今回は、去る3月11日に起きた東日本大震災後の石巻市で活躍している方を取り上げました。 | ||
(取材日:2011年8月9日) | ||
プロフィール |
昭和51年(1976年) | 横須賀市立北下浦中学校卒業 | |||
昭和54年(1979年) | 県立横須賀高等学校卒業 | |||
昭和60年(1985年) | 横浜市立大学医学部卒業 | |||
昭和60年(1985年~1993年) | 汐田総合病院脳神経外科勤務 | |||
平成5年(1993年~1997年) | 東海大学医学部大学院 | |||
<米国メイヨークリニックに留学し、脳下垂体の研究にて博士号を取得> | ||||
平成9年(1997年~2004年) | 日本医科大学脳神経外科講師として勤務 | |||
平成10年(1998年) | 日本内分泌学会研究奨励賞受賞。他数々の受賞あり。 | |||
平成11年(1999年) | 付属多摩永山病院に勤務 | |||
平成14年(2002年) | 同脳外科部長を務める | |||
平成16年(2004年)~ | 山王クリニック(東京都)開設 | |||
平成23年(2011年)~ | 雄勝まごのて診療所(宮城県)開設 | |||
<専 門> | ||
脳神経外科専門医、頭痛専門医 | ||
健康スポーツ医 | ||
日本温泉気候物理学会 温泉療法医 | ||
<所 属> | ||
日本脳神経外科学会評議委員、日本内分泌学会代議員、日本頭痛学会専門医 | ||
アメリカ内分泌学会、日本間脳下垂体学会、日本神経病理学会 | ||
日本内分泌病理学会、ほか | ||
<著 書> | ||
「メタボリックシンドロームは誰にでも克服できる!」 コアラブックス | ||
「アンチエイジングのための女性ホルモンクリニック-これからの肌・からだ・心のケア-」 メタモル出版、ほか | ||
医師を目指した経緯から聞かせてください | ||
医者になってからは。こんな職業だとは思わなかったという、ちょっと予測と違った面もあります。たとえば大学病院ですと、結局は医局の方針に従わなければならないことがありました。若いうちは自分のスキルを磨くために頑張っていけばいいのですが、管理職になると会議ばかり増えて、何のために医者になったのか、と思うこともありました。クレーム処理係みたいになってしまって、脳外科というのは、交通事故の診断書など書類もたくさん必要で、こんなに字を書く職業だとは思わなかったというほどでした。
患者さんを診察する、手当てをするというのが、私が子供の頃に抱いていた診療や医者のイメージでした。ところが、だんだんとそういうことから離れていくような気がしました。まして選んだ分野が高度先端医療みたいなところだったので、診察する時間よりも手術をする時間のほうが長いというところもあります。それはそれで、励みや楽しいこともあったのですが、だんだん、倒れていく人をたくさん見ていると、そうなる前になんとかできないのかなと思うようになりました。そこで、予防医学が大切だなと考えるようになりました。予防医学が実践できるクリニックを開こうと思い、開業したのが7年前です。開業前は多摩の大学病院勤務だったので、患者さんからも「せめて新宿だったら行けたのに」と言われ、ついてきてくださる患者さんも少なく、ほんとにゼロから開業という感じでしたから、最初はたいへんでした。1年もつのかなぁなんて思いました。 |
|||||
当医院の信条や診療科目、専門外来等を教えてください | ||
患者さんの立場に立った医療ということです。当院では開院当初より予防医学に力をいれ、皆様の健康増進にお役に立ちたいと考えています。病に苦しむ方には不安や苦痛から解放されるよう、病気に対する不安を取り除くセカンドオピニオンや大学病院・専門病院との連携治療を積極的に行います。現代人に多い慢性頭痛と内分泌疾患の治療に力を入れています。
専門は脳神経外科・頭痛外来・垂下体・内分泌疾患外来です。1日平均70名。約7割が頭痛の患者さんです。他には下垂体の先端巨大症薬物治療を専門に行っています。 休日の過ごし方ですが、以前は実家で親孝行をするなどでしたが、3月11日の震災以降、休日はすべて東北地方の救援です。もう休みはなしです。仙台までは近いのですが、仙台から先の交通手段がないため、救援のために4輪駆動のディーゼル車を購入しました。震災直後のガソリンが手に入らなかった時の経験から、安心して行き来できるようにと。軽油なら積んで置けます。今は落ち着いて、道も通れるようになりました。 震災直後は時間もかかりましたし、ほんとに途中でガス欠で動けなくなった時も何度かありました。実は、私は最初から自分で進んで支援に行く気はありませんでした。震災後すぐ、主人が、東北は大変なことになっているはずだから、どうしても行くと言い、それならと一緒に行きました。主人がいなければ、一人では到底行くことは出来なかったと思います。 |
