はトップリーグでラグビーを続けています。
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横高時代の思い出は 恩師は | ||
横高時代はラグビーに体育祭にと、とにもかくにも楽しい思い出ばかりでした。(と言うよりつらいことは覚えていません、もちろん勉強もほとんどしませんでしたし) 当時は、毎年体育祭、3年に1回文化祭があり、クラス替えが無かった為1年~3年までが同じメンバーのためクラス毎の纏まりがあり特に体育祭ではでは大いに盛り上がりました。同期の他のクラスの人達との交流はあまり無くても、顔を見て話をすれば、ああ誰々と判る程度でした。 なにしろ、ラグビーと体育祭に明け暮れていたので、その他についてはあまり思い出せないのが現状です。 心に残っている恩師としては、ラグビー部の顧問だった吉川先生・上遠野先生、クラス担任だった石塚先生等には大変お世話になった記憶が今でも鮮明に残っています。
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横高校生に望むことは | ||
何かにつけ、なんとなく皆で集まって楽しく過ごす事が多かった我々の時代と違って、今の横高生は真面目だと思います。 母校に近いせいか、横高生が診療に通ってくれますが、診察室で診察を待っている間にも、教科書や参考書を広げて勉強をしています。(たまに弁当を広げている子もいますが) 高校時代は二度とないので、皆で楽しく過ごし、友達を数多く作り、健康に気を付け、特に怪我により一生を棒に振ることもあるので怪我の無い様に気を付け高校生活を楽しんで下さい。 私は長年スポーツドクターとして、スポーツ現場で働いていましたが、何ら特別な治療をしていたわけではありません。リハビリをして万全の状態で復帰をさせることや、次の怪我の予防に努めていました。 後輩達が、健康に留意し大きな怪我も無く、スポーツを楽しみながら、勉学に励み、横須賀高校のモットーである「文武両道」を全うして下さい。これが母校への最高の恩返しではないでしょうか
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取材後記 | |
医院に取材 で訪問し、先ず驚いた事は、白衣を着た先生が現れるものとの潜入感があったのですが、院長先生を始め医院スタッフ全員の制服がラガーシャツを着用しているのに、ビックリした。 <取材 饗場 元二(高10期)、 小野関 浩(高11期)> |
[016] 石渡 陽一 さん(高56期) | ||
今回は、愛読者からの『身近な人を取り上げて欲しい』という意見をもとに、現役大学生を紹介します。 | ||
(取材日:2008年11月22日) | ||
近年の横高ラグビー部隆盛の結果として、同部OBの全国ラグビー界での活躍は目覚しいものがあります。早稲田大学の池上選手が、3年前の大学ラグビー選手権での活躍は、テレビ等でご存知の方も多いと思います。池上選手(リコー)をはじめ、NECの臼井選手(早大卒)日本体育大学の小松選手等が今シーズンも活躍しております。 そんな中で、今年は東京大学ラグビー部主将に横高56期卒の石渡陽一さんが選出され、関東大学ラグビーで活躍しています。東大は現在対抗戦グループでBグループ(2部)に落ちていますが、5年前まではAグループで伝統校と対等に戦っていた歴史があります。石渡陽一さんはAグループ復帰を願って必死に練習するラグビー部現役と、それを応援するOBの期待を受けて、リーダーとしての努力を続けています。 今回は文武両道を目指して奮闘中の石渡陽一さんを紹介いたします。 |
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プロフィール |
平成10年3月 | 横須賀市立山崎小学校卒業 | |||
平成13年3月 | 横須賀市立大津中学校卒業 | |||
平成16年3月 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
平成17年4月 | 東京大学入学 | |||
農学部農業経済学科在学中(4年生) | ||||
平成21年3月 | 東京大学卒業予定 | |||
大学での生活は? | ||
● | 東京大学での生活をお聞かせください。 | |
朝から午後までは本郷キャンバスで授業を受け、午後4時ごろ駒場ラグビー場に向かい午後6時から8時過ぎまでは、ラグビーの練習です。 現在の生活はラグビー中心の生活です。現在は、ラグビー部の同期2名とルームシェアリングをして過ごしているため、常にラグビーのことが頭から離れない環境にあります。睡眠時間と食事の量には特に気を配って生活しています。 またラグビーの合間を縫って、卒業論文を書くための準備を進めております。 |
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● | 東京大学を志望した経緯、動機をお聞かせください。 | |
大学入学の際に学部を決めなくても良いという進路選択の柔軟性が魅力でした。 また、勉強が非常に楽しい時期があり自分を試してみたいという気持ちもありました。 |
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少年時代は? | ||
● | 小学校、中学校の少年時代はどのようでしたか。 | |
小学校時代は、当時はやっていたスーパーファミコンの様なゲーム機を買ってくれない家庭に育ったため、スポーツに明け暮れていました。 中学時代は卓球に入れ込み、練習があろうとなかろうと毎日卓球をしていました。 |
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横高時代は? | ||
● | 横須賀高校時代の思い出をお聞かせください。 | |
高校では、ラグビー部での思い出が大半です。目標にしていた関東大会の出場が決定した瞬間は、私の短い人生において最も感動し嬉しかった瞬間でもありました。勝った相手が、一年生の時に80点の大差で負けた日大藤沢高校であったことも私の喜びを倍加させました。 また、当時ラグビー部で教えを賜った坂本先生には本当に大きな影響を受けました。人とのコミュニケーションから礼儀作法まで、私の人間性の多くは先生に影響を受けながら固まっていったように思います。本当にいくら感謝しても足りないくらいです。 いずれにしても、ラグビー漬けの生活でしたが、勉強が大変楽しい時期があり、一浪して東大に入学することができました。 |
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● | ラグビーに対する思い入れの様なものはありましたか。 | |
中学校以前は何の思い入れもありませんでしたが、高校でラグビーを本格的に始めてからは、私の重要な自己表現の一つになった様に感じました。 |
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在校生へのメッセージ | ||
● | 横須賀高校ラグビー部の現役諸君へのメッセージをお願いします。また横須賀高校の現役生へのメッセージもお願いします。 | |
ラグビー部へ 私は大したプレーヤーではなかったが、タックルだけは自信をもっていました。 |
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在校生へ
偉そうなことを言える立場ではないが、一つ言うとすれば、何か打ち込めるものを見つけ高めて欲しいと言う事です。 |
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これからの抱負 | ||
● | これからの抱負をお聞かせください。 | |
まずは、現在所属している東大ラグビー部で目標にしているAグループ昇格(5年ぶりの復帰)を果たすことです。 長期的には、いつでも何かに熱くなれる人間でいたいということです。その対象が何であれ、全力で打ち込むことの出来る人間でいたいと思います。 |
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取材後記 | |
石渡君の取材に協力して 高10期 中村 眞 (東大ラグビー部OB)
今年東大ラグビー部の主将になった石渡陽一君(高56期)を朋友会ホームページ「ようこそ同窓生」で紹介することになりましたが、当初本人は、それを嫌がったそうです。 自分はラグビーのトッププレヤーでもないし、他に紹介するに足る先輩、同輩がいるのにということだったようです。 その後、10月12日に関東大学ラグビー対抗戦Bグループ、東大対一ツ橋大戦を東大駒場で観戦しました。試合前のグランドでは選手に気合を入れる石渡主将の大きな声が響き渡りました。昨年負けた一ツ橋を相手に東大は得点を重ね、40対3で勝ちました。 横高ラグビーを受継いだ石渡君の闘志がBブロックに安住しかけたチームを向上に向けて奮い立たせたことは事実です。試合ごとに何十人もOBが押しかけて来る伝統の圧力にも平気で耐えているようにみえます。彼が今後、社会人となっても、この体験を自信に変えて、成長して行くことを期待しております。 |
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編集後記 | |
今回の「ようこそ同窓生」はもっと若い人、身近な人を取り上げてほしいという意見があり、私の友人中村眞君(高10期・東大ラグビー部)の紹介で、東大ラグビー部主将、石渡陽一さんが候補に上がりました。
そこで中村君に相談し取材をの協力を依頼しました。 11月22日、東大対防大の二軍戦が防大で行われました。中村眞君と一緒に観戦に行き、その時初めて石渡主将にお会いしました。 卒業論文は、「神奈川県内の放棄農地の再生について」というテーマで、ラグビーの合間を縫って、頑張っているそうです。就職の方もある大手商社から内定をもらっているとの事です。未来に向かって羽ばたく石渡主将が、今後も益々活躍されることを期待しております。
(高10期 饗場元二) |
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[017] 清水 高師 さん(高23期) | ||
(取材日:2008年12月16日) | ||
2008年10月21日によこすか芸術劇場で開催された「神奈川県立横須賀高等学校創立100周年記念音楽祭」で神奈川フィルハーモニー管弦楽団、指揮上野正博さん(高37期)と共に素晴らしい演奏を聴かせて下さった清水高師さんにお話を伺いました。 |
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プロフィール |
1963年 | 10歳で第17回全日本音楽コンクール全国大会で優勝、N響と共演 | |||
1968年 | 神奈川県立横須賀高校入学 | |||
1970年 | 第39回日本音楽コンクール 優勝 レウカディア特別賞受賞 | |||
1971年 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
1972年 | 南カリフォルニア大学入学 ヤッシャ・ハイフェッツに師事 | |||
1972年~ | 数々の国際コンクールに優勝又は上位入賞 |
フランスで開かれた世界の国際コンクール優勝者を集めたコンクールにおいて最優秀グランプリを受賞 | |||
文化庁よりイギリスに派遣されロンドンに滞在 イフラ・ニーマンに師事 | |||
ユーディ・メニューイン指揮ロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラでデビュー | |||
1990年 | 東京芸術大学助教授に就任 (現在、器楽科教授) | ||
2006年縲� 2007年 |
オーストリア、スウェーデン、ドイツ、イタリア、カザフスタン、ルーマニアで演奏活動 | ||
2008年 | 東京音楽学校第1回定期演奏会出演 |
春 | オーストリア(主催オストウェスト)、カザフスタン(主催アスタナ音楽祭)、日本でYBP音楽祭(主催YBP実行委員会)に出演 | |||
夏 | オーストリア、ロシア、ドイツで音楽祭・演奏会に出演 | |||
秋 | アメリカ、ルーマニアでリサイタルやオーケストラと共演 | |||
冬 | ルーマニア、イタリアでオーケストラと共演 |
100周年記念音楽祭について | ||
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100周年記念音楽祭では素晴らしい演奏をありがとうございました。
(横須賀高等学校創立100周年記念音楽祭では、フェリックス・メンデルスゾーン作曲 ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64を演奏してくださいました)
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自分が学んだ高校の遥か年下の後輩であり、自分の子供と同じ世代の前での演奏なので、クラシック音楽に対する距離感があると思います。 我々の世代とは全く違う、ボタンひとつ押せば世界の情報がわかるという世代との接点としてのクラシック音楽は難しいな、ということがこういう活動をしているとわかるのです。そんないろいろな思いを抱えながら弾かせていただきました。 |
