神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】三笑亭 小夢 さん(高41期)
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(取材日:2015年7月12日)

プロフィール
1986年 横須賀市立久里浜中学校卒業
1989年 県立横須賀高校卒業
1993年 立教大学文学部日本文学科卒業
1993年 株式会社オレンジページ入社
2001年 三笑亭夢丸に入門、朝夢の名をもらい前座
2005年 二つ目昇進
2015年 真打ち昇進、三笑亭小夢となる
 
 
落語家になろうと思ったきっかけからお聞かせ下さい
 実は大学卒業後、8年近くサラリーマンをしていました。ただ虚弱体質で仕事も休みがち、有給休暇をいつも100%以上消化しおりまして、「これはまずい。何か労働時間の短い仕事はないかしら」...これは冗談半分ですが、半分本気。仕事としっくりいかない部分もあり、「他に何かやりたいことはあるのでは」と思っておりました。そんな頃です、とある出張帰りの飛行機の中で、機内で聞けるオーディオサービスに落語のコンテンツがありますよね。ちょうど古今亭志ん朝師匠の「宿屋の富」をやっていたんです。それを聴いて、ガーンとバットで殴られたような強烈な衝撃を受けました。「これはすごい。ひとりしゃべりの芸でここまで緻密な描写できるのか!」と。
 その足ですぐにCDを買いに行きました。当時会社が銀座にあって、山野楽器で落語のコーナーを見たら、こんなにあるのかと思うほどあるんですよ。それを毎日、棚の端からどんどん買っていきました。そうなると今度は実物を見たいとなり、寄席やホール落語へと出かけて行きました。色々な名人の噺を聞いて、落語CDも専用の棚を買って分類しました。ここまで来るのに1年とちょっと。その頃には、落語に係わる仕事ができないものかと思うようになっていました。方向性は二つ、落語情報誌など「書くほう」、そして実際に「喋るほう」。もっとも、後者は「キャッチボールもできない子供がプロ野球選手を目指す」ようなものですから、なんの下地のない自分は無理だろうなと思いました。
 そんな年のお正月、横須賀に里帰りをしてコタツで落語情報誌を見ていたら、師匠三笑亭夢丸の「落語台本募集」の記事を見つけて、「これだ、これしかない!」と思いました。
 前年の暮れに、たまたま池袋演芸場へお題噺(お客様からいただいた題で即席噺を作る)の会を見に行ったとき、私が客席から出した「のぞき穴」というお題を採用してもらったことがありました。それを思い出し、「それじゃあ、自分だったらこのお題でどんな噺を作るのか」と考え、書いてみました。ところが、読み返してみると全然だめなんです。そこで1月から締切の3月まで帰宅後は机に向かい書き続け、合計4本の噺を書き上げました。何か見えない力が働いたんでしょう、3本目に書いた「夢の破片(かけら)」という噺が第1回の「夢丸新江戸噺し」の優秀賞に選ばれました。噺を書いていくうちに「書きたい」衝動よりも、自分で「喋りたい」という衝動が勝ってきていました。
 すでに辞表を提出し、腹もくくっていたので、入選の連絡を受けた私は、すぐに実家に帰り親を説得。震える手で受話器を握り、師匠夢丸に入門のお願いをしました。
 まぁ親には泣かれましたね。今でもその時の母親の一言が忘れられません。曰く「東京になんか...やるんじゃなかった」(笑)