|||
それでは、現在の「まごのて救援隊」の活動についておうかがいします | ||
震災翌日の3月12日、主人の石井が、被災地に行こうと言い出し、南相馬に新潟から回って入りました。主人は自分自身、阪神で震災を体験していますから、とにかく大変な事になっているから行くんだと言うのです。私は、道路は通れないかもしれないし、帰れなくなって迷惑をかけてもいけないし、こちら(品川)の診療も穴をあけるわけにいかないしと考え、どちらかというと様子をみようよと言ったのです。しかし、主人は、とにかく行くんだ、行ってみないとわからないからと言います。そこで、水や食料や燃料を乗用車にめいっぱい積んで行きました。そのときは物資を置いて、帰りは診療に間に合わないから新潟で降ろしてもらって、朝一番の新幹線で東京へ帰って来ました。
それから、ネットなどで、どの地区が困っているかなどを調べたんです。すると石巻方面が、特に支援が遅れ、医師がいなくて困っているらしい、と聞いたので、翌週3月19日に石巻へ向かい、20日には南三陸へ回りました。南三陸で、ここより雄勝の方が道が寸断され物資が足りないとの情報を得て、21日に初めて雄勝に入りました。雄勝への道路は寸断されているので、最初は峠越えで入るしかなく、雪道で、すっごい寒かったです。3月11日の震災の日は特に寒かったそうで、あの日は地震発生が昼間だったからまだましで、夜だったら、もっとたくさんの方が犠牲になったかもしれません。しかし、そのあと、寒さで亡くなった方も多かったようです。もともと雄勝は、昔から津波にあっていたので、津波が来たら高い所に逃げろというのは、お年寄りの教訓で、子どもたちも知っていて、一生懸命逃げたので住民の方々はかなり助かっているようです。 |
|||
私たちも巡回診療チームのひとつとして3月21日からずっと毎週、回っていましたが、5月の初めの時点で、巡回診療を徐々に行政が減らしていく方針になりました。石巻地区は石巻合同医療チームが統括して医療を担当するということになったので、他の医療チームは来なくていいですと言われ始めました。でも、住民の方たちはそんなにすぐに止められてもたいへんです。病院に通える人はいいですけれども、交通手段が全然ないのに、病院に来いといわれても無理な話です。病院へは車で1時間くらいかけないと行かれない所がほとんどですからね。 もともと過疎地で不便な所なので、ある程度は仕方がないのですが、医療機関が一軒もなかったら、やっぱり住めませんよね。市立病院は壊れてしまいましたし、雄勝病院の医師・看護師のほとんどが犠牲になってしまい、町医者も不在で、町に医師がいない状態です。石巻市は合併して16万人いるのですが、いま雄勝には1,000人くらいしかいないので、16万人中の1,000人のことには、なかなか手が回らないですよね。石巻市自体がすごく困っている地域がいっぱいあるので、やむをえないとは思うのですが、医療だけは何より最優先でやってもらいたいという思いがあります。 |
|||
方々を回るのではなくて、雄勝にしようと思ったのは? | ||
二人でできることは限界はあるし、ちょうど必要とされている場所だと感じたからです。雄勝の人たちの人柄に惚れたというところもあります。海辺で緑の山もあり、景色がきれいで、被害さえなければ横須賀と通じる所があるなあと、なんとなく懐かしい感じもしました。昔ながらのおじいちゃん・おばあちゃんがいて、すごく温かい人たちだなあと思ったので。
主人は、雄勝にほとんど住んで、ボランティアという上から目線ではなく、住民として自分の町だから、こうしていこうという、そういう考えで、いま動いています。住民票も4月12日に移しました。 3月25日に、まごのて救援隊という名をつけました。大きな団体ではできないような、細かいところに、かゆいところに手が届くようなきめ細かな支援をしたいということで、「『まごのて』だね!」と決めたのです。診療所もそのままの名前を使ったわけです。 雄勝の産業は漁業、特に養殖業(ホタテ、あわび、ホヤ、銀シャケ)、そして伝統工芸の雄勝すずりは全国一の生産地。後継者も多い『活きた町』でした。それを津波が全てを奪ってしまったのです。この町が好きだから雄勝町を再建して、町の人にできるだけたくさん帰ってきてもらいたい。そのために何が必要かと考えました。医療はもちろん必要ですが、医療だけでは人は帰ってきません。仕事がまず必要ですよね。商店街もなければだめだし、教育の面でも学校がなければ住めないし、伝統文化も支えていこうと、全面的に雄勝を支えたいということで、その時々で考えて、そしたら色々やってしまいました。ボランティアのミスマッチということが言われていますが、ボランティアする側がやってあげたいことをやる、買ってあげたい物を買ってしまって、それをほんとうに被災者の方が必要としていることと違っていないかということを考えました。