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<今回の音楽会を聴かせていただいた生徒たちは、いささかなりともクラシック音楽を身近に感じられるようになったのではないでしょうか> | ||
ヴァイオリンの世界へ | ||
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ヴァイオリンを習い始めたのはいつ頃からですか。 |
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習い始めたのは6歳です。 父がヴァイオリンが好きで、来日した有名なヴァイオリニストの演奏会を聴きに行ったり、よく家でSPレコードを聴いていました。 子供の頃はシャイだったので、幼稚園の時、母が「習い事をしたら人前に出る機会があって良いのではないか」ということで、当時横須賀中央にヴァイオリンを教えにきていらした徳永茂先生について習い始めました。とても厳しい方で基本的なことをしっかり教育して下さいました。 子供の頃は読書と球技が好きで、ヴァイオリンの練習は嫌いでした。 ヴァイオリンを生涯の伴侶にしようと思ったのは21歳です。 |
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高校卒業後、南カリフォルニア大学へ留学されましたが、ハイフェツ氏に師事された動機とエピソード、当時の不安やつらい経験がありましたらお話いただけますでしょうか? |
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来日中のヴァイオリニストにレッスンを受け、誰に習いたいかと聞かれ「ハイフェッツ」と答えました。すぐにアシスタントから連絡があり、ハイフェッツ氏のオーディションを受け、教えていただけることになりました。 忙しい毎日でしたが、有意義に過ごしていましたので、辛いことはありませんでした。その頃はまだ、将来の職業について音楽家か建築家で迷っていました。 |
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海外での想い出 | ||
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海外での想い出やご活躍の様子などを... |
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一番の思い出は、ユーディ・メニューイン指揮ロイヤルフィルと共演した時です。 大変ありがたい批評をたくさんいただきましたが、それより楽屋でメニューイン氏が語ってくださった芸術論が素晴らしく大切な思い出でになっています。 イギリスに15、6年住んだ経験があるのですが、初めてイギリスに行った時、小さい子供がみんなヴァイオリンとか管楽器をかかえて学校に通っているのを見て、なんだろうと思いました。小さな街でも、小学校にも必ずオーケストラがあるんですね。また、大学の入試にも楽器が弾けるというのはとてもプラスになります。イギリスでは小さい時から素養というものが作られていて、若い時はロックとか好きなことに行くのですが、熟した年齢になるとクラシックに戻ってくる傾向が多々あります。 小さい頃の教育環境が日本とかなり違いますね。飾らないパーティなどで集まるとチョコチョコっと楽器を弾き始めます。音楽を楽しむという環境がありますね。 |
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世界を回られていて政情が不安定の国もあると思いますが、そういう国で音楽が癒しになっていますでしょうか? |
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例えば今まで(2008年12月初め)ルーマニアにいたのですが、昔は貧しかったけれど今は落ち着いてきて豊かになってきました。大雪にもかかわらずご年配の方々も来てくださいました。音楽が生きがいだというのがわかります。 ヨーロッパの大きな街にはオペラの劇場があります。ドイツではどんな小さな街にもオペラがあって日常的に楽しめます。 |
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想い出に残るコンサートについて、お話をしていただけますか? |
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スペインに初めて行った時、演奏会が夜の11時からだと言われて「11時からのコンサートなんて人が来るのかな?」と心配していたのですが、行ってみたら人がたくさん集まっていてびっくりしました。夏に近い時期だったから日中昼寝(シエスタ)をして、夕食を済ませて出てくるので11時頃がちょうど良いのですね。但し、イギリスは寒い国なのでさすがに11時というのはなかったです。 ヨーロッパでは夏の演奏会はたいてい野外ですね。 スウェーデンの音楽祭で演奏したことがありますが、ライトアップされたとても素敵な廃墟で行われたことがありました。夜は冷え込んでくるので毛布が配られて。日本画をやっている娘が、スケッチしながら演奏を聴いていた時、ハリネズミが出て来たこともありました。ローマの遺跡のような感じで雰囲気もよく音響も非常に良くて、有名なアーティストもたくさんコンサートをしているようです。 |
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審査員や指導者としても | ||
● | 指導者としていろいろなコンクールで審査員をなさったり、第5回大阪国際音楽コンクールでは「最優秀指導者賞」受賞されていますね。 そして、国内外でたくさんの演奏家を育てておいでですがご指導方針のコンセプトをお聞かせ下さい。 |
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審査員はいろいろやっています。 *「チャイコフスキー国際コンクール」は、権威・レベルとも最高峰とされる三大国際コンクールのうちの一つである。 若い世代の音楽的な傾向とか教える側の傾向がつかめるので勉強になります。 |
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● | 音色は人生を重ねるごとに変わっていくのでしょうか? | |
ヴァイオリニストにとって求める音色というものが必ずあると思います。それがすべてです。歌手が一声を放った時に人を魅了することができるように、ヴァイオリンも同じ、ひとつのヴォイスが独特な声を得たいと思って生涯努力するのではないでしょうか。 それが私の指導のコンセプトです。個人個人の資質も違って、体つきも違うから、同じ手の形もないし、同じ音が出るとは限らない。性格の違いもあるし、その子にとって最高の音質を得て欲しいというのがコンセプトです。 そのための技術は、大変時間のかかることですが、大切なことです。ヴァイオリンを汚い音で弾くのは耐えられません。独特の美しい音で弾くのが一番大切なことです。 |
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演奏活動 | ||
● | 国内外で、多数の演奏活動をしていらっしゃいますが、年間どのくらいの数をこなされていらっしゃいますのでしょうか? | |
大学で許される範囲ですので、その年によって違います。 明後日からウクライナにまいりますが、日本の大学で教えている関係で、演奏会可能日が少ししかありません。それで殆どを海外の演奏会に充てています。 |
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● | 今後のコンサートの予定は... | |
1月オーストリア、2月ウクライナ、3月モンテネグロとU.S.A.、4月韓国、5月U.S.A.、7月イギリス、8月オーストリア、9月ドイツ、10月ドイツ、11月ルーマニアとスイス、12月ルーマニアとイタリアです。(2009年の予定です) |
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ヴァイオリンの魅力 | ||
● | ヴァイオリンの魅力についてお話ください | |
愛用のガダニーニー |
~音楽評論家の言葉からもそのことが伺えます~ |
清水高師の演奏は技術的にも高い次元で、いつも安定しているということができよう。 テクニックの面からだけ言うならば、今まで筆者は清水が本番で乱れたのをほとんど聴いたことがなく、ちょっとした音程ミスすらほとんど見せずに奏するのであり、その点、我が国の数多いヴァイオリニストの中でも、筆頭にあげるべき存在と言えよう。 ... 中略 ... このディスクのパガニーニでも清水高師は崩れを見せずに奏している。そして爽やかな歌を歌っている... |
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註:「パガニーニ・24のカプリース」のCD、長谷川武久氏のコメントの一部から引用させていただきました。 | ||
~2005年12月の神奈川フィル定期演奏会の記事から引用~ |
ヴァイオリンの清水高師とピアノのパーヴェル・ギリロフのデュオは息のあったコンビだ。清水の演奏姿勢はオーバーアクションを排し、背筋を比較的正した状態で体全体を無駄なく使って弓の圧力をコントロールするもの。アンサンブルはきわめて豊かでみずみずしい。 |
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● | ヴァイオリンは健康ならば生涯弾けるのでしょうか? | |
ヴァイオリンは心臓から上で演奏する楽器なので心臓が衰えてくると大変になってきます。健康であれば80歳を越えても素晴らしい演奏をする方もいらっしゃいます。 毎日のレッスンは欠かせません。一日弾かないと動かなくなります。手だけてなく、全身が一体となって動いて焦点が合ってくるのですが、一日弾かないとうまく噛み合なくなってくるのが自分ではっきりわかります。本当に良く弾ける時には、焦点がそこにパッと合っている感じはあります。 逆にどんなに偉い人が弾いても調子が悪い時は何をやってもダメということもあります。常にシェイプ(調子)を保つということが大切だと思います。 |
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● | そのための健康法は? | |
最近自宅の周りをジョギングしております。 元々運動は好きで、若い頃はよく卓球をしていました。 |
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● | 音楽以外のご趣味は? 又 音楽家にならなかったら」どんな人生をおくっていたとおもわれますか? | |
ウィーン分離派のセラミックの美術品が好きでもう何十年も集めています。装飾に金を使ったスタイルがこの時代の特色です。元々建築にも興味がありました。 *ウィーン分離派(1900年代の美術運動で、画家のクリムトが中心になって立ち上げた。以前の生活スタイルから脱却するのを目指した) 私は音楽家の友人より 建築家の友人の方が多く、また画家、写真家、デザイナー、舞踊家など私を取り巻く友人関係はほぼ同じだったのではないでしょうか興味のあった建築専門学校は英国のエーエーで、やはり英国で学び同じように生活していたのではないでしょうか。 妻は建築家と結婚するつもりでいましたので家庭も同じです。 |
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横高時代の思い出 | ||
● | 横高時代の思い出は? | |
学校をさぼってばかりで先生方にご迷惑をおかけしましたが、器の大きな温かい先生が多かったと思います。 学校には、出席日数ぎりぎりしか行っておりません。クラブは入っていませんでした。 担任の秋山先生にはご迷惑をおかけし、思い出と言えば「学校にこいよ」とよくお電話いただいた事です。 |
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横高の後輩へ、音楽家を目指して勉強している方へのメッセージ | ||
● | 横高の後輩へ、音楽家を目指して勉強している方へのメッセージをお願いします。 | |
横須賀は有名な音楽家を沢山輩出しております。 海あり、山あり、太陽の光が南仏のようです。できるだけ長く横須賀に留まり、豊かな自然のなかで学ばれるのが芸術を目指している方には大きな力になると思います。 |
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編集後記 | |
世界的に有名なヴァイオリニストということで大変緊張していたのですが、演奏されている時とはまた違った雰囲気で、穏やかに優しくお話し下さいました。 お忙しい中ありがとうございました。 石渡明美(高23期) ヴァイオリンといえば、ピーンと張られた弦と譬えがたいような美しい音色が、近付きがたい雰囲気を醸し出しているようで、この楽器を意のままに操られる方に、いささかの畏怖の思いを持ってのインタビューでした。 里見絢子(高9期) |
