神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】岩永 智之 さん(高29期)
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今回は、今注目を浴びているミャンマービジネスで活躍している岩永さんにお会いしました。
(取材日:2012年7月26日)

 
プロフィール
1974年 横須賀市立鴨居中学校卒業
1977年 県立横須賀高等学校卒業
1984年 電気通信大学 経営工学部卒業後 経営工学修士課程(修了)
日本アイ・ビー・エム株式会社 入社
3年のSE職経験後、中堅企業対象の営業(新規/既存/Pertner)担当後、営業課長、営業部長を歴任
2005年5月 IBMの全世界のPC部門売却のためLenovo社に入社
2005年9月 株式会社第一コンピュータリソースに入社
2006年4月 海外部門の総責任者として就任
2008年7月 ミャンマーに日系100%資本のIT会社を設立
2009年4月 日本での新規ビジネス開発を2年半担当
2010年 タイ/中国(上海)の会社設立をサポート
2011年4月 独立してグローバルイノベーションコンサルティング株式会社設立
2012年4月 ミャンマーに子会社を設立、現在に至る
 
海外ビジネスに興味を持った動機をお聞かせください
 
●商店街のくじで海外旅行を引く

 元々は、小学校6年の時に横須賀の商店街の「ジャンボでハワイ」の三角籤を引き当て、大人に混じって一人でその旅行に参加したことでしょうか?!。ラッキーな人生はそこから始まったかもしれません。
 また、学生時代や日本IBMに入社して以来、プライベートや会社のコンベンションでも海外によく行っていました。

●IBMに入社-「会社を辞めても良いですか」と質問

 IBMに入った頃には、将来は独立して社長になりたいという思いがありました。面接の時にも「IBMを辞めるかもしれませんが、いいですか」と聞いてみたんです。すると「別にそれはいいよ、君がそういう能力があるのなら」と言ってくれて、面接では営業のほうに行けと言われました。
 ただ、すぐに営業に行ってしまうと技術が勉強できないので、最初は技術部門を志望しました。

●システム開発部門から営業へ

 配属はIBM社内のシステム開発部門なので、全世界で展開可能なシステムを開発して、それを各国に販売することもありました。そこでは、数学・物理ができる頭のいい人に難しい仕事が与えられて、その人達がそのグループでは有利であるということもよく理解しました。2年9ヶ月その部門にいましたが、同期が14・5人にて皆英語が良く出来ますし、その意味でとても優秀なのです。
 そのうちにIBMラグビー部の同期からセールス部門の話も入ってきました。営業報酬のシステム開発もしていましたので、ある程度セールスの給料が把握できますし、IBMではセールスかコンサルタントの社内的な立場が上なのが徐々に判ってきました。
 社内システム部門にいても数学・物理の能力の比較をした場合、自らの差別化は出来ませんので、将来はマネージメントになることを想定して、その時点でセールスを志望しました。
 セールスは名古屋が最初でした。IBMは非常に良い会社で、働けば働くほど仕事を与えられ、バンバン仕事は来るのでそれで途中で独立して辞める気もなくなりました。たまたま後にIBMの社長になった人が上司だったこともあり、いい経験と勉強にもなりましたし、人にも運にも恵まれました。

●青年海外協力隊に参加ー夫婦で行くはずが、単身

 それから結婚したのち、子供もいなかったし、接待と称して酒を飲んでばかりいたので、妻から海外青年協力隊というのがあるから二人で行こうかという話になりました。そのとき課長職だったので、周りも直属の上司も驚愕していました。
 しかし、後任を探してもらって一年ぐらいして行っていいよということになりました。その行く二ヶ月前に妻が妊娠しまして、行こうとしたら、「なんで行くの」と言われて、「もともとはお前が行こうと言ったんじゃないか?...」と。まあ、いろんな上司を見てきて、自分は一番ではないけど、2番か1.5番くらいだから将来の会社のポジションもある程度見えてきていました。それならば、逆にその途中の人生で何をやってもいいのだなという気になりました。英語も覚えられて後々自分に得だということもあり、40歳の時に身重の妻を日本に置いて2年間のボランティア休職を取り、これが結果的に素晴らしい経験と勉強になりました。
 アフリカのジンバブエの大蔵省・中央計算局で、各省庁のシステムを調査したり、入札の手配をしたりしました。同じようなことを、他の国と比較するために、タンザニア・ケニア・ボツワナ・マラウイ・ザンビアといった他のアフリカ諸国でも調査しました。酒を飲む習慣のない所なので健康にもなりました。この40歳の決断が人生の転機及び海外でビジネスを行うきっかけになりました。余談ですが、子どもは女の子で、最初の海外旅行は、ジンバブエとなりました・・・・・・。
 
 
 
ミャンマーに興味を持った動機は何でしょうか?
 
