神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】原田 一之 さん(高24期)
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(取材日:2014年7月22日)
プロフィール
1972年 3月 県立横須賀高校卒業
1976年 3月 東北大学法学部卒業
1976年 4月 京浜急行電鉄株式会社入社 上大岡駅配属
11月 三崎営業所
1977年 2月 金沢文庫車掌区
 <省 略>
1998年 9月 鉄道本部計画営業部営業課長
   
2001年 6月 株式会社京急ステーションサービス 取締役社長
 
2004年 6月 京浜急行電鉄株式会社 鉄道本部計画営業部長
2005年 6月 人事部長
2007年 6月 取締役鉄道本部計画営業部長
2010年 6月 常務取締役鉄道本部長兼事業計画推進部長
2011年 6月 専務取締役グループ戦略室長
2013年 6月 取締役社長
 
本日は、お忙しいところ取材の時間を取って頂いてありがとうございました。
日ごろ横須賀高校の現役生に対しても、研修でのバスの提供や駅貼りポスターについて格別のご配慮を頂き感謝しております。
 

お生まれは?
 

お生まれはどちらですか?

横須賀の衣笠病院です。
池の端商店街の近くに住んでいましたが、4歳の頃平作に移りました。そこから歩いて横高に通いました。
大学時代は仙台に住み、就職して実家に戻りましたが、結婚して大和に居を構えて三十数年経ちました。

京急電鉄に入社
 

就職活動はいかがでしたか?

その頃は、オイルショックの直後で、前年に内定取り消しなどで就職できなかった方も多く、大変厳しい環境でした。
その頃の京急電鉄は、地方の私鉄という印象でした。採用試験は1年おきにしかやっていませんでした。また、厳格であり内定を先に出すようなことは全くしませんでしたから11月1日の解禁日まで取り合ってもらえませんでした。

会社に入って、いかがでしたか?
私は,いわゆる鉄道好きな「鉄ちゃん」ではありませんでした。
高校生まで住んでいたのが、平作でしたから、学校へ行くのはほとんどが徒歩でした。
たまにバスに乗ることはありましたが、電車にはほとんど乗らず、京急にも特別な気持ちはありませんでした。

だから最初は違和感はありましたよ。しかし、いろいろな現場に行って仕事をするうちに、どんどん会社が好きになり、良い会社に入ったんだなと思うようになりました。鉄道の良さも、入社してから実感しました。

わたしは人事部など本社内での仕事が多かったのですが、印象的だったのは横須賀リサーチパーク(YRP)です。横須賀リサーチパーク(YRP)の開発を3年ほど担当した事がありました。現地はまだ未開発の状態で、アセスメントもこれからの時でした。地元説明をしたり、文化財や遺跡の調査、家庭菜園をしていた方々と話をしたりしました。
"沿線をつくる"ということが、私にとって一番大きな転機になりましたね。
そして、鉄道というどまんなかの事業に携わったのは計画営業部の営業課時代です。わたしも自然と鉄道ファンになりました。
鉄道は、大きな仕組みの中で動いているという感動を経験することができました。京急電鉄に入社して22年目で、初めて直接鉄道の仕事に関わることができたのです。

人事異動でいろいろな部署を経験し、鉄道の営業を通して、会社をさらに知ることになりました。
そして東日本大震災、その後の計画停電などを経験して、今日に至っています。

そして、今は社長ですね
京急電鉄は、今でこそ羽田空港とつながって全国、また世界が沿線とも言えますが、入社当時は三浦半島に特化した鉄道会社でした。地元を中心にいろいろな事業をやっ
ていた規模の小さな会社なんですよ。これが、かえって私は向いていたのだと思っています。

大学4年の10月、大学のある仙台の駅前でのことですが、すでに就職が決まった同級生に会い、「おまえは小さな会社が向いている」と言われました。私はそれを今でも鮮明に覚えていて、「実際にそうだったのだな」と思い返しています。