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[018] 上野 正博 さん(高37期) | ||
(取材日:2010年9月14日) | ||
プロフィール |
1966年 | 神奈川県に生まれる | |||
5歳よりピアノ・ソルフェージュを始め、高校時代より指揮を松尾葉子氏に師事 | ||||
1990年 | 東京芸術大学音楽学部指揮科卒業 | |||
1993年 | 同大学院音楽研究科指揮専攻修了 | |||
指揮を山田一雄、松尾葉子、F.トラヴィス、和声法を尾高惇忠、ピアノを勝谷寿子、オーボエを小畑善明の各氏に師事 | ||||
1994年 | 東京国際音楽コンクール・指揮部門にて「入選」 | |||
1996年 | 国際ロータリー財団親善奨学生として、ベルリン芸術大学に留学 | |||
その後、「ベルリン・ドイツ・オペラ」の指揮研究員として、Ch.ティーレマン氏の下で研鑽を積む | ||||
1998年 | ギリシャ・アテネに於いて、世界的権威あるディミトリー・ミトロプーロス国際指揮者コンクールに最高位(1位なし2位)入賞を果たし、併せて「ミトロプーロス・ゴールドメダル」を授与されて帰国 | |||
ドイツ語圈の代表音楽誌「Das Orchester」にて絶賛される |
今までに、東京都交響楽団、読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、新日本フィルハーモ二ー交響楽団、神奈川フィルハーモニー管弦楽団、群馬交響楽団、名古屋フィルハーモ二ー交響楽団、京都市交響楽団、広島交響楽団、札幌交響楽団、関西フィルハーモニー管弦楽団、大阪シンフォニカー交響楽団等を指揮し、好評を得てきた。特に群響とは年間契約として10年以上頻繁な共演を重ね、密接な関係を続けている。 | |||
また、国内主要オペラ公演の音楽スタッフとしての信頼も大変厚く、新国立劇場、二期会オペラ、日生劇場、琵琶湖オペラ、サントリーホール・オペラ、NHKニューイヤー・コンサート等で、若杉弘、大野和士、A.グァダーニョ、各氏他のアシスタントを務め、読売日本交響楽団公演では、ドイツの名匠G.アルブレヒトに直接指名され重責を果たした。 自らも、多くのオペラを指揮し、2005年3月には、静岡県民オペラ「蝶々夫人」を指揮。 2010年7月には渋谷シティオペラ「カルメン」を指揮し、「音楽現代」誌上にて絶賛された。 11月には藤沢市民オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」を指揮予定。 |
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海外では、2000年に国立ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団定期公演、ウィーン室内管弦楽団のオーストリア・ツアーを指揮してヨーロッパ・デビュー。地元紙にも「的確な棒さばき」を評価された。 2006年11月には、ラボラトリウム国際現代音楽祭(ワルシャワ)にて指揮。活動の場を広げている |
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2011年現在 | 東京藝術大学大学院、および、フェリス女学院大学非常勤講師 (2011.7.20追記) | ||
異常気象で残暑厳しい9月14日(火)、たまには母校へ... ということで、はるばる茅ヶ崎からおいでいただきました。 |
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◆ | 校長室でのお話から | |
まず、諏訪部校長先生にご挨拶に伺い、上野さんが在学中国語を教わり、ブラスバンド部のトレーナーと顧問という関わりもあり、いろいろお話させていただきました。 諏訪部先生は昭和51年4月~平成3年3月まで国語教諭として本校に在職。昨年4月、校長として再び横高に赴任されました。 |
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(諏訪部先生) | 「いや~、立派になったねー!高校の頃も立派だったんですよ。うちの生徒はみんな良いけれどちょっと違ったんですよ。神奈フィルだよね。100周年の時もわかっていたけれど声をかけられなかった」 | |||||
(上野さん) | 「100周年は神奈川フィルの指揮者として呼んでいただきました。オーケストラは1年間ずっとひとりの指揮者で活動しているわけではなく、いろいろなオケに呼んでいただきます」 | |||||
(上野さん) | 「卒業して26年になります。担任は吉川先生(体育)で今度の土曜日にクラス会がありますが、ちょうど新潟へ行くので出席できません。当時の校長先生は園部先生、尾崎先生、山本弘二先生、芸大の教育実習でお世話になったのは尾高先生です。ブラバンのトレーナーとして来ていた時、諏訪部先生が顧問でした」 | |||||
(諏訪部先生) | 「楽器運びが大変だったね。千葉の岩井海岸での合宿はOBが企画して、スイカ割りとか度胸試しとか、懐かしいね」 | |||||
(諏訪部先生) | 「生徒が昔と全然変わっていない。こんな良い原石なんだから、もっと鍛えて、高い所から引っ張り上げるようなことを考えて実行しています。アカデミアは生徒にとってすごい刺激になっていると思うよ」 | |||||
(諏訪部先生) | 「一週間何やっているの?」 | |||||
(上野さん) | 「決まった仕事はなく、今週は、雑誌取材と新潟にジュニアオーケストラの指導に行きます。10月3日は第26回かながわ音楽コンクール入賞記念トップコンサートで神奈川フィルを指揮します。審査員もしているんですよ。忙しい時とそうでもない時があって、時間がある時は予習をします」 | |||||
<お話は尽きませんがこの辺で...> | ||||||
(上野さん) | 「久しぶりに諏訪部節を聞きました」 | |||||
◆ | その後、小野副校長先生の案内で校史資料室を見学 | |
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◆ | 階段を上って5Fの音楽室へ | |
ちょうど授業前で準備室にいらした湯川先生と少しお話をして記念撮影。
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それから事務局に戻ってお話を伺いました。 | ||
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● | 部活は--------- | |
ブラスバンド部でした。小さい時にピアノを習っていましたが、その後ずっとピアノとは離れていました。中学では卓球部に入っていて、音楽の道に進むことは全く考えていませんでしたが、受験の頃、妹が習っていたピアノを弾いたり、いろいろな曲を聴くようになって、高校に入学したらブラバンに入ろうと決めていました。 楽器は、当時、金管楽器は男子、木管楽器は女子という暗黙のルールがあって、最初はユーフォニウムでした。でも、どうしてもオーケストラの楽器をやりたくて、先輩に直談判して、新しくオーボエパートを作りました。2枚リードの楽器は音を出すのが難しくて、初めはチャルメラのような音でした。その後、中学でオーボエをやっていた後輩が次々に入って来て今も続いていると思います。 高校の頃は、今以上に行動力があって、無謀なことでもやりたいというエネルギーで何とかなっちゃうみたいな所がありましたね。芸大に行きたいと思ったのもその頃で、普通のサラリーマン家庭でしたから、親はびっくりしたでしょうね。 |
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● | 指揮科を選ばれたのは------- | |
県立音楽堂に先輩の演奏会を聴きに行って、その時に「指揮者になろう」と思いました。指揮者がかっこいいと思ったのではなく、演奏者の指揮を見る目、指揮者とのコミュニケーションを見て「あ!これ!」と思ってしまいました。 指揮者になるには、指揮棒を振る前の勉強が必要で、ピアノを教わった矢野義明先生(高7期)に芸大の指揮科を出られた先輩の川合良一さん(高20期)を紹介していただいて、まず譜面の読み方とか、楽器の勉強とか音楽の総合的な勉強を習いました。川合先生の紹介で当時芸大の非常勤講師を始められたばかりの松尾葉子先生に一番弟子ということでとっていただきました。 最初に受験した時は、定員2名のところ2次発表で僕だけが残ったんですよ。もしかしてと思って3次発表を見に行ったら「合格者なし」って... あの5文字、未だに覚えていますよ。で、上野公園をぼーっとしてさまよっていましたね。横須賀高校へ行った人の最初の挫折みたいなものですね。今考えると、その時の浪人したことの敗北感などその後に味わった苦労に比べれば何でもないですけどね。当時の18歳の自分にしてみれば一大事だったんです。 |
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1983年秋(横高2年)本格的に指揮法を学び始めたばかりの時期、文化祭で吹奏楽部の演奏会を体育館で指揮 | |||
● | その後ベルリン芸術大学に留学されたわけですが------------ | |
芸大大学院を卒業してから、1994年東京国際音楽コンクール入選。 世界最高のオーケストラの演奏と練習を自分の目と耳で確かめたくて、留学情報のアンテナを張り巡らしてチャンスを待っていました。その間、母校のブラバンのトレーナーとして後輩の指導に来ていました。まだ指揮者として確信が持てない状態でしたが、30歳の時、今までの仕事を全部断って収入をゼロにした上で、地元茅ヶ崎のロータリークラブの国際奨学生制度をお願いして、妻と一緒にベルリン芸術大学に留学しました。ロータリークラブのネットワークが強く、ベルリンフィルの団員の紹介で、フリーパスでオーケストラの練習を見学できるようにしていただきました。毎日のように ベルリン・フィルハーモ二ー・ホール(ベルリン・フィル本拠地)に通って、リハーサル見学、コンサート鑑賞、と生きた勉強をさせてもらいました。いつも写真のような、オーケストラの真後ろの安い、かつ指揮者を正面から観察できる場所で本番を聴いていました。私のベルリンでの世話役、R.ヴァインスハイマー氏は、ロータリー会員で、元ベルリン・フィルハーモ二ー管弦楽団チェロ奏者、楽団代表で、カラヤンとも親交の厚かった方です。 <もう芸大大学院まで出ているので学校へはあまり通わなかったそうです。> ドイツ統一直後だったので経済状況も大変な時でした。また、建築ラッシュの時代で、記念写真を撮ると必ずクレーン車が写っていました。復興中の工事現場が観光名所になっていましたね。 |
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● | 指揮者とは---------- | |
「指揮者ってかっこいいですね」とか「指揮をしていてどういう時が一番気持ちいいんですか?」とか良く訊かれますが、全くそういうことはなく、気持ちいい瞬間なんてほとんどありません。どんなにオケが盛り上がっていても、その中で必ず目や耳をアンテナを張り巡らしています。DVDなどをみるとかっこ良く振っている指揮者もいますが、パフォーマンスを意識すると演奏者との間に温度差ができてしまうことがあります。演奏者のために指揮をするのであって、その結果としてお客様に見えるのであって、我々の仕事は職人だと思っています。 指揮者は聴覚から脳から全身を使います。一生懸命すぎると聴こえていないことが多い場合があります。プロのオケはどんどん冷めていきますね。(ずれてない?ハーモニーは?テンポは?これでいいの?などなど...)音がフォルテシモで響いてお客様が盛り上がっていてもオケの皆さんは一緒に熱狂していません。必ず他の楽器を聴いていて集中はしますが、没入することはありません。 |
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● | たくさんの楽器があるオーケストラのスコアを見る能力はすごいですね--------- | |
慣れもあると思いますが、やはり予習が大切です。ある程度経験を積んでくると「こういう時はこういう音がするはずだ」というのが見えてきます。参考にCDを聴いたりしますが、音のイメージだけだとインチキの誘惑がありますから危険です。あくまで参考に。 |
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● | クラシックから現代音楽までありますが得意な分野は---------- | |
仕事となると自分のやりたい曲をやらせてもらうことはほとんどありませんね。企画者としてはお客様が入るかどうかが一番の問題なんです。 |
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● | 苦手な曲は...---- | |
