我が母校 初代校長 吉田庫三(よしだ くらぞう)先生につきましては、朋友会の年配の方々はそのお人柄、教育者としての卓越した指導者である事等、すでに知るところでありますが、(80年史にも掲載された)若い方々は当校の歴史を含め庫三先生について知る機会が少ないかと思われます。今回、より多くの方々が知っていただければと思い寄稿することにしました。最近読んでいる著書の中に、偶然にも吉田庫三初代校長に関する記事に触れる機会があり、その記事を以下紹介致します。
小生、最近、台湾と中国との関係が注目され、気になるところです。少しでも台湾の歴史を理解しようと思い、司馬遼太郎著街道をゆく「台湾紀行」に触れ、読んでいる中で、吉田庫三先生が乃木希典(のぎ まれすけ陸軍大将)との縁で登場してきます。乃木希典は、吉田庫三とは親戚で、詩友であり、乃木が台湾統治に係わるようになった時、台湾人の反乱にあい苦慮し、その事で、吉田庫三に相談を持ち掛けていたところから、吉田庫三とはどんな人物かという司馬さんの紹介が始まります。
吉田庫三という人は無名の人に近い。大正六年刊の「現代防長人物史」の人名録にこの人の名が出ている。神奈川県立横須賀中学校の校長であった人である。また、庫三は吉田松陰(しょういん)の吉田家を松陰没後に嗣ぎ、死後養子になった。また、伊藤博文、山形有明らの大官たちが聖者として仰いでいる松陰の養子が栄達を求めなかったのは小気味いい。吉田庫三は松陰の甥である。松陰の妹が児玉祐之に嫁ぎ、その次男として庫三が生まれた。前記「防長人物史」庫三についていう。「頑陋(がんろう)にて厳直、敢えて阿諛(あゆ)功辞を弄(ろう) せず、一意専心育英を以て天爵と為し、至誠一貫の人なり・・・」庫三君の夫人は茂子と呼び、子なし、現時神奈川県横須賀佐野三四二番地に住し、家庭高尚厳格なり。
ここまでは司馬さんの書「台湾紀行」による吉田庫三さんの紹介内容であります。さらに吉田庫三さんが横須賀中学の校長に選ばれたかについてふれてみたい。横須賀が日本一の軍港であり、そこには海軍の子弟が多く、それらの人の為にも人材育成がのぞまれる事もあり、庫三氏が適材と考え、長州筋の内務官僚が推挙したのではないかと推察する。横中から海軍兵学校への入学者が多しという話は良く聞いた話です。海軍兵学校への入学は難関で、その入学倍率が15倍で東大より難しいと言われていた。横中、湘南中、逗子開成中学は全国でもトップクラスで海兵に入る予備校的存在であったと言われている。
この書を読んで、我が母校は全国でも有数の由緒ある歴史に基づいた伝統校である事を再認識した次第です。この事については、一昨年発刊した猪熊達夫著「名門高校100」に横須賀高校が選出されていることから裏付けられている。今後も後輩の人たちが誇りを持ち、この伝統を守って行けるよう頑張ってほしいと願っています。小生も朋友会の仲間と共に応援していきたいと思います。
8期 千葉恭義(横須賀高校三田会幹事)
ご参考 街道を行く 「台湾紀行」
司馬遼太郎著 P145~P155