押しつけになってはいけないし、ボランティアの自己満足になってしまってはいけないから、ほんとうに町民目線で、その町にとって長期的に必要なことを考えていって、そのとき思いついたことを実行するようにしています。 たとえば、学校について、教育委員会は4月22日には始めるんだと言ってましたが、黒板やパーティションを宮城県で発注しても品物が届かない状況がありました。入学式や始業式が迫っていましたが、そのやると言い始めたのが4月の初めで、とうてい間に合うわけないという話になり、そこで、遠いのですが、主人の出身校の岡山県倉敷の茶屋町小学校に相談したら、すぐに手配ができて届けてもらえました。 医療については、巡回診療チームというのは3~4日で先生が交代してしまうので、毎回見てもらう先生が違ってしまうということになってしまって、慢性疾患の方はそれだとすごく不安に感じると思います。震災時の救急医療なので、最初のうちは仕方がないと考えたんです。でも長期化するにつれて、2ヶ月3ヶ月4ヶ月と経つと、やはりそれでは地域医療は支えられないんじゃあないかと私は考えたのです。同じ先生がずっと一人の患者さんを診ることが求められます。本当の意味の、かかりつけ医として、私がそれに代われるかというと、そういうわけではありませんが、また来週も来るからねってことで、安心してもらえるというとこもあると思います。とにかく町民の方が安心してもらえるような医療体制が整うまでは、期限を限らずに続けていく予定です。それがいつになるのかわかりませんが。 実は過疎地で医療すると、全く採算は取れません。現在の医療制度ではできるだけ多くの患者さんを診察し、検査をすればするほどお金が儲かる仕組みになっているので、その検査機器を入れるために資金が要るわけで、個人の開業医で、雄勝町に開院するというのはとても無理なんです。だから、地元の医師も離れて行ってしまうのもやむ得ないことなんです。だって、つぶれてしまいますもん。人口4,300人いたときでもやっとだったのに、人口1,000人になってしまっては、先生の生活も危うくなりますよね。ずっとボランティアをやっているわけにはいかなくなってしまいます。私も東京の山王クリニックがあるから、なんとか続けられていますが。そういう意味でも行政にやってもらわなければと思います。 |
|||
マークは自分で考えました。「まご」のMと「手」なんですが、ちょっとハートっぽい感じで、笑顔を絶やさず、いつもニコッという感じですかね。看板は主人が手書きで書きました。南相馬の知り合いの材木屋さんが、杉の木を寄付してくれました。南相馬もすごい困ってますよね。いま風評被害で材木が出荷できないんですよ。あるいはまた瓦礫の処理も自治体が受け入れると言うと住民の反対で運べないなどということもあると聞きます。自分たちがそういう目にあったら、どういうふうに思うか。同じ日本人なのに、ちょっと悲しい。難しい状況ですが、自分さえよければいいのかっていう、そういうところが悲しく思われるときもあります。そういう人たちばかりでなく、心ある人がたくさんいると信じていますけれども。 |
|||
|
今朝、現地から帰ってきたばかりとのことですが、直近の雄勝の印象などは? | ||
震災当初から5月までは木・日の休診日を利用して週2回通って朝帰りでしたが、5月に雄勝に開院してからは品川の山王クリニックの診療を1日削って、週末から日・月の2日出向いています。主に慢性患者さん、ご高齢のおじいちゃん・おばあちゃん方を診察して、こちらも癒されるというか、元気をもらっているところもありますので、必要とされる限りは続けていきたいと思っています。ほんとうは行政の力で、こんな小さな診療所は必要なくなり、町民の方が安心して過ごせるようなきちんとした医療体制をつくってもらいたいです。
医療体制だけでなく、いま町づくり協議会というのがあって、主人も参加して、復興支援のために色々みんなで相談して市に陳情したり、意見書を出したりしているのですが、だいぶ時間がかかりそうです。地域によって格差があり、声を大にして言えるようなところは復興が早いのですが、私が行っている場所は、高齢者ばかりなので、まずインターネットで配信とかはできません。メールとかウェブで情報発信できる若い人たちが住んでいるところは、いち早く支援の手が届いたんですけど、雄勝は何も言えない人たちで我慢強いし、こんなもんだろうって思ってしまっていて、自分が自分がって出しゃばるところがない。そういう奥ゆかしいところに惹かれたのもあるのですが、代わりに代弁してあげなきゃいけないという思いがあります。 ほんとは私もテレビに出たいわけではないのですが、メディアに出ることによって、知ってもらう効果があると思います。雄勝という町自体知られていないし、こんなに困っている人たちがいることも忘れ去られているところがあります。津波で全部流されてしまうとそこには何もないから、テレビで撮ってもインパクトはないんですね。動きがないから、もうニュースにならず、忘れ去られてしまうんです。そんなことがあってはいけないので、忘れ去られないためにも、ずっと活動を続けています。 |