全部苦手ですよ。予習していきますが、予想外のことが起こるので指揮台の上でどう対応できるかというのが勝負ですね。 あるイベントで打ち合わせしていたんですけれど、演奏が終る前に挨拶が始まってしまったので、あわててフェイドアウトしました。何回も振っている良く知っているオケだったのでできたことで、「あの場では最善の対応だった」と...そのことでオケとの絆が深まったかもしれません。 |
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● | オーケストラとの合わせは------------- | |
プロのオケは直前に多くて3回です。お互いに予習して来ますから... 経営を成り立たせるにはできるだけ練習を少なく本番を多く...だそうです。アマチュアは練習を多く、4~5ヶ月かけて仕上げます。 練習術が大事で、プロは練習の内容で見定められてしまいます。シビアですね。 オペラの場合はまず歌手との練習が入ってきます。演出がつきますので直前だけというわけにはいきません。バレエは音楽より振り付け優先なので今はやっていません。 |
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● | ジュニアオーケストラのこと---------- | |
新潟市のジュニアオーケストラの指導をしています。音楽に関してまっさらでストレートに受け止めてくれるので責任重大です。メンバーが毎年入れ替わるので、卒業生が抜けて新しいメンバーが入ってくるともう一度最初からなので、子育てと一緒ですね。根気よく続けるしかありません。お互いに聴き合い、自分たちで考えさせるような指導をしています。 |
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● | 100周年記念演奏会のこと------------- | |
それまで卒業生ということを忘れていたくらいなのですが、思いがけずお話をいただいて野村昌男先生(故人)はじめ100周年準備委員の皆様と何度も打ち合わせに来て、自分が思っている以上の卒業生のネットワークがあることに呆然としました。校舎の中に足を踏み入れただけでなく、同窓の輪の中に入れていただく最高のきっかけを作っていただいたと思っています。一卒業生として式典に参加しているのとはまた違って、一番光栄だったのは、先輩から後輩まで全員で校歌を歌ったことです。また、地元のプロのオーケストラとのコンビで同窓の和を仕切らせていただいたことは、音楽家としてこの学校を卒業した人間として、本当にこれほど名誉なことはないと指揮をしながら思いました。 |
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● | 清水先生とは------- | |
芸大に入って何年目かに先生が本拠を日本に移して芸大の教授として赴任されました。 大学の中に教官で構成されている芸大オケというのがありまして、試験の時とか振らせていただいて育てていただくのですが...そのコンサートマスターを務めていらっしゃいました。その時「横須賀高校の卒業生です」と控え室にご挨拶に伺ったことがあります。 100周年の時は指揮者とソリストという立場でお話しさせていただきました。清水先生ご自身も久しぶりに同窓生という意識が湧いたとおっしゃっていましたよ。 |
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● | 平井逗子市長と同級生ですね---------- | |
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3年くらい前に神奈フィルを指揮して逗子市小学校芸術鑑賞会があって、連絡をしたら聴きに来てくれました。もちろん司会の方に話題で盛り上げてもらいました。 |
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1984年(3年時)体育祭で最前列右が私、私に抱えられているのが平井 現逗子市長 | |||||
● | のだめ効果は------------ | |
「のだめカンタービレ」の大ヒットでクラシックファンが増えたかというと、そうでもないようです。一時的にベートーヴェンの交響曲第7番の依頼が増えましたね。それで、100周年でも第7番でした。 演奏会に玉木宏さんがゲストで来られたことがありました。客席から「千秋せんぱ~い!」と声がかかり「千秋ではありません」と繰り返していたとか...お客様は、もしかすると玉木さんが指揮をすると思ったのでしょうか、チケットが早々に売り切れたそうです。 |
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● | 音楽以外の趣味は------------ | |
読書と家族旅行です。今年の夏も毎夏恒例にしている谷川温泉旅行。 年に何回かは、仕事を忘れて旅行でリフレッシュしています。 |
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谷川岳をバックに | |||
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後輩へのメッセージ--------- |
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地元、三浦半島ではエリートの学校という自負があると思いますが、特にこれからの時代は、より広い視野を持って欲しいですね。今は情報が多いし情報を得るのも簡単ですが、その中で何が本質かを見極めることが大切で、本当に大事なことというのはそんなに簡単に手に入らないものです。自分が留学までして勉強して、それでも通用しない。それを基にしてさらに積み上げていかないと認めてもらえない世界があるわけです。これは音楽に限らないと思います。本物を見極める目と自分自身も本物を目指して欲しいです。 それとマスコミとかで言われていることと違う意見を読んだ時に、「あ!もしかしてこっちが本当じゃないの?」という気持ちを持ち続けることも大切ですね。反対意見を言うとネットで攻撃されたりするけれど、面と向かって反対意見を言える社会になっていかないといけないと思います。 特に横高を卒業すると、将来、指導的な立場になることも多く、周りからちやほやされることもあると思いますが、それはとても危険なことで、本当に大切なことはまわりの評価ではなく自分自身だと思います。大変ですけれど、安易な方向に走らず、努力し続けて欲しいと思います。 |
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今後の活動は----------- |
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2010年 11月6日(土)、7日(日)、13日(土)、14日(日) 藤沢市制施行70周年記念 藤沢市民オペラ 「カヴァレリア・ルスティカーナ」/「道化師」 |
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あとがき | |
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多少音楽に関係しているOB合唱団員ということで取材を担当させていただきました。 いつも指揮をしていただく立場ですが「オーケストラの複雑な楽譜を一度に全部見たり、たくさんの楽器の音を聴き分けるのはどんなにたいへんなのだろう?」という素朴な疑問にもお答えいただき、大変興味深くお話を伺うことができました。美しいメロディを奏でるには陰にたゆまぬ努力があることなどプロの厳しさを感じました。 取材担当 和田良平(高17期) 石渡明美(高23期) |
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[019] 平間 洋一 さん(高4期) | ||
(取材日:2010年7月24日) | ||
、 |
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プロフィール |
1941年 | 坂本小学校卒業 | |||||
1949年 | 横須賀中学校卒業 | |||||
1952年 | 横須賀高校卒業 | |||||
1957年 | 防衛大学校卒業、海上自衛隊に入隊 | |||||
1974年 | 護衛官「ちとせ」艦長 | |||||
1976年 | 統合幕僚学校教官 | |||||
1979年 | 海上幕僚監部調査部第1班長 | |||||
1980年 | 第31護衛隊司令 | |||||
1982年 | 練習艦隊首席幕僚 | |||||
1983年 | 呉地方総監部防衛部長 | |||||
1985年 | 防衛庁戦史部首席研究員 | |||||
1988年 | 軍事史学会理事(現在・顧問) | |||||
1989年 | 防衛大学校教授・図書館長 法学博士号(慶応義塾大学)取得 |
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1990年 | 防衛大学校定年退職 | |||||
1991年 | 常盤大学国際関係学部非常勤講師 筑波大学国際関係学部非常勤講師 大阪大学外国語学部非常勤講師 |
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● | ご趣味を教えていただきたいのですが。 | |
油絵、和歌、墨絵などです。 |
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● |
愛読書には、どのようなものがございますか。 |
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多数ありますが、一番影響を受けたのは和辻哲郎の『風土』です。 |
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● |
座右の銘をお聞かせください。 |
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「誠」です。 |
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横高時代の思い出 | ||
● | クラブ活動は、どちらに所属していらっしゃいましたか。また、どのような思い出がありますか。 | |
・中学時代 |
バレーボールの中衛のアタッカーでしたが、その後、背が伸びず後衛、次いで球拾いに降格されたので退部し、社会科学研究部へ入部しました。 |
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・高校時代 |
社会科学研究部部長で「民主社会主義青年同盟」の三浦半島のリーダーでしたので、菅総理と同根ですかね。 |
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● | 思い出に残られている恩師がいらっしゃいましたら、エピソードを含めて思い出話をお聞かせください。 | |
依田正徳先生です。 |
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現在までのお仕事の経歴など | ||
● |
お仕事の経歴を教えていただけますか。 |
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私の経歴の特徴は二つの人生を歩んだ、歩みつつあるということだと思います。 海上自衛官32年そして学者を23年、あと10年は頑張りたい、と思っています。 |
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● | 海上自衛官としての経歴をお聞かせ下さい。 | |
・防衛大学校時代 |
あの頃は反骨精神が旺盛でした。全学連に加入させろと訓練部長(能勢省吾・朝鮮戦争時海上保安庁の仁川掃海隊指揮官―のち海上自衛隊・横須賀市会議長を歴任)、学生課長(斎藤頼男・中22期、元統合幕僚長・齋藤隆(高18期)君の父上)に交渉したり、仮病を使い海上自衛官に鉄砲は要らないと銃磨きやパレードをさぼったりしました。 |
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・江田島の幹部候補生学校と遠洋航海時代 |
江田島では「新しい海軍は、われわれが作る」「敗軍の将、兵を語るな」「江田島には帝国海軍の亡霊が住んでいる」などと書きまくり、卒業成績は140名中98番でした。棒倒しで負けたのだから、棒起こしをやれで、さらに成績を落下させました。 |
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・初級幹部・護衛艦「しい」機関士時代 |
悪名が高いため、第3護衛隊では、私をどの艦も受け取り拒否をしました。その時の司令は幹部候補生学校の教育部長であり、艦長は防衛大の教官であったため責任を取り、旗艦の護衛艦「しい」の機関士に引き取ってくれました。 |
