米軍は沖縄本島に上陸し、日本軍と各地で戦火を交えましたが、私たちの住む地域に米軍が侵入したのは、日本軍はすでに南の方へ撤退した直後でした。しかしなおも無差別に攻撃を続け、火炎放射器で村落を焼き尽し乍ら進撃してきました。
その頃自然洞窟(ガマ)の壕に隠れていた隣組の人々50人ほどの仲間と一緒でしたが、突然入り口が爆破されたので、奥の抜け穴から脱出することに決まりました。暗闇の洞窟をそれぞれランプの灯りを頼りに進行しましたが、洞窟の底は池のように水が溜っていました。小学生では渡れない場所にいくつも出くわし、大人でも渡れない深みもありました。不安の中10時間位経って、やっと抜け穴にたどり着き脱出に成功しました。これで古老の話を頼りにした未踏の冒険は終わることになりましたが、その時点が一緒に行動してきた隣組の仲間達とは運命の分かれ道となってしまいました。
地上に出た時は真夜中でこれ以上移動するのは無理と考えた母は親戚の入っている壕を訪ねることにしました。道中の夜の空には艦砲射撃の火の玉が妙な音を立てながら流星のように飛んで行き、照明弾が上がる度に反射的に地べたに伏せ、何回か繰り返しているうちに無事目的の壕にたどり着くことができたのです。着の身着のまま脱出してきたので、非常食も底をつき、水で溶かした澱粉に砂糖を入れ、クスイ(=薬のことで栄養価のある物の総称)だからと言われて飲みました。
運よく先に捕虜にされた有志達が米兵を連れて確認に来たところで、全員救出されることになりました。壕の前には数人の米兵が銃を構えて立っており、出てきた瞬間には外の眩しさに目が眩み子供の私でもしゃがみ込んだ記憶は今も忘れることができません。それでも、一家5人は無事生き残りました。
日本軍が正式に降伏し、ようやく戦火が収まりましたが、各地から地元に帰ってきた村民は全て再び収容所生活を余儀なくされました。自分たちの土地は本土侵攻のため建設された米軍用の飛行場になったため、駐機場には飛行機が放置されたままでした。それ以来一帯の住民は帰る場所や住む場所も失い現在に至っています。それが現在の普天間基地です。それから約80年経過していますが、先祖代々の土地、昔の「我が家」の所在地は金網の向う側で近寄ることはできません。
8期 宮城 幸盛
昭和28年(1953年)当時米軍の管理下にあった沖縄からパスポートを携えて横須賀高校に「留学」した8期生