自筆の似顔絵
 

落語家の修業は、どのようでしたか

 「修業はつらかったでしょう」とよく言われるのですが、どうでしょうか。両方経験した経験から言わせてもらいますと、会社勤めの方がよっぽどたいへんに思われます。いわゆる「9to5」に耐えられなかった私にしてみれば、この世界、朝早いといっても11時とか10時半には行けばいいんです。開場の一番太鼓を入れるのが11時半ですから。さらに残業もありません。昼席なら4時半に終わって5時には帰れますし、夜席だとしても夕方に行って9時には終わります。つまり残業もないんですね。それに今は住込みの弟子というのはあまりなくて、私も通い弟子でした。最初の1年は師匠のところへほぼ毎日行きましたが、師匠から「何かあったか?」といつも聞かれても「いえ特には」...日々この会話の繰り返し。弟弟子が入って来てからは「そんなに来なくていいよ」となりました(笑)。
 社会人時代に身に付けたパソコンも役に立ちました。ちょうど師匠が「新江戸噺し」の台本やら鳴り物を入れるきっかけを整理している頃だったので重宝されましたね。ただし寄席は毎日休みなし...これは定期的に身体を壊す私には辛かった。弟弟子の二代夢丸さんはじめ仲間にはずいぶん助けられました。 前座修行は4年間ですから、ちょうど30歳を迎えたところで大学時代をやり直したような、それはまさに「落語大学」というキャンパスライフそのものでした。最初はお茶くみから始まって、休みなく寄席に行き、年下の先輩に怒られながら、掃除をしたり、座布団を返し(舞台転換)、三味線に合わせて太鼓を叩き、もちろん辛いこと苦しいこともありましたが、仲間に支えられて、言わば「第二の青春」をやり直したようなものでした。ただ環境の変化は凄まじく、なかでもいちばん閉口したのは「女性社会→男性社会」の大転換。私は文学部日文出身。50人クラスのうち男子は10人でした。卒業後、入社した会社も仕事柄7割強が女性。そんな恵まれた(?)環境から一変、そこは古い「男」の社会。ついこないだまで「この花柄ワンピかわいい!」などと女性社員と一緒にはしゃいでいたのに、汗臭い師匠方に着物を着せ、そして畳む...女性に囲まれて過ごしてきた私にとってこれはキツかったですね(笑)。
 次の二ツ目時代が長く、ここでいかにどうしていくかなんですが、この10年間も自分のペースでできました。ただ残念ながら、5年くらい経ってからでしょうか、師匠が患いだして、最後の3年間は辛い闘病をし、今年(2015年)の3月7日に亡くなりました。真打披露興行が5月の1日からでしたから、2か月弱間に合わなかったことになります。それが一番つらく、残念なことでした。


前座時代、夢丸師匠と 

師匠との思い出をお聞かせ下さい

 正直まだ実感がわかないというのが本音です。師匠が3月に亡くなって、5月からバタバタと真打披露興行が始まりましたので。これからじわじわと喪失感が湧いてくるんでしょう。私は師匠にあまり怒られたことがないんです。弟子は3人ですが、私はどなられたことはないんです。一回だけ、身体のことできつく言われたことがありましたね、「お前はなんで、おれの江戸噺し興行の頃に体調崩すんだ」と。これは毎年冬の時期なんで、しょうがないんです。兄弟弟子にはうらやましいなんて言われますが、師匠は弟子によって育て方を変えていると聞いたことがあります。私は弱い人間だったので、まあ社会人も経験しているし、こういう育て方をしようと思ってくれたのかと思います。いつも「朝夢さん」と「さん」づけで穏やかに接してくれました。よく「ちゃんとした社会人になりなさい」と言われました。人間としてしっかりしないといけない、「芸は人なり」、そういう部分は高座に出てしまうんだよと。
 そういう真面目なところばかりでなく、おもしろい方で、雑学の多い人でした。入りたてのまだ見習い、かばん持ちの頃ですかね。国立演芸場と新宿末広亭を掛け持ちしていた師匠と一緒に歩いていた時に、「朝夢さん、銀杏の木にオスとメスがあるのを知っているかい」といきなり尋ねられまして。「...いえ、知りません」と答えると「枝ぶりがこう上に伸びている、あれがオスだ。メスはその逆だ」と教えてくれました。止せばいいのに私が「それはどうしてですかね?」と聞くと、「そりゃお前、こう上に伸びて《オスー》って感じがするだろ!」と(笑)。
 晩年には「雑学落語というのを今度作ろうと思ってるんだ」と楽しそうに話をしていました。「教わった落語をただやるだけじゃだめ」、これも師匠の教えです。師匠自身も江戸噺しの原稿を書いたりしていましたから、これを継承していってほしいということで、「お前さんは文学的なセンスがあるんだから、それを活かした芸人になりなさい」と言っていただきました。