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・大阪外国語大学と練習艦隊フランス語幕僚時代 |
国内留学制度により、大阪外国語大学に留学しました。他官庁の研修生と出会い、自衛隊の良さを痛感することにもなりました。 |
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・護衛艦隊副官・練習艦隊副官時代 |
良き海軍の人々に接することができ、海軍の伝統や思考を学ぶことができました。 |
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・指揮官(ちとせ艦長・第31護衛隊司令)時代 |
この時期に、人生に関する計画を立案しました。 また、思い出としては、 *防衛大学卒業生で最初に艦隊(34隻)の艦長に抜擢されたこと、 などです。 |
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● | 学者としての経歴をお聞かせ下さい。 | |
学者としての経歴は23年になります。現在は評論家へと傾斜しています。 |
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・教授の悩み |
いずこの大学も同じだと推測されますが、大学教授としての悩みは、象牙の塔の中の派閥闘争と言えるかも知れません。 |
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・教育者として先輩として |
(1)厳しい教育と躾 大学では、学生に対し厳しくしましたが、宇都隆史君のように、参議院選挙で当選するなど良く育ってくれた者もおりますが、まだ「先生、助けて下さい」という不出来な学生もおります。 (2)後輩に良き妻を 後輩に良き妻をと「ふれあいの会」という集団見合いの会を、横高時代の同期や後輩の協力で、10年間で50組以上は成婚したでしょうか。 |
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・学者として先輩として→博士号と論文発表(英仏独中韓伊ルーマニア語) |
(1)戦争史の学者として世界的な活動について (日本の学者で軍事を研究する人がいない。それだけのことです) (2)学会活動について 詳細はホームページの「論文・寄稿他」のページにあるので下記をクリックしてご覧ください。 (3)NHK「坂の上の雲」について ウィキペディアのアドレスも、リンクを張っておきました。どうぞご覧下さい。 (4)学会・社会への寄与について ホームページに発表した学術論文と次の第一次資料を掲載しております。1. 「史料紹介 『大日本国防議会会報』の総目録 (5)先輩として後輩に対する活動について 1. 「市来会」の運営 月例研究会を開き、後輩やジャーナリストに正しい戦争の歴史を教え広めています。 2. 「船の会」の運営(年間2-3回) 海軍史の研究者や戦争史執筆者の育成と出版社、雑誌社などの編集者との連携を行っております。 |
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在校生に伝えたいことや朋友会に望むこと | ||
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在校生へのメッセージをお願いいたします。 |
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「人生は微分だ」ということです。 |
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● | 朋友会と同窓生へのメッセージをお願いいたします。 | |
同窓会に入会しないのは入っても利益もないからと答える人が多いかと思いますが、同窓会に利益を求めるのでなく、同窓会(同窓の後継者)に「何をして上げられるか」という姿勢が欲しいですね。 | ||
あとがき | |
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高橋 豊(高21期) 時間の管理。これが平間先輩の二つの人生の秘訣だと思いました。 和田 良平(高17期) なんとすごい人だろうと思いました。 里見 絢子(高9期) |
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[020] 櫻井 達美 さん(高5期) | ||
(取材日:2011年7月17日) | ||
プロフィール | |
学歴 | |||||
1934年 | 横浜市西区霞ヶ丘にて 出生 | ||||
1941年 | 天津春日日本国民学校 入学 | ||||
北京西城第一日本国民学校 転校 | |||||
1943年 | 北京西城第二日本国民学校 転校 | ||||
1945年 | 山形県狩川村国民学校 転校 | ||||
横浜市立平安国民学校 転校 | |||||
1946年 | 横須賀市立豊島国民学校 転校 (転校 なんと6回!) | ||||
1949年 | 横須賀市立不入斗中学 卒業 | ||||
1953年 | 神奈川県立 横須賀高等学校 卒業 | ||||
1957年 | 東京大学 工学部 航空学科 卒業 | ||||
業務経歴 | |||||
1957年 | 新明和工業株式会社 入社 | ||||
1959年 | 輸送機設計研究協会 出向 | ||||
(YS-1,YS-11 旅客機 初期設計に参画.荷重係,風洞実験に従事) | |||||
1963年 | 新明和工業に 帰任 | ||||
(実験飛行艇 UF-Xの改造設計,飛行実験(荒海着水艇底水圧計測等)に従事) | |||||
1964年 | 技術士試験合格 (航空機部門) 登録 第9256号 | ||||
1965年 | 有限要素法の胎動を感じ,三菱原子力工業株式会社 転職 | ||||
1967年 | 数値解析研究所 設立 | ||||
1982年 | (株)計算力学研究センター 設立 | ||||
2004年 | 飛洋航空機製造開発株式会社 設立 | ||||
修行時代からの発展 | ||
その後、三菱原子力工業(株)に転職、電子計算センターに勤務し、骨組構造解析プログラムFRANに出会い、本邦初の商用有限要素法プログラムPLANの開発のきっかけとなりました。 その後,軸対象構造用のCYLAN、総合構造解析プログラムGSAPなどを次々に開発し、それらは人工ダイアモンド製造装置の設計や原子炉配管設計、大阪万博太陽の塔の周りの大規模トラス構造解析等にも使用されました。 |
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エビソード 1 | ||
このような幅広い応用範囲に適用可能なツールとして電子計算機と有限要素法の発展性に感ずるところがあり、有限要素法プログラムソフト開発専業会社 数値解析研究所を友人とともに1967年に設立しました。
この頃すでにコンピュータを使ってさまざまな計算を行う企業がいくつかあって、大型のハードウエア(といっても主メモリ32KW)を所有してこれを時間貸しする企業が活動していました。この際用いるソフトウエアは受注上のサービスとして無料で提供されていた時代でした。 私たちの狙いは、今までサービスで提供されていたコンピュータソフトを、それが独立した商用価値のある製品として、世にみとめられるよう、有限要素法を用いた構造力学解析プログラムを専門に提供しようとした所にありました。 1970年に "かりふぉるにあ丸" と "ぼりばぁ丸" 沈没事件が発生し、原因解明と構造力学の設計手法としてコンピュータ利用が有用であるとのことから、大型化を求められる輸送船の設計基準を設定しようと造船研究協会が主導した大型プロジェクトが発足しました。 このプロジェクトは、通常の随意契約ではなく幅広く英知を集めようと公募制をとり、パイロットプログラム競争試作を提案し採用され、IBM、 UNIVACと我社の三者で1年間の開発競争に突入し、答えを導くこと一点に目標を絞り、我が社のみが納期を守り見事に落札しました。オイルタンカー、バルクキャリア、オアキャリアの3種の専用プログラムを開発し、超大型船の設計に実績を残しました。 |
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エビソード 2 | ||
成功事例の一つとして、宇宙開発事業団の開発した通信衛星( ADEOS-II )の太陽電池パドルを宇宙空間で広げる過程で、うまく広がらないという事故が起き、その解析を請負い、無重力状態における展開挙動が地上実験と著しく異なる結果を得て、改良の提案を行い次回の打ち上げで見事成功させました。 従来このような場合は、担当したメーカーが対応する習わしでしたが、異なる視点からの観察と、いくつかのパラメータでのシミュレーションを行うことで、解決できた事例でした。この指摘も推薦して下さった大学の先生の紹介によるものでした。 |
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更なる発展へ | ||
2003年に大田ビジネス創造協議会に入会し、技術開発部門を担当し、水上飛行機開発プロジェクトが立ち上がりました。
2004年には、飛洋航空機製造開発株式会社を設立し、2006年に水上機の開発を産官学(中小企業による水上機開発事業協同組合を結成)、東大、東海大、横浜国大、日大、早稲田大、東京航空高専、都立産業技術研究所、(社)強化プラスチック協会などとの協力体制で具体的に活動を開始しました。
水上機の開発に着目したのは、我が国は面積に比して海岸線が非常に長いこと、離島間の交通手段としては、船舶以上に利便性が高く且つ簡易な設備で済むなどの特徴があります。欠点として静かな水面でしか離着水できないことがあげられます。これを克服すべく、世界初の発想でフロートの動きをダンバーで吸収しようと、その実現に挑戦しているわけです。 現在、試作機が完成し、各種試験を実行し改良を重ね、データの収集をしつつあります。 沖縄の有志からの受注が決まりマスコミにも取上げられ、島嶼間の連絡や往診に期待が寄せられています。 |
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そよかぜ2号の開発 | ||
現在、今までに得た実験データと新しいアイディアを加味しながら「そよかぜ2号」の実験機を完成させ、実際に水上の走行実験を行って総合的な実用機としての完成度を高めるためのテストを行っているところです。
その様子を動画でご覧に入れます。波の上でフロートは上下に動きながらも機体は安定しているところを見て下さい。 |
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マレーシアとの交流 | ||
2010年の初め、マレーシアの現地法人を経営する日本人H氏を紹介したいとの提案がわが横高5期の門奈 駿君から寄せられ、ジョホール州サルタン(国王)が、飛行機に詳しく私共の事業と研究に興味を持たれているとのことで、現地に門奈君ともども訪問し、マレーシア工科大学を見学してきました。
この大学の関係教授の皆さんと意見交換をしながら、特に「高耐波性水上飛行機」には大変関心を示され、是非共同研究に参加したいとの提案がありました。 さらに、航空機関連の生産工場に案内され、立派な工場に感心させられました。 2010年6月、再びH氏のご招待で関係者と共に、マラッカ市で開催される航空祭に水上飛行機開発プロジェクトを展示すると同時に、同じく展示している現地の航空関係諸機関とのチャンネル構築および現地航空工業事情を調査するため、及び共同開発の覚書を取り交わした現地大学UTM(Universiti Teknologi Malaysia)を中核とした関連機関と,今後の具体的開発の協議を行うため、現地に赴きました。 翌日は、航空祭の会場でUTM側の風洞模型ならびに6自由度フライトシミュレーター装置などの説明を受け、当方からは、在来機と新サスペンションの水上機の耐波性の相違を示す計算シミュレーション結果、横浜国大における正弦波中曳航試験、霞ヶ浦におけるULP実機の波浪中走行テストの3種を動画で展示し、性能をアピールしました。
次いで8日、王室拝謁準備のため、水上飛行機開発プロジェクトをマレーシア日本の双方で進める方式を提案するための事前協議を行いました。 2010年6月9日、関係者共々宮殿を訪問、王室所有の各種飛行機を見学、次いでサルタンに拝謁、水上飛行機開発プロジェクトをご説明申し上げ、ご援助をお願いしました。 サルタンは大変飛行機 特にヘリコプターに詳しく、水上機に関しても造詣が深く、ポーポイズ、ステップ後方の渦などについてもお話があり、フロート頭部形状について、アイディアを授けていただきました。紙と鉛筆をお渡ししてそれを画に描いていただき、サインまでしていただいたので、櫻井家の家宝にしますと申し上げました。