 
社長さんになって大変だと思う事は?
振り返る人がいなくなってしまった。
最終的には自分が決めていかなくてはいけないのです。これが今まではとは違う点ですね。
 
孤独感はありますか?
そんなに孤独ではないですよこの世界はね。思った事がないです。
 
京急電鉄は、三浦半島にとって重要なインフラであり、無くてはならない生活の足です。
そういう中で、現在の状況とこれからの発展についてお聞かせ下さい。

私が取締役社長に就任した際、長期ビジョンを「品川・羽田を玄関口として,国内外の多くの人々が集う,豊かな沿線を目指す」と定めました。

交通事業は人の移動が伴います。品川や羽田という玄関口を通じて、多くのお客さまに訪れていただく。沿線に広く相乗効果を波及させ交流人口だけでなく、就労人口や定住人口も増加させてゆく。品川と羽田を拠点に沿線全域の活性化につなげ、多くの人々が集う豊かな沿線を目指したいと考えています。

京急電鉄は87kmの距離を走っていますが、金沢八景駅よりも南側は、残念ながらお客さまが減少しています。人口が減少していますから、難しい面はあるのですが、たとえば、
「みさきまぐろきっぷ」や「よこすかグルメきっぷ」は大変好評で、売り上げは着実に伸びています。
電車ばかりでなく、バスやタクシー,ホテルなど、こうしたグループ全体で力を合わせ創意工夫でやっていきたいと思っています。

5月の連休に「三崎に行こうとするとバスが動かない。」せっかく来られたお客さまから、本当は三崎まで行きたかったけど、混んでいたから三浦海岸までしか行けなかった。と言う話を聞いた事があります。 こうした事は京急グループだけの力ではなく、地元の力も大事で、道路・行政が連携して、地域の特性を生かしつつ三浦半島全体の活性化を図る必要があると考えています。

京急は三浦半島の活性化のために、連携の接着剤として頑張りたいと思っています。

話は変わりますが、黄色い電車は評判が良いですねえ。乗りたいと待っている人もいます。


社長室に掛けられていた書
ありがとうございます。「KEIKYU YELLOW HAPPY TRAIN」のことですね。私も、幸運にも乗車する機会がありました。その時、降りられたお客さまが写真を撮っているのを拝見しました。
いろんな意見があって、それを進めていくと、広がりが出てきて良いですね。ちなみに、これは若い人のアイディアで実現しました。
 
スーパーもいろいろな形があります。「KEIKYU FHaB湘南池上店」がありますが、ちょっと良い物を取り揃えていますね。
ありがとうございます。京急ストアと言う事で、お客さまに安心してお買い求め頂けるようにと考えています。エイビィさんも元気ですね。同じ横高出身です。
 
社長室に掛けられた書はなんですか?
座右の銘です。頂いたので、ここに掛けています。
<注>
「縁尋機妙」は、安岡正篤師がよく口にされた言葉で、「よい縁がさらによい縁を尋ねていく仕方が実に機妙である」という意味。

   <安岡 正篤(やすおか まさひろ、1898年(明治31年)2月13日-1983年(昭和58年)12月 13日)は陽明学者・思想家>
 
 
横高時代
 

横高時代の思い出は?

 

高校3年の6月に、学校の正門前の道路を渡ろうとしたら、車にはねられてしまいました。怪我はさほどではなかったのですが、頭を打って意識をなくしてしまい、救急車で病院へかつぎ込まれました。

そして1週間ぐらいの入院で事なきを得たのですが、その後の入試で、東北大学に受かったことを担任の園部先生に報告したら、「おまえは、交通事故で頭を打って良かったなあ」と言われました。

クラスは最後の8組で、最初の担任の先生はすぐに替わってしまい、それから園部先生と3年間いっしょでした。クラス替えはなく、女子は6組まででしたから、男子だけでのびのびしていましたよ。

私は、運動は音痴で音楽も出来ませんから、クラブには入っていなかったです。しかし、仲間におもしろいのがいっぱいいて、体育祭なんかは楽しかったですね。

私たち(取材者たち)の時代の女子はもっと少なかった。3組まででしたよ。
そんなに少なかったんですか?それではあきらめがつきますね。(笑)
7組8組は端っこで3年間男だけで、損しちゃいましたよ。
 
高校時代の先生は、やはり園部先生ですか?