 師匠の最期は、声が出せなくなってしまいました。噺家として声を奪われる...本当に辛いことだったと思います。亡くなる前に、真打昇進の手ぬぐいを見せて、口上書きも見ていただいて、よかったなと握手をしてくださって...。
 折にふれていろんなことを思い出します。師匠は自他ともに認める「晴れ男」だったんですよね。協会主催のファン感謝イベントがあり、その年はなんと大型台風が接近中。私が「師匠、お願いします」と言うと、「うん、まかせろ」と自然に即答してくださいました(笑)。そして当日は台風一過の青空でした...なんだか肝心なところでは必ず、お葬式もそうでしたし、披露興行も、このあいだの楽日(最終日7月10日)も梅雨時の中でも晴れましたし...これは師匠がそうしてくれたのかなと思います。
 真打になれましたが、これはゴールではないので、ここからがピカピカの1年生。ようやくスタートです。「朝夢」から「小夢」と名乗ることになりましたが、小さい夢でもいいから、きれいな夢を描いて、小さなことからコツコツというふうに考えています。

  

3人の新真打ちと協会幹部が並ぶ披露口上風景
 
会社員時代についてうかがいます

 大学時代に漫研に入部しました。そこで部長を務めていた憧れの先輩のあとを追って出版社「オレンジページ」へ入社しました。女性向けの生活情報誌です。最初は編集で入って、でも仕事ができなくて体もこわして。とうとう少し休んで、新しい部署に移りました。そこではいろんな経験をさせていただきました。なかでも思い出深いのは、料理にお菓子、各種イベントの主催です。
 人前でしゃべることが楽しかったですね。そこで、社会人としてのいろはを教わった素敵な上司と出会えました。この世界に入ってからも「まだまだやなぁ」と言って、いろいろとアドバイスをしていただきました。社会人としてどうあるべきかの基礎は、この会社で学ばせてもらいました。それは落語の世界に入ってからも活かせたので、「遠回りをしたね」と言われることもありますけれど、けっしてそうでもないと思っています。
 おかげで落語とも出会えましたし。節目節目で、そういう方々にお会いして...私は人との出会いに関しては、けっこう恵まれていると思います。

 
高校時代は、いかがだったんですか

 高校時代は、学外サークルで活動していました。大学の人が来て、いろんなことをやってみようというもので、キャンプに行ったり、一晩みんなと話し合ってみたり。あとはクラスの友達との想い出は多いですね。夏休みを丸々潰して映画を撮ったりしました。3年間クラス替えがないと面白いですよね。そのつながりは今でも財産になってます。
 勉強はあまり出来ませんでしたが、ただテストで点をとるのはうまかったんです。「できる友人と勉強をする」というのがそのコツです。私は文系で、化学や物理がダメで中間テストで赤点だったときは、これが得意な友達と一緒に勉強すると、「ああここがヤマなんだな」というのがわかりました。そういうずる賢さは昔からですかね(笑)。
 担任は長網先生でした。まだお若くて25歳くらいだったでしょうか、兄貴みたいな感じでした。あたたかい校風でしたし。思い出に残っている先生というと国語の諏訪部先生です。私は大学を小論文で受けているのですが、国語が得意といえば得意でしたが、先生とも相性が合ったんですかね。かわいがっていただきましたし、お世話になりました。自由な校風の中で、自由な教育を体現されているような先生でした。