サルタンから戴いたお話を総括すると、水上飛行機開発プロジェクトに関しては、UTM(マレーシア工科大学)と共同することは大変良い。政府にも協力させる。王室も協力する。実験用に王室所属機のうちの MARLIN GTを寄付(UTMに)するとのありがたいお話をいただきました。 2010年10月29日にマレーシアから、関係視察団一行を迎え事前打合せの後、11月1日都庁へ案内し、吉川和夫副知事へ挨拶、シュハイミ教授からマレーシア側の方針として,サルタンから拝領の機体を用いて,実験機への改造,実験の実施について構想を説明し、櫻井から、実験機の運用など、またテストパイロットもUTM マレーシア側が提供との説明を行いました。 これらの説明に対し,吉川副知事よりマレーシアとの連携プロジェクトは都の方針と完全に一致しているので,以後は渡邊副参事を通じて具体的案件を何でも相談に乗って頂けるとの有り難いお言葉を戴きました。 次いで都庁内の首都大学東京本部を訪問、本プロジェクトの構想と計画を説明し、協力をお願いしました。 11月3日実験機の披露と運用実験を体験して頂くため、訪問団一行を霞ヶ浦の実験会場に案内し、さまざまなデモンストレーションを行い、また来訪者には実際に搭乗して頂き、フロートの動作・機体の安定度などを体験、その優秀性を実感して頂きました。 |
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取組中のテクノロジー 1 | ||
~5人乗り人力タクシーの改良案~ | ||
1. | 動力不足を補うため、客席の各々に陰顕式足漕ぎペダル及び手漕ぎハンドルを付け、フライホイール経由で運転者の足漕ぎ動力に加えます。 (これは運転者がブレーキを操作したら切り離されて急停止を妨げないようにしてあります。) |
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2. | 客席からの動力供給量を積算できる装置を開発し、運転者の足漕ぎ動力との比で動力貢献度を算出、乗車料金から差し引いて乗客の努力に報います。 ⇒人間は努力に対して正当に評価されることを喜ぶ習性があるので、大いに頑張り、メタボ解消に役立つことでしょう。 |
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<発生エネルギー簡易積算装置はすでに考案済みで、特許申請手続き中です。> | ||
取組中のテクノロジー 2 | ||
~小型機用新推進システムの開発~ | ||
世界の小型機の推進機構は、レシプロエンジン、ターボシャフトエンジンを原動機に用い、単方向回転のプロペラを駆動する方式です。
この方式は、プロペラ後流が捩れるため離着陸時大きな捩れが発生し、それを補正するためのかなりな操舵が要求されます。また、飛行中、上昇、下降、旋回時にプロペラ回転による大きなジャイロモーメントが発生しますので、その補正のための操舵が必要となり、プロペラ飛行機の操縦を複雑にしていました。 また、プロペラ自体も各飛行速度にあったピッチ角をとるのが理想的なのですが、小型機用としては複雑化、重量増加の点から実用的ではないので、現在までは可変ピッチプロペラ、定速プロペラは小型機用としてはほとんど実用化していません。 これらの問題点を解決し、小型機,超軽量飛行機などの性能、安全性を大幅に向上させ運用効率の改善に著しい効果がある小型機用新推進システムを開発することにしました。 まず、第1の単プロペラの欠点をなくすため、通常の減速機構の歯車の個数そのままで、小型簡単軽量で二重反転プロペラを駆動できる装置(特許出願中)を開発しました。(写真・図 参照)
第2の問題点は、複合材料の材料設計手法を活用、無機構で定速プロペラを実現し、低飛行速度(離着陸時)では低ピッチ、高飛行速度(巡航,最高速度)では高ピッチに自動的に変更できる様にして解決しました。 さらに、空中での不測のエンジン停止時、自動的にフル・フェザリングにする機構を持たせました。 この3方法を組み合わせて小型機用新推進システムを開発し、全世界に販売する計画です。 |
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FRP繊維強化プラスチックの応用 | ||
水上飛行機の外装の材料として従来はアルミニュウム合金(ジュラルミン)が用いられてきましたが、海水による腐食が欠点として存在していました。現実には飛行後真水で隅々まで洗浄する必要があり、その設備と費用が悩みの種でした。
そこで漁船などの小型船舶に用いられているFRPを用いる案が浮上し、整形型を起こすのに有利な、従来のハニカム構造の改良方式を開発し、曲面を作成可能にしました。 |
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小型水上飛行機の必用性 | ||
~水上(水陸両用)飛行機の開発の必要性~ | ||
日本の陸地面積は世界で100位以下ですが,海上を含めた占有領域は世界第13位の広さを持っています。
この海洋、観光資源を活用するには水上(水陸両用)機が最適であり、また、大災害時は陸路が寸断されてしまうので,海上からのアクセスが可能な飛行機が不可欠です。 日本と同じような島嶼国であるマレーシアでも、マラッカ海峡の治安対策や島々の輸送・救急搬送などに有用性を見いだしているのは至極当然のことと理解できます。 日本でも、大型飛行艇による定期便が、昭和14年3月末から横浜・サイパン・パラオが週一便、横浜・サイパン・トラック・ヤルートが隔週一往復、昭和16年には横浜・パラオ間が週3往復、サイパン・ヤルート間が週一往復が運行されていました。 小笠原諸島や南鳥島などをカバーする航続距離2000kmの性能を持つ水陸両用の飛行艇を開発できれば、明るい未来が待っていると確信しています。 今まででも、テクノスーパーライナーや現在の定期船「おがさわら丸」が港湾設備・環境保全、燃料代の高騰などの面から断念や発展を制限せざるを得ませんでした。 現在、私たちのプロジェクトの構想している水陸両用の飛行艇構想の試算では、 |
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となります。
感情や政治的発想から脱却して、将来に明るい希望を持ち、技術開発に励みたいと思います。 |
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恩師の思い出 | ||
横高には素晴しい先生がおられたと思います。特に数学の大川先生は、印象に残る先生でした。朝の5分間テストで田舎の高校生の意識を格段に押し上げてくださったと感謝しています。
科学部に所属していたからだとも思いますが、堀江先生や五十嵐先生(理科)に片手の指だけで31までの数を勘定できる方法を教えられ、両手を使えば1023まで数えられることを教えて頂きました。 参考(指2進法)の解説は:こちらをご覧ください。<新しいWindowが開きます。> 久保寺先生(理科)からは、教科書には発火材として砂糖に硫酸を加えると発火すると書いてあるが、この方法は危険だからこの実験はしてはいけないと釘を刺され、発火を遅らせるには過マンガン酸カリ(KMnO4)にグリセリンを滴下するとよいとのことでした。 また、記念祭(今の文化祭)では、ロケットを打ち上げ、多いに自慢したものでした。(いまでは到底むりでしょうね) |
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私の趣味 | ||
趣味としては、電気いじりが始まりで、真空管アンプやアマチュア無線送受信機を手作りし、アマチュア無線局(JA1HPG)を開局・運用して大いに楽しみましたが、現在は廃局しました。それから写真道楽で、ライツ・フォコマート自動焦点引伸機を使って真っ暗な中でカラーの引き延ばしをやりました。
現在は、デジタルカメラにとりつかれ、NIKON D1XからD700と、昼間でもカラープリントが出来るのを楽しんでいます。 だが、最近の携帯やコンパクトカメラでの写真もなかなかのもので、重い一眼レフを持ち歩く機会はどんどん減ってきています。仕事の記録半分、趣味半分というところでしょうか。それに、今仕事として手がけている飛行機作り、趣味というより夢の実現ですね。 先日喜寿を迎えましたが、これからも零戦の栄光を再現する優れた飛行機の開発を目指して頑張るつもりです。 |
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後輩へのメッセージ | ||
皆さんは、この紹介記事をどのように読まれたでしょうか?
限りある紙面や専門性の強い内容で説明不足のところがあるかもしれません。 少しでも疑問やさらに詳しい説明を求めたい方は、直接私宛質問して下さい。メールアドレスは、下記のとおりです。これは、横高にとって貴重な財産になると思います。活発な質問を期待します。 アドレスは、sakurai@rccm.co.jp です。 |
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取材後記 | ||
横高5期生としてしかも最初の女子生徒入学ということで、先生方や上級生は大変戸惑ったと聞いていますが、我々は余り意識はしていませんでした。 櫻井君とは、科学部と電気遊びで楽しい3年間でした。ただし、卒業後は設計ばたけと実務の職人ばたけで仲良くお付き合いさせてもらっています。今回のインタビューは、35年間のギャップを少なからず埋めてくれました。さらに実績と成果を積まれるよう祈ります。 |
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[高5期 幸嶋孝治] | |||
猛暑の日曜日に大田区にある会社にお邪魔し、お話を伺いました。 根っからのものづくり職人と言うのが第一印象でした。飛行機の話になると話題は尽きず、さすが今でも現役の技術者の顔で、目を輝かせてご説明頂きました。 ご趣味とお仕事が合致している点、本当に幸せな先輩...と感じました。夢が一日も早く実現されることを、お祈りします。 |
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[高10期 杉原芳樹] | |||
櫻井先輩のインタビューの中で、数学を応用して会社を通じて社会に大きく貢献しておられることがよく理解できました。現役の母校 横須賀高校の数学の教員としては、授業の中で是非とも触れていきたいことです。 また、年齢を重ねてもエネルギッシュに新たなことを創造し、それに取り組んでいく姿勢は、今後の私たちの人生の手本だとも思いました。 |
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[高28期 飯田英夫] | |||
[021] 山王 直子 さん(高31期) | ||
今回は、去る3月11日に起きた東日本大震災後の石巻市で活躍している方を取り上げました。 | ||
(取材日:2011年8月9日) | ||
プロフィール |
昭和51年(1976年) | 横須賀市立北下浦中学校卒業 | |||
昭和54年(1979年) | 県立横須賀高等学校卒業 | |||
昭和60年(1985年) | 横浜市立大学医学部卒業 | |||
昭和60年(1985年~1993年) | 汐田総合病院脳神経外科勤務 | |||
平成5年(1993年~1997年) | 東海大学医学部大学院 | |||
<米国メイヨークリニックに留学し、脳下垂体の研究にて博士号を取得> | ||||
平成9年(1997年~2004年) | 日本医科大学脳神経外科講師として勤務 | |||
平成10年(1998年) | 日本内分泌学会研究奨励賞受賞。他数々の受賞あり。 | |||
平成11年(1999年) | 付属多摩永山病院に勤務 | |||
平成14年(2002年) | 同脳外科部長を務める | |||
平成16年(2004年)~ | 山王クリニック(東京都)開設 | |||
平成23年(2011年)~ | 雄勝まごのて診療所(宮城県)開設 | |||
<専 門> | ||
脳神経外科専門医、頭痛専門医 | ||
健康スポーツ医 | ||
日本温泉気候物理学会 温泉療法医 | ||
<所 属> | ||
日本脳神経外科学会評議委員、日本内分泌学会代議員、日本頭痛学会専門医 | ||
アメリカ内分泌学会、日本間脳下垂体学会、日本神経病理学会 | ||
日本内分泌病理学会、ほか | ||
<著 書> | ||
「メタボリックシンドロームは誰にでも克服できる!」 コアラブックス | ||
「アンチエイジングのための女性ホルモンクリニック-これからの肌・からだ・心のケア-」 メタモル出版、ほか | ||
医師を目指した経緯から聞かせてください | ||
医者になってからは。こんな職業だとは思わなかったという、ちょっと予測と違った面もあります。たとえば大学病院ですと、結局は医局の方針に従わなければならないことがありました。若いうちは自分のスキルを磨くために頑張っていけばいいのですが、管理職になると会議ばかり増えて、何のために医者になったのか、と思うこともありました。クレーム処理係みたいになってしまって、脳外科というのは、交通事故の診断書など書類もたくさん必要で、こんなに字を書く職業だとは思わなかったというほどでした。