●PCの販売をー部門ごと売却

 海外青年隊に参加して帰ってきてから大阪の営業部門に入り部長になり、その後東京に戻ってPC部門の営業の責任者になりました。2005年春にIBMのPC部門がLenovo社に売却になり、それから前の会社のお世話になり海外部門の責任者をやらせてくれるということになりました。中国で60名くらいのIT会社の責任者をしましたが、次の開発オフショア先を探して中国各地や東南アジアを廻りました。

●たまたまミャンマーへ視察に

 その時、たまたま2006年の11月にミャンマーへ視察に行く機会があったのです。ベトナムにしようかとも思ったのですが、ベトナムには既にかなり日系企業が進出していて、その会社は後発ですからネームバリューやブランドイメージがないと人が集まりません。あと日本語の習得の問題です。ミャンマー人はベトナム人より日本語の習得が速いんです。
 語順が同じで助詞もあって丁寧語もある。そしてミャンマーの人は日本人によく似ているところがあって、「何かご意見がありますか」と聞くと日本人やミャンマーの人はすぐには手を挙げません。相手の顔色を見ながら話をするというところがあります。最初は危ない所だろうと思っていたのですが、視察を主催している人が「行ったことがあるのか、行ったことがないのに何がわかるんだ」と言うんです。

●皆と同じことをしない

 それはそうだと思い、行ってみると、確かにインフラは悪いですが、先ほどの日本人との共通点も感じました。この2006年当時に強く思ったのは、皆が考えることをしてもダメだということです。無鉄砲な性格でもありますから、周りの関係者は大反対でしたけど、会社を説得して、2008年に会社をつくりました。政治の事はよく判りませんが、極度に誇張された部分もあったのだと思います。
 現在は民主化さていますが、前政権の頃も日本より安全な国であったように思います。2008年4月から家族と共にミャンマーに赴任して、サイクロンに遭遇しましたし、色々な事件もありましたが、妻子は4ヶ月で帰国して私は約1年数ヶ月滞在しました。でも、家族が帰国した理由のひとつは、妻が暇で時間を持て余したからなんてこともあるくらいですから、たいしたことはなかったですかね。会社の方は2年半で0から210人くらいの会社にしました。
 C:\Users\okahana\Pictures\asia_myanmar_map.jpg
 http://www.gicjp.com/html/index.htmlから
 
現在の会社について、教えて下さい
 
 現在は独立して、グローバルイノベーションコンサルティング株式会社を東京都千代田区神田平河町に本社を置き2011年4月1日に設立しました。資本金は990万円。社員数は37名('2013/1/末) 内、バイリンガルITエンジニア31名です。事業内容は、中堅企業の海外進出のコンサルティングです。ミャンマーへ及びフィリピン(セブ島)への進出・運用支援(特に製造業)、ミャンマー人バイリンガルブリッジSEの日本での派遣事業、中国/ASEANでの各種コンサルティング等といったところです。子会社には、GIC Myanmar Co., Ltd. (80%外資: '2012/4/5営業許可取得)とGIC Philippine Inc.(49%外資:'2012/9/1営業許可)の2社があります。
 
最近の若者は、留学や冒険は避けると聞きますが、いかがでしょうか?
 
 チャンスは行動と失敗の連続から生まれてくるので、まず行動しない事は機会損失を生むだけだと思います。最近よく思うのはアクティブとプロアクティブという言葉の意味合いで、よりプロアクティブになることが必要だと思います。リーダーシップをどのように取るかと言うことでもありますが、アクティブな人間はたくさんいると思います。つまりプロアクティブになるためには、アクティブな人をより多く動かさなければいけないわけです。ですから横高生は是非プロアクティブになってほしいと思います。そのためには、なるべく今まで経験してきた環境とは違ったところで仕事をすることが必要だと経験上感じます。
 たとえば、日本人の宗教観からすると一番理解するのが難しいのはイスラムでしょうし、地域的に離れているのは南米やアフリカでしょうし、先進国に対しては開発途上国でしょう。世界で勝負するためには、ダイバーシティの理解を含め、日本と同じような環境のところに行っても、結果的に勝つための経験は身につかないと思います。意図的に、あらかじめ異なる環境の所で仕事をすることを考えてプランニングすべきでしょう。
 
横高時代の思い出をお聞かせ下さい
 
ラグビー部の同期と(後列左から3番目が岩永さん、前列中央は顧問の鈴木洋一先生)
 ラグビーしかしていなかったなというのが思い出です。同期は最初ラグビー部に15人くらい入って最後まで10人くらい残っていました。わりと最初から、強いチームだなという感じで3年間いました。
 練習を朝やって、昼休みにやって、また夕方にやって、疲れて帰って、翌日また学校へ行くみたいな繰り返しでした。ラグビーは真面目にはやっていましたが、勉強した記憶があまりないもので、同期は一人を除いて全員浪人しましたかね。とにかくラグビー以外のことはあまり覚えていません。土日は試合でしたし、青春はそれしかなかったですね。クラスの女子とも話をしたこともないくらいですから。