←修学旅行中の1枚
 

高校生へのメッセージ

 みなさんほとんどの方が進学をする、大学へ行くと思います。私が高校生時代に思ったことですが、「なんのために受験するのか」と思ってしまうこともあるはずです。「なにも受験しなくたっていいじゃないか」とも。でも、これは私が自身で思うことでもあり、人から言われたこともありますが、ある程度の高いところ、山も高いところへ登らないと広い景色が見えないですよね。とりあえず高い山に登ると、その視界にはいろいろなモノが飛び込んできます。東京に行って私が落語に出会ったのもそうですし、会社もそうでした。高校までに、やりたいことがすっと見つかる人はそう多くないはずです。私の弟弟子の二代夢丸さんは、中学生の時から落語家になるんだと決めていたそうですが、そういう人はほぼ稀ではないかと。少なくとも私にはそういったものがありませんでした。多かれ少なかれ人生は自分探しですよね。好きなことを仕事にできればいちばんいいのですが、それを探すにしても高いところに登ってみないと見えないことがあるのかなと。私は大学に行かせてもらって、会社に入って、そういったものにふれ、出会う機会を得ました。もちろんすでに一生涯の目標がある、そんな人はそれに向って頑張って行けばいいと思います。 勉強というのは、生きる術を学ぶことでもあると聞きました。面倒なことですが、私は勉強して上の学校に行って、東京の会社に入って、横須賀を出て...さまざまな違う景色に出会うことにより、今の選択肢が見えてきました。あと反対のことを言っているようですが、「とりあえず今いる場所で頑張ってみる」のも、決して無駄ではないと思います。石の上にも3年じゃないですが、私は会社に入って、すぐに「これはだめだ、辞めよう」と思いました。でも3年は頑張ろうと思って...結局8年頑張るんですけど...そのくらい頑張ってみても、そこからでも決して遅くはないと思います。これも上司からいただいた言葉ですが、「ものごとを始めるのに遅いということはない。志あるところに道は開かれる」。入門以来、これを胸に刻んで頑張ってきました。
 高校時代は将来について迷う時期だと思います。いまは様々な選択肢がありますし。それを決めるためにも、頑張って、見晴らせる場所へ行って、そこからいろんな選択肢を眺めてみるのがいいんじゃないかなと。その意味では、横高は登るためのいいとっかかり、ベースキャンプのような場所です。そこからぜひ高いところを目指してほしい。
 何も偉い人間になれということではありません。私なんて落語家...人生の落伍者ですから(笑)。いろんな壁を頑張って登ってほしいと思います。これは自分にも向けた言葉です。真打になり、噺家人生ようやく始まったばかり。これからさらなる高みを目指してがんばります!

特別情報
朋友会の主催で、"横高初の、そして横須賀初の"真打である三笑亭小夢師匠をお招きして「朋友寄席」が催されます。日時は9月23日(祝)14時開演、場所はヨコスカ・ベイサイド・ポケットです。チケットは芸術劇場で販売しております。お誘い合わせの上どうぞ。チラシはこちらから。
 
 
取材後記

                 

 横須賀初の落語家真打ちとなった三笑亭小夢師匠の取材をさせて頂きました不肖私、横須賀高校落語研究部の部長を務めさせてもいただいておりま
した。芸名は松の家小花。師匠と同じく『小』が付きますが、そんなことは置いといて。今回もたいへん興味深くお話をうかがうことができました。人生のつくり方としても、意味のあるお話をいただきました。そして、新たに志をもって歩み始めた道はまだまだ「とばっ口」。お客様に育てていただいて大きな一枚看板になるとよく言われます。三遊亭圓歌師匠はよく「手を取って共に登らん花の山。ご贔屓お引き立てのほどオン願いたてまつります」と口上で謳っていらっしゃいましたが、皆様と共に小夢師匠のこれからを応援してまいりたいと存じます。(高
31期 岡花)

 ほんわかとした話のあと、くすっ!と笑える日本人の笑いのセンス。私も落語が大好きです。取材に同行させていただき、ふたりの落語家さんの話を楽しませていただきました。
 中央駅で岡花さんから真打昇進披露興行を聞きに行かれた話を伺いながら待っていると、現れたのは一見まじめなサラリーマン!ちょっと想像と違いましたが...。

 虚弱体質、体力がないのはどうしようもないことだけれど、それゆえどう生きていくか。まじめにこつこつ学ぶ姿勢、苦労もつらくはない、遠回りと思われることも決して無駄ではないなど、前向きで思い切った発想の転換と決断は心に響きました。ますます精進し、円熟した落語家さんになる日を楽しみにしております。(高23 期石渡)

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