患者さんを診察する、手当てをするというのが、私が子供の頃に抱いていた診療や医者のイメージでした。ところが、だんだんとそういうことから離れていくような気がしました。まして選んだ分野が高度先端医療みたいなところだったので、診察する時間よりも手術をする時間のほうが長いというところもあります。それはそれで、励みや楽しいこともあったのですが、だんだん、倒れていく人をたくさん見ていると、そうなる前になんとかできないのかなと思うようになりました。そこで、予防医学が大切だなと考えるようになりました。予防医学が実践できるクリニックを開こうと思い、開業したのが7年前です。開業前は多摩の大学病院勤務だったので、患者さんからも「せめて新宿だったら行けたのに」と言われ、ついてきてくださる患者さんも少なく、ほんとにゼロから開業という感じでしたから、最初はたいへんでした。1年もつのかなぁなんて思いました。 |
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当医院の信条や診療科目、専門外来等を教えてください | ||
患者さんの立場に立った医療ということです。当院では開院当初より予防医学に力をいれ、皆様の健康増進にお役に立ちたいと考えています。病に苦しむ方には不安や苦痛から解放されるよう、病気に対する不安を取り除くセカンドオピニオンや大学病院・専門病院との連携治療を積極的に行います。現代人に多い慢性頭痛と内分泌疾患の治療に力を入れています。
専門は脳神経外科・頭痛外来・垂下体・内分泌疾患外来です。1日平均70名。約7割が頭痛の患者さんです。他には下垂体の先端巨大症薬物治療を専門に行っています。 休日の過ごし方ですが、以前は実家で親孝行をするなどでしたが、3月11日の震災以降、休日はすべて東北地方の救援です。もう休みはなしです。仙台までは近いのですが、仙台から先の交通手段がないため、救援のために4輪駆動のディーゼル車を購入しました。震災直後のガソリンが手に入らなかった時の経験から、安心して行き来できるようにと。軽油なら積んで置けます。今は落ち着いて、道も通れるようになりました。 震災直後は時間もかかりましたし、ほんとに途中でガス欠で動けなくなった時も何度かありました。実は、私は最初から自分で進んで支援に行く気はありませんでした。震災後すぐ、主人が、東北は大変なことになっているはずだから、どうしても行くと言い、それならと一緒に行きました。主人がいなければ、一人では到底行くことは出来なかったと思います。 |
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それでは、現在の「まごのて救援隊」の活動についておうかがいします | ||
震災翌日の3月12日、主人の石井が、被災地に行こうと言い出し、南相馬に新潟から回って入りました。主人は自分自身、阪神で震災を体験していますから、とにかく大変な事になっているから行くんだと言うのです。私は、道路は通れないかもしれないし、帰れなくなって迷惑をかけてもいけないし、こちら(品川)の診療も穴をあけるわけにいかないしと考え、どちらかというと様子をみようよと言ったのです。しかし、主人は、とにかく行くんだ、行ってみないとわからないからと言います。そこで、水や食料や燃料を乗用車にめいっぱい積んで行きました。そのときは物資を置いて、帰りは診療に間に合わないから新潟で降ろしてもらって、朝一番の新幹線で東京へ帰って来ました。
それから、ネットなどで、どの地区が困っているかなどを調べたんです。すると石巻方面が、特に支援が遅れ、医師がいなくて困っているらしい、と聞いたので、翌週3月19日に石巻へ向かい、20日には南三陸へ回りました。南三陸で、ここより雄勝の方が道が寸断され物資が足りないとの情報を得て、21日に初めて雄勝に入りました。雄勝への道路は寸断されているので、最初は峠越えで入るしかなく、雪道で、すっごい寒かったです。3月11日の震災の日は特に寒かったそうで、あの日は地震発生が昼間だったからまだましで、夜だったら、もっとたくさんの方が犠牲になったかもしれません。しかし、そのあと、寒さで亡くなった方も多かったようです。もともと雄勝は、昔から津波にあっていたので、津波が来たら高い所に逃げろというのは、お年寄りの教訓で、子どもたちも知っていて、一生懸命逃げたので住民の方々はかなり助かっているようです。 |
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私たちも巡回診療チームのひとつとして3月21日からずっと毎週、回っていましたが、5月の初めの時点で、巡回診療を徐々に行政が減らしていく方針になりました。石巻地区は石巻合同医療チームが統括して医療を担当するということになったので、他の医療チームは来なくていいですと言われ始めました。でも、住民の方たちはそんなにすぐに止められてもたいへんです。病院に通える人はいいですけれども、交通手段が全然ないのに、病院に来いといわれても無理な話です。病院へは車で1時間くらいかけないと行かれない所がほとんどですからね。 もともと過疎地で不便な所なので、ある程度は仕方がないのですが、医療機関が一軒もなかったら、やっぱり住めませんよね。市立病院は壊れてしまいましたし、雄勝病院の医師・看護師のほとんどが犠牲になってしまい、町医者も不在で、町に医師がいない状態です。石巻市は合併して16万人いるのですが、いま雄勝には1,000人くらいしかいないので、16万人中の1,000人のことには、なかなか手が回らないですよね。石巻市自体がすごく困っている地域がいっぱいあるので、やむをえないとは思うのですが、医療だけは何より最優先でやってもらいたいという思いがあります。 |
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方々を回るのではなくて、雄勝にしようと思ったのは? | ||
二人でできることは限界はあるし、ちょうど必要とされている場所だと感じたからです。雄勝の人たちの人柄に惚れたというところもあります。海辺で緑の山もあり、景色がきれいで、被害さえなければ横須賀と通じる所があるなあと、なんとなく懐かしい感じもしました。昔ながらのおじいちゃん・おばあちゃんがいて、すごく温かい人たちだなあと思ったので。
主人は、雄勝にほとんど住んで、ボランティアという上から目線ではなく、住民として自分の町だから、こうしていこうという、そういう考えで、いま動いています。住民票も4月12日に移しました。 3月25日に、まごのて救援隊という名をつけました。大きな団体ではできないような、細かいところに、かゆいところに手が届くようなきめ細かな支援をしたいということで、「『まごのて』だね!」と決めたのです。診療所もそのままの名前を使ったわけです。 雄勝の産業は漁業、特に養殖業(ホタテ、あわび、ホヤ、銀シャケ)、そして伝統工芸の雄勝すずりは全国一の生産地。後継者も多い『活きた町』でした。それを津波が全てを奪ってしまったのです。この町が好きだから雄勝町を再建して、町の人にできるだけたくさん帰ってきてもらいたい。そのために何が必要かと考えました。医療はもちろん必要ですが、医療だけでは人は帰ってきません。仕事がまず必要ですよね。商店街もなければだめだし、教育の面でも学校がなければ住めないし、伝統文化も支えていこうと、全面的に雄勝を支えたいということで、その時々で考えて、そしたら色々やってしまいました。ボランティアのミスマッチということが言われていますが、ボランティアする側がやってあげたいことをやる、買ってあげたい物を買ってしまって、それをほんとうに被災者の方が必要としていることと違っていないかということを考えました。押しつけになってはいけないし、ボランティアの自己満足になってしまってはいけないから、ほんとうに町民目線で、その町にとって長期的に必要なことを考えていって、そのとき思いついたことを実行するようにしています。 たとえば、学校について、教育委員会は4月22日には始めるんだと言ってましたが、黒板やパーティションを宮城県で発注しても品物が届かない状況がありました。入学式や始業式が迫っていましたが、そのやると言い始めたのが4月の初めで、とうてい間に合うわけないという話になり、そこで、遠いのですが、主人の出身校の岡山県倉敷の茶屋町小学校に相談したら、すぐに手配ができて届けてもらえました。 医療については、巡回診療チームというのは3~4日で先生が交代してしまうので、毎回見てもらう先生が違ってしまうということになってしまって、慢性疾患の方はそれだとすごく不安に感じると思います。震災時の救急医療なので、最初のうちは仕方がないと考えたんです。でも長期化するにつれて、2ヶ月3ヶ月4ヶ月と経つと、やはりそれでは地域医療は支えられないんじゃあないかと私は考えたのです。同じ先生がずっと一人の患者さんを診ることが求められます。本当の意味の、かかりつけ医として、私がそれに代われるかというと、そういうわけではありませんが、また来週も来るからねってことで、安心してもらえるというとこもあると思います。とにかく町民の方が安心してもらえるような医療体制が整うまでは、期限を限らずに続けていく予定です。それがいつになるのかわかりませんが。 実は過疎地で医療すると、全く採算は取れません。現在の医療制度ではできるだけ多くの患者さんを診察し、検査をすればするほどお金が儲かる仕組みになっているので、その検査機器を入れるために資金が要るわけで、個人の開業医で、雄勝町に開院するというのはとても無理なんです。だから、地元の医師も離れて行ってしまうのもやむ得ないことなんです。だって、つぶれてしまいますもん。人口4,300人いたときでもやっとだったのに、人口1,000人になってしまっては、先生の生活も危うくなりますよね。ずっとボランティアをやっているわけにはいかなくなってしまいます。私も東京の山王クリニックがあるから、なんとか続けられていますが。そういう意味でも行政にやってもらわなければと思います。 |
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マークは自分で考えました。「まご」のMと「手」なんですが、ちょっとハートっぽい感じで、笑顔を絶やさず、いつもニコッという感じですかね。看板は主人が手書きで書きました。南相馬の知り合いの材木屋さんが、杉の木を寄付してくれました。南相馬もすごい困ってますよね。いま風評被害で材木が出荷できないんですよ。あるいはまた瓦礫の処理も自治体が受け入れると言うと住民の反対で運べないなどということもあると聞きます。自分たちがそういう目にあったら、どういうふうに思うか。同じ日本人なのに、ちょっと悲しい。難しい状況ですが、自分さえよければいいのかっていう、そういうところが悲しく思われるときもあります。そういう人たちばかりでなく、心ある人がたくさんいると信じていますけれども。 |
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今朝、現地から帰ってきたばかりとのことですが、直近の雄勝の印象などは? | ||
震災当初から5月までは木・日の休診日を利用して週2回通って朝帰りでしたが、5月に雄勝に開院してからは品川の山王クリニックの診療を1日削って、週末から日・月の2日出向いています。主に慢性患者さん、ご高齢のおじいちゃん・おばあちゃん方を診察して、こちらも癒されるというか、元気をもらっているところもありますので、必要とされる限りは続けていきたいと思っています。ほんとうは行政の力で、こんな小さな診療所は必要なくなり、町民の方が安心して過ごせるようなきちんとした医療体制をつくってもらいたいです。
医療体制だけでなく、いま町づくり協議会というのがあって、主人も参加して、復興支援のために色々みんなで相談して市に陳情したり、意見書を出したりしているのですが、だいぶ時間がかかりそうです。地域によって格差があり、声を大にして言えるようなところは復興が早いのですが、私が行っている場所は、高齢者ばかりなので、まずインターネットで配信とかはできません。メールとかウェブで情報発信できる若い人たちが住んでいるところは、いち早く支援の手が届いたんですけど、雄勝は何も言えない人たちで我慢強いし、こんなもんだろうって思ってしまっていて、自分が自分がって出しゃばるところがない。そういう奥ゆかしいところに惹かれたのもあるのですが、代わりに代弁してあげなきゃいけないという思いがあります。 ほんとは私もテレビに出たいわけではないのですが、メディアに出ることによって、知ってもらう効果があると思います。雄勝という町自体知られていないし、こんなに困っている人たちがいることも忘れ去られているところがあります。津波で全部流されてしまうとそこには何もないから、テレビで撮ってもインパクトはないんですね。動きがないから、もうニュースにならず、忘れ去られてしまうんです。そんなことがあってはいけないので、忘れ去られないためにも、ずっと活動を続けています。 |
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横高時代の思い出や恩師について | ||
体育祭が一番思い出に残っていますね。体育祭のときに女子は応援のウェアとか作るじゃないですか。私の9組は、カラーは黒で地味でしたが、黒に銀のテープを合わせて、我ながらシックに作りました。けっこう印象に残っていて、自分でもすごく楽しかったです。坂東武者の歌には、いまでも血が騒ぎます。