||
横高時代の思い出や恩師について | ||
体育祭が一番思い出に残っていますね。体育祭のときに女子は応援のウェアとか作るじゃないですか。私の9組は、カラーは黒で地味でしたが、黒に銀のテープを合わせて、我ながらシックに作りました。けっこう印象に残っていて、自分でもすごく楽しかったです。坂東武者の歌には、いまでも血が騒ぎます。
あとは夏のプールでの水泳。それまで全然泳げなかったのですが、特訓の成果で泳げるようになって、そのあと水泳が好きになったので、感謝しています。辛かったけど、いい思い出です。横高は懐かしいですね、また行ってみたくなります。あんまり勉強の思い出はないです。勉強は嫌いではなかったので、苦にはなりませんでした。医者になりたいという目標もあったから、楽しくやっていたし、なにも無理したつもりはありません。数学は大好きでした。 担任の中島先生は、ムーミンパパのようにあたたかい感じで、ほとんど怒ったことはありませんでしたが、一回怒ったことがあって、中島先生でも怒ると怖いんだと思ったことがあります。ふだんはすごく温厚で優しくって。 |
||||
後輩や朋友会へのメッセージをお願いします | ||
横高のいいところは、遊ぶときは遊び、学ぶときは学ぶ、というメリハリがある生活が出来るところです。ぜひ楽しみつつ勉強も頑張りましょう。もし嫌いでなかったら、人のために役に立つようなお仕事をしましょう。どんな仕事でも人のためにはなりますが、中でもお医者さんっていいですよ。
今回、被災地支援を行う中で、ほんとうに医者になってよかったなと思いました。今回は特に放射能の問題もありましたから、普通のボランティアは被災地に入れなかったんです。私は医療支援ということで通行許可証もとれ、どうぞ来てくださいという形で歓迎されたので、ほんとにありがたいことなんだなと思いました。ボランティアって自分のためにやるんじゃないんですよね。喜んでもらえる、だから、やるんだというボランティアの意味を履き違えてしまう人もいるので、職業として医者はいいですよ。いくつになっても続けられるし。過疎地に行くと90歳になっても続けているおじいちゃん先生とかもいます。定年もないしね、会社とかに惑わされることもないし。 横須賀と雄勝はつながっているような気がします。同じ太平洋に面していますので、海つながりで、朋友会の方々にも、ぜひご賛同いただけたら嬉しいです。最初だけ支援をおくって、それで終わってしまうという方や、もう忘れたいという方もいますが、これからがたいへんな時期です。5年後10年後の雄勝がどうなっているか、見守ってほしいし、ぜひ支えてほしいなと思います。 横須賀の海に開けた明るい土地柄が、今の私の活動にも繋がっています。一緒に頑張りましょう! |
||
取 材 後 記 | ||
一昨年(2009年)秋に、横高卒業30年ということで、高31期の学年同窓会を催しました。恩師7名を含む219名で盛況でしたが、この企画の各クラス幹事が集まって勉強会的に、今年(2011年)4月に山王さんを招きました。震災救援活動を続けている山王さんの話をうかがい、支援の輪を広めていこうと同期の中で動き始めましたが、さらに輪を広げる術はないかと朋友会ホームページ委員会で話題にしたところ、ありがたくも取材の機会を得ました。
ただ、なかなか夏休みに入らないと動きがとれず、真夏の盛りに品川を訪れました。同期の中で才女と謳われた山王さんです(なにしろ数学の実力テストの答案用紙を解答で埋めることができたというのが、文系の私には驚愕でした)ので、さぞや勉学に励まれたのだろうと思って聞いてみると、控えめながらまっすぐなお答え。現在の活動といい、山王さんのパワーを肌身で感じてまいりました。 その後、編集などにも時間がかかってしまいましたが、今年母校から転出し校内幹事は外れたものの、一朋友会員として、こうして記事をお届けすることができまして安堵しております。どうぞ共に支え合う力をよろしくお願い申し上げます。 岡花弘幸(高31期) |
|||
私の祖母の実家が宮城県栗原市、東日本大震災で最大震度を観測した 所です。親戚もみな無事でしたがいろいろ大変な思いをしたようです。 まして津波に遭われた方々は濡れた身体でどれだけ寒かったことか...心配するだけで、何もできない無力さにもどかしい思いをしていました。そんな時、山王さんのことをニュースで知ってうれしくて感激、今回の取材に同行させていただいた次第です。 実際お会いしてみると、全く飾らず自然体で笑顔がとても優しい先生で す。 医療支援だけでなく雄勝のみなさんの心の支えになっているんだなと感じました。先生もご主人もみな様もお身体に気を付けて厳しい冬を乗り切って下さい。そして、一日も早くにぎやかな町が戻って来ますように... |
|||
石渡 明美(高23期) |