右端 学年主任の大塚先生


中央 担任の園部先生
クラスの集合写真から


そうですね。川崎先生という数学の先生で若い先生がいて印象に残っていますが、お世話になったと言う点では、園部先生です。

国語の古典をやっていた大石先生というのも記憶に残っています。

個性的な先生が多かったから、生徒も個性的なんですよ。(笑)

 
24期というのは、あまり同窓会をやられていないようですが?
この前初めてやったんです。
還暦だからやろうという話でした。200人ぐらい集まって結構な賑わいでしたよ。場所は元映画館を改装したライブハウスでした。

       <24期初めての同窓会の模様は、こちら
 
 
在校生へのメッセージ
現役生にメッセージは? 「一生懸命勉強せよ」とでも?

そんな事は言いませんよ。(笑)

高校生はまだ成人前です。これから何でも出来る。いろんなものを吸収できるのですから、これだと決めなくても良いと思います。海綿体のような存在と考え、柔軟に興味を持っていて下さい。今の高校生は、はっきりしたものを持って、こうしたいと考えているのかもしれませんがね。色々吸収して、それから大学時代にきちんと考えてつかんできて欲しいと思います。

会社に入ってきたとき、ダメな奴は一生ダメだと私はよく言いますよ。もちろん伸びる奴もいますけど、高校生が大化けするのと比べれば、大学生は大化けしません。高校生のとき,元気の良かった人は、うちの会社では力を発揮していますよ。(笑)

高校卒で入社した50歳代の者が何人もいますが、皆それなりのポストにいますよ。高校時代元気の良かった人でも、会社に入れば会社がしっかりと教育します。京急では社会性のある教育をきちんとしますからね。大学生とは違いますよ。

   
大学生を選別する基準はあるのですか?
採用試験を受ける約3,000名もの学生は、本当に少ない枠に応募してきます。実に狭き門をくぐり抜けてくるのです。京急電鉄では、面接を非常に大切にしています。

しかし、私を含めて役員は面接に立ち会うことはありません。若手の人が面接をして、「この人だったら一緒に仕事が出来る」と判断します。我々役員クラスが会うとダメですね。
入社したいという学生たちの、ちょっと上の先輩達の意見が重要だと考えています。

私が新入社員に対してよく言うのことなのですが、「入社前までは、会社は良い事ばかりを言います。しかし,それを信じてはいけない。入社してからが大切なんだ。描いていた理想なんてすぐに打ち砕かれる。入社後に本当に好きになるかどうかが大切なんだ。」と。新入社員はそれぞれ理想を持っています。しかし,入社すると逆風もあります。そういうものを乗り越えて、本当に会社を好きになることが重要だと。

 
取材後記
左から杉原、原田さん、和田、持田

朝日新聞の記事の「青春スクロール」で初めて同窓生と気づきました。以前会社の異業種交流研修で知り合っていましたが、まさか・・・と住所録を調べ直してびっくり。早速連絡をしたら、快く取材に応じて頂き感謝します。
泉岳寺にある京急電鉄本社の社長室でのお話で、大変楽しいひとときを過ごしました。
和田良平(高17期)

梅雨明けの厳しい暑さの中、厳重なセキュリティーの受付から美人の秘書さんに案内していただき、久しぶりに緊張しました。原田社長さんは質問に気さくに回答され、インタビューは順調に行われました。
原田社長さんのお話をお聞きし、色々とご苦労があると思いました。
今後とも健康に留意されご活躍を祈念致します。持田明泰(高17期)

現役社会人の時に、駅務システム関係の仕事でお世話になった関係もあり、インタビューに同行させて頂きました。
原田社長は、当時の仕事の内容も把握されていて、当時の思い出話にも相槌を打たれ、大変懐かしい一時を過ごさせて頂きました。

京急沿線に住む我々としては、京急のますますの発展を願いつつ、泉岳寺のビルを後にしました。杉原芳樹(高10期)

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