あとは夏のプールでの水泳。それまで全然泳げなかったのですが、特訓の成果で泳げるようになって、そのあと水泳が好きになったので、感謝しています。辛かったけど、いい思い出です。横高は懐かしいですね、また行ってみたくなります。あんまり勉強の思い出はないです。勉強は嫌いではなかったので、苦にはなりませんでした。医者になりたいという目標もあったから、楽しくやっていたし、なにも無理したつもりはありません。数学は大好きでした。 担任の中島先生は、ムーミンパパのようにあたたかい感じで、ほとんど怒ったことはありませんでしたが、一回怒ったことがあって、中島先生でも怒ると怖いんだと思ったことがあります。ふだんはすごく温厚で優しくって。 |
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後輩や朋友会へのメッセージをお願いします | ||
横高のいいところは、遊ぶときは遊び、学ぶときは学ぶ、というメリハリがある生活が出来るところです。ぜひ楽しみつつ勉強も頑張りましょう。もし嫌いでなかったら、人のために役に立つようなお仕事をしましょう。どんな仕事でも人のためにはなりますが、中でもお医者さんっていいですよ。
今回、被災地支援を行う中で、ほんとうに医者になってよかったなと思いました。今回は特に放射能の問題もありましたから、普通のボランティアは被災地に入れなかったんです。私は医療支援ということで通行許可証もとれ、どうぞ来てくださいという形で歓迎されたので、ほんとにありがたいことなんだなと思いました。ボランティアって自分のためにやるんじゃないんですよね。喜んでもらえる、だから、やるんだというボランティアの意味を履き違えてしまう人もいるので、職業として医者はいいですよ。いくつになっても続けられるし。過疎地に行くと90歳になっても続けているおじいちゃん先生とかもいます。定年もないしね、会社とかに惑わされることもないし。 横須賀と雄勝はつながっているような気がします。同じ太平洋に面していますので、海つながりで、朋友会の方々にも、ぜひご賛同いただけたら嬉しいです。最初だけ支援をおくって、それで終わってしまうという方や、もう忘れたいという方もいますが、これからがたいへんな時期です。5年後10年後の雄勝がどうなっているか、見守ってほしいし、ぜひ支えてほしいなと思います。 横須賀の海に開けた明るい土地柄が、今の私の活動にも繋がっています。一緒に頑張りましょう! |
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取 材 後 記 | ||
一昨年(2009年)秋に、横高卒業30年ということで、高31期の学年同窓会を催しました。恩師7名を含む219名で盛況でしたが、この企画の各クラス幹事が集まって勉強会的に、今年(2011年)4月に山王さんを招きました。震災救援活動を続けている山王さんの話をうかがい、支援の輪を広めていこうと同期の中で動き始めましたが、さらに輪を広げる術はないかと朋友会ホームページ委員会で話題にしたところ、ありがたくも取材の機会を得ました。
ただ、なかなか夏休みに入らないと動きがとれず、真夏の盛りに品川を訪れました。同期の中で才女と謳われた山王さんです(なにしろ数学の実力テストの答案用紙を解答で埋めることができたというのが、文系の私には驚愕でした)ので、さぞや勉学に励まれたのだろうと思って聞いてみると、控えめながらまっすぐなお答え。現在の活動といい、山王さんのパワーを肌身で感じてまいりました。 その後、編集などにも時間がかかってしまいましたが、今年母校から転出し校内幹事は外れたものの、一朋友会員として、こうして記事をお届けすることができまして安堵しております。どうぞ共に支え合う力をよろしくお願い申し上げます。 岡花弘幸(高31期) |
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私の祖母の実家が宮城県栗原市、東日本大震災で最大震度を観測した 所です。親戚もみな無事でしたがいろいろ大変な思いをしたようです。 まして津波に遭われた方々は濡れた身体でどれだけ寒かったことか...心配するだけで、何もできない無力さにもどかしい思いをしていました。そんな時、山王さんのことをニュースで知ってうれしくて感激、今回の取材に同行させていただいた次第です。 実際お会いしてみると、全く飾らず自然体で笑顔がとても優しい先生で す。 医療支援だけでなく雄勝のみなさんの心の支えになっているんだなと感じました。先生もご主人もみな様もお身体に気を付けて厳しい冬を乗り切って下さい。そして、一日も早くにぎやかな町が戻って来ますように... |
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石渡 明美(高23期) | |||
[022] 小泉 純一郎 さん(高12期) | ||
プロフィール |
昭和17年(1942年) | 1月 | 横須賀で出生 | ||||
昭和29年(1954年) | 3月 | 横須賀市立山崎小学校卒業 | ||||
昭和32年(1957年) | 3月 | 横須賀市立馬堀中学校卒業 | ||||
昭和35年(1960年) | 3月 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | ||||
昭和42年(1967年) | 3月 | 慶應義塾大学卒業 | ||||
昭和47年(1972年) | 12月 | 衆議院議員初当選、以後厚生大臣、郵政大臣を歴任 | ||||
平成13年(2001年) | 4月 | 第87代内閣総理大臣就任 ~2003年11月(在職938日) | ||||
平成15年(2003年) | 11月 | 第88代内閣総理大臣就任 ~2005年9月(在職371日) | ||||
平成17年(2005年) | 9月 | 第89代内閣総理大臣就任 ~2006年9月(在職371日) | ||||
平成18年(2006年) | 9月 | 小泉内閣総辞職、内閣総理大臣退任 | ||||
横高時代を振り返って | ||
当時、親の後を継ぎたくない、政治家以外の職業に就こうと思っていたので、きわめて穏やかでおとなしく、できるだけ人目に立たないように、目立たないようにという習慣がついてしまった。また、横高の図書館にはかなり沢山の本を借りた記録があるようだが、日本文学、世界文学を読んでもつまらないからすぐやめてしまい、たいした本を読んだという記憶はない。 | ||
横高卒業記念3年6組 前から2列目中央が小泉純一郎氏 |
それが、大学に入ってから本を読み出し、以後、現在に至るまで、寝る前は本を読まないと寝られないという癖がついた。また、大学に入って何年か経ってから政治に興味を持つようになり、その方面の勉強に励み、そしていつの間にか、変人と言われながらも総理大臣になってしまった。不思議なものです。人間の考え方というものは時が経つと変わるものです。今、「これしかない」と思わないほうがいい。 |
マスコミで変人と言われる言葉について | ||
外国人記者の会で「私の数々の活動から、マスコミで言われている変人といわれるに相応しい英語はどんな英語だ」と聞いたら、記者は「Koizumi StrangeでもEccentricでもない。あなたはExtraordinary」だといわれた。「Ordinary」→普通、「Extra」→高級な(ウイスキーでもブランデーでも使う)日本で言う変人とは違う、チョッと特別、しゃれた語感が気にいっていて、英語ではExtraordinaryで通している。 |
マイナスをプラスに捉える努力が大事 | ||
「変人」のイメージは常識はずれの行動をする人、一般の人は調和できない人というふうにとられ、マイナスのイメージが強いが、何か変わったことをやっても「私、変人って言われるからいいんだ」って言うと、みんな納得しちゃう。自分にマイナスのイメージがあった場合はそれを悲観しないで、マイナスをプラスに捉える努力が大変大事だと思っている。 |
教育で一番大事なこと | ||
教育で一番大事なことはなにか。吉田松陰は人を褒めることだと言っている。人にはそれぞれの持ち味があり、どんな人でも必ず1つや2つは良いところがある。人は褒められるとやる気が出てくる。けなされたり、さげすまされたりすると、落ち込んでしまったり、反発する。親も子供に対し、叱ってばかりいてはだめ、7割がた褒めてあと3割は怒らないで叱れ。怒ってはだめ。これは幼児教育の基本である。 |
人間の三大欲 |
人間の三大欲は食欲・性欲・名誉欲である。食欲がなかったら生きていけない。性欲がなかったら人類が滅びてしまう。名誉欲は政治家だけが持っているのではなく誰でも持っている欲で、人に認められてもらいたい欲のことである。人に認められて嬉しい、これが名誉欲である。日本国家も世界から認めてもらいたい。企業や学校も国民、県民、市民から「いい企業だなあ」、「いい学校だなあ」と認めてもらいたい。国家・企業・学校・先生・生徒・政治家・誰でもが持っている欲である。 |
信頼される人 |
人に認めてもらうことは極めて大事なもので、認めてもらう最良の方法は信頼を得ることである。信頼を得るためにはどういうことをしたら良いか。これが難しい。常日頃考えていますが、多く言ってもしょうがありません。三点を申し上げたい。一つ目は決められた時間を守る人、二つ目は人の悪口を言わない人、三つ目はケネディー大統領の就任演説にもあった、「人や所属する組織が自分に何をしてくれるのだろうではなく、人や所属する組織に自分は何ができるのだろうか」と考えて努力する人である。この三点を考えて行動すれば、信頼される人間になれる。しかし、口では簡単に言えるが、実際これを実行することはなかなか難しいことである。 |
自らを助ける精神、自らを律する精神 | ||
今後、世の中が変化していくと思いますが、どんなに時代や社会が変化しても変わらない最も大事なものは自らを助ける精神、自らを律する精神だと思っています。野口英世は家庭も貧しく、手も障害を持って不自由だった。51歳でアフリカのガーナで黄熱病の研究の際に黄熱病にかかり死んでしまったんですが、当時、世界で最も有名な日本人でした。貧乏で、学校へ行く金もない。しかし、あの才能を見捨てるのは惜しいということで、多くの人が野口英世を支え、助けた。だから、ああいう不運な境遇とか障害を克服して、世界的な名声を博するような博士として活躍された。自らを助ける人、自ら努力している人は人がほっておきません。自分の持ち味を生かすために勉強していく、努力していく。そういうことはどんな時代になっても変わらない、ということを是非銘記していただきたい。 |
活躍する上において重要なこと | ||
健康が第一です。食事をいい加減にしてはいけない。食べることによって身体ができる。食物を正しくしていくことが出来るかどうかが、健康になるか不健康になるかを決める重要な要素です。(明治時代、陸軍の軍人は脚気が多く、海軍は脚気の人が少なかった。陸軍の軍医森鴎外はウイルス、細菌説を、海軍の軍医高木兼寛は食物説を唱えた例を話し)食物をおろそかにしてはいけない。今、脚気なんて忘れられている。食物が改善されて、バランスのとれた食物をとっているからなのです。病気になる、健康になるっていうのは、食物がいかに大事かって言うことがわかると思います。健康な体をつくるのは、薬でもない。病気になったら、薬やお医者さんも必要でしょう。しかし、その前に、普段の生活からしっかりした正しい食生活をおくることが、どんな分野で活躍する上においても極めて重要なことです。 |
記念講演に際し母校に贈る書 | ||
何か書を書いてくれと校長先生から言われたので、生涯学ぶことの大切さを説いた江戸時代の学者佐藤一斎のことばを書いて母校に贈ります。これは私の好きな言葉です。 |
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少くして学べば壮にして為す有り 壮にして学べば老いて衰えず 老いて学べば死して朽ちず |
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若いときに学べば大人になって有為な人材になる 大人になって学べば年をとっても衰えない 歳をとって学べば死んでも腐らない |
三行目「歳をとって学べば死んでも腐らない」がまたいいですねえ。人間は、学ぶことの楽しさ、自分の知らなかったことがわかるという楽しさをもっている。これから学校を卒業すればもっと学ばなければならないことがたくさんあります。学ぶ意欲を忘れないで自分を磨いていただきたいと思います。 |
人間の真価は一番苦しいときにどういう態度をとるかで決まる |
みなさんも、これから色々な困難に遭遇すると思います。世の中思うようにならないことが当たり前なのです。プロ野球の松井選手、イチロー選手、超一流選手でも3割打つのは容易じゃない。サッカーだってシュートがゴールに入るのはごくわずか。失敗して当たり前。10のうち3つ良かったなと思えばよしと思う。世の中、上手くいくのは滅多にない。だから失敗しても落ち込むことはない。困難に直面したときに、どのように立ち向かってがんばるか。これによって人間は評価されます。 |
恩師小川省二先生が語る小泉氏 |
クラッシック音楽や映画を好むもの静かな文学青年だった。父の急死で、彼にとっておよそ不似合いな政治の世界にほうり込まれてしまった。それを知ったとき私は彼の気持ちを思い、心底可哀想でならなかった。 |