神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】平間 洋一 さん(高4期)
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(取材日:2010年7月24日)

プロフィール
1941年 坂本小学校卒業
1949年 横須賀中学校卒業
1952年 横須賀高校卒業
1957年 防衛大学校卒業、海上自衛隊に入隊
1974年 護衛官「ちとせ」艦長
1976年 統合幕僚学校教官
1979年 海上幕僚監部調査部第1班長
1980年 第31護衛隊司令
1982年 練習艦隊首席幕僚
1983年 呉地方総監部防衛部長
1985年 防衛庁戦史部首席研究員
1988年 軍事史学会理事(現在・顧問)
1989年 防衛大学校教授・図書館長
法学博士号(慶応義塾大学)取得
1990年 防衛大学校定年退職
1991年 常盤大学国際関係学部非常勤講師
筑波大学国際関係学部非常勤講師
大阪大学外国語学部非常勤講師

プロフィール(学会・社会活動)
1. 日英歴史交流プロジェクト(軍事部会委員長)(1998年から2003年)
日英歴史交流プロジェクトというのは、村山内閣時代に出来たプロジェクトで、第2次世界大戦当時に戦った国の学者同士で、「先の戦争」の歴史的な和解を目的に5年間続けられました。私は軍事部会の部会長として参加し、東京大学出版会から『日英交流史(軍事編)』として出版いたしました。
2. 横須賀市海事資料調査会委員長(1998年から2004年)

横須賀市文化振興課の依頼を受け6年間、呉の大和博物館のような海事博物館を横須賀市が建設する場合に、展示する海軍資料が有るのか無いのかの有無を調査し、『海事史料調査目録2001年』としてまとめました。

 
 
 
ご趣味を教えていただきたいのですが。

油絵、和歌、墨絵などです。

愛読書には、どのようなものがございますか。

多数ありますが、一番影響を受けたのは和辻哲郎の『風土』です。
読書については、人生の成長に応じて変化しました。まず、伝記類(特に軍人や政治家のもの)です。伝記上の人物の成長と自分を比較しつつ学びました。
一番多数読んだのは歴史、地理、宗教などの本です。これは、定年後に「国民性が外交・戦争に及ぼす影響」という本を書こうと計画したからです。
読書に影響を与えたのは、高松宮様の言葉「高い本を読みなさい。良いことが書いてあるから」「高いノートに要点を書きなさい。高いノートだと途中で止められないから」です。

座右の銘をお聞かせください。

「誠」です。

 
横高時代の思い出
クラブ活動は、どちらに所属していらっしゃいましたか。また、どのような思い出がありますか。

・中学時代

バレーボールの中衛のアタッカーでしたが、その後、背が伸びず後衛、次いで球拾いに降格されたので退部し、社会科学研究部へ入部しました。

 

・高校時代

社会科学研究部部長で「民主社会主義青年同盟」の三浦半島のリーダーでしたので、菅総理と同根ですかね。
難しい社会主義の難解な本を読んだりしました(読んでいるふりですね。)。
男女共学反対、単独講和反対、ゴーホーム・ヤンキーの活動などもしました。そのため、中川鋭三郎校長に呼ばれ校長室に立たされたこともあります。
校内弁論大会において「嵐の中の中立」(単独講和反対の左翼の思想)の題目で弁論も行いました。
社会科学研究部の創刊雑誌『岐路』は発行禁止になりました(同窓会資料室に寄贈)。
社会党左派の日大教授の選挙運動(当選)などもしました。ダイハツ(その頃有名な三輪の自動車)に乗り、メガホンで候補者名を連呼。この活動で左翼の実情を知り、転向しました。
この体験が学者に転身した時に、コミンテルンの歴史的影響を書く動機となったわけです。コミンテルンについて学術的に日本で初めての研究書(『第二次世界大戦と日独伊三国同盟 海軍とコミンテルンの視点から』錦正社、2008年)だと思います。これでコミンテルンのタブーは多少消えましたが、学会からは疎外、排除されてしまいました。

 
思い出に残られている恩師がいらっしゃいましたら、エピソードを含めて思い出話をお聞かせください。

依田正徳先生です。
防衛大学校へ入校するか否かを相談したら、「人行かぬ 山に花あり すみれ草」の句をいただきました。

 
現在までのお仕事の経歴など

お仕事の経歴を教えていただけますか。

私の経歴の特徴は二つの人生を歩んだ、歩みつつあるということだと思います。
海上自衛官32年そして学者を23年、あと10年は頑張りたい、と思っています。
海上自衛官としての経歴をお聞かせ下さい。

・防衛大学校時代

あの頃は反骨精神が旺盛でした。全学連に加入させろと訓練部長(能勢省吾・朝鮮戦争時海上保安庁の仁川掃海隊指揮官―のち海上自衛隊・横須賀市会議長を歴任)、学生課長(斎藤頼男・中22期、元統合幕僚長・齋藤隆(高18期)君の父上)に交渉したり、仮病を使い海上自衛官に鉄砲は要らないと銃磨きやパレードをさぼったりしました。
ESSを創設し、「Go-home Yankee」の縁でしょうか、初代英語部部長に選ばれました。
卒業アルバムの編集長を引き受け、他大学を参考にして、卒業アルバムに広告を載せることで経費をねん出しようと企てましたが、学校と対立し受け入れてもらえませんでした。それならば、不足分を防衛大学に愛情を持っている人からお金を貰えと、吉田