 弓道部の同期の一人と修学旅行で謹慎になったことがあり、謹慎が明けて戻ってみると、ラグビー部のみんなが坊主になっているんですよ。「どうしたの」と聞いたら、「お前の責任で全員坊主になったんだ」って、バリカン持って皆に追いかけられて、その日のうちに頭を五厘に丸めたなんてこともありました。それだから関東大会にかけての写真が坊主だったのかなあ。

 それにしても、関東大会に2年連続して出場でき、横須賀高校ラグビー部55年の歴史の中でも結果を残したと自負しています。







 あとは、体育祭のときに、我が5組を1,600mリレーで優勝させたのは私の功績が大だと自負しています。
 アンカーは陸上部の奴に渡しましたが、私のほうが早かったと思っていましたね。3・4人抜きましたっけ。体力だけはありましたから。
 しかし、勉強で誉められた記憶は一度もないです・・・。

 
 
思い出に残る先生について、お聞かせ下さい
 
29期5組クラス写真から
(前列中央は担任の神川康彦先生・その隣は学年主任の小川先生、岩永さんは後列左から二人目です)
 担任の神川先生はもちろんですが、鈴木洋一先生(俗称: クロ)はラグビー部の顧問で、今でも年に一度ラグビー部の飲み会でお会いして、お元気な姿を拝見しております。練習は厳しかったですが、そのおかげで体力もつき、感謝しています。

 神川先生には修学旅行の時に厳しく叱られたことがあります。その時、私は悪いことをしたわけではなくて、たまたま、そこの部屋にいただけだったのですが、夜遅くまで騒いでいたような理由です。まあ、それまでにもいろいろな問題があったうえでのことだったのではないかと思いますけれど、女子も含めて厳しく叱られたので、今でも同窓会になるとその話題で盛り上がります。今となっては、いい思い出ですが。


 
 
後輩に、海外に出ることに対して何か?
 
 この歳になっておぼろげながら判ってきましたが、海外・国内を問わず「点と線と面がつながる瞬間」が人生にはあります。10年以上前の世界は違うが、最初からスコープを拡げて海外に視野を向けることは、シナプスに課題があり、その前述の「瞬間」を感じる事に時間がかかってきました。ところが、IT技術やSNSの進展により、擬似的にはそれが可能になり、世界も小さくなってきました。ところがそうなればなるほど、海外での幅広い実体験のノウハウが今後重要になると考えています。
 そういう意味でなるべく日本とは異なる文化や環境(イスラム/中華思想/アフリカの現状等)で、早めに考えたほうがアドバンテージがあがると思うのです。ものごとを先に動かせる人にならないと。だいたい英語のできる日本人も日本にはいないですよね。どう考えても活かせますから。英語も駆使して、いろんな経験をした方がいいですよ。
 
これから次を、どのようにしたいとお考えですか?
 日本には現時点3つの世界に誇る経済的なアドバンテージがあり、それは「平和」・「エイジングビジネス」そして「中堅・中小の企業の層の厚さ」 だと考えています。技術力が高く、現場をフォローする技術力というのもアドバンテージです。でも、原点は真ん中の層が強くなることだと思います。今までの海外で勝手に搾取する方向は間違っているわけで、新しい共同の力を考えなければなりません。そのための中継の企業として海外でお手伝いをしたい。
 日本は後継者不足ですから10年後どうしようかと考えていらっしゃる方もいっぱいます。そういうところへマネジメントの仕組みを入れていく。弊社は最後の点について「海外進出するお手伝いをするグローバル企業」になりたいと思い起業しました。それを日本人だけでなく、ダイバーシティの観点でミャンマー人を含め我々と考えを共にするメンバーで実現したいと思います。

 
 
今後の朋友会活動に何を期待しますか?
 
   Facebookでのサポートを始めてほしいと思います。「横須賀高校朋友会」とつくれば、海外で使っている人が多いですし、人から人を紹介するシステムですから、もっと若い人の結束力がつくれるのではと思います。
 
 
取 材 後 記
 
 
 取材中もミャンマーのスタッフの方々がディスカッションをされている様子に、これからの共同ビジネスの在り方を垣間見たような思いと期待感を抱きました。         岡花弘幸(高31期)

 取材場所は、秋葉原の昭和通り側のビルの一室。ミャンマー出身の若者が10人以上いて、パソコンに向かっていました。お話はその部屋の一角でしたが、そばの白板には日本語でいろいろ書いてありました。岩永さんが書いたんだろうと思いましたが、聞けばみんなの打ち合わせは日本語で、漢字も書けるとか。私も海外での生活経験はありますが、日本人がいても英語で打ち合わせをしなければならないので、大変不自由しましたが、ミャンマーの言語の語順は日本語に似ていて、彼らは容易く身につけるとのこと。もっとも優秀な方たちばかりでしょうが。それにしても、ミャンマーとは良いところと思いました。これからのさらなる発展をお祈りします。
 取材風景写真の左側手前が、岡花氏。和田は、岡花氏の後ろに隠れています。
        和田 良平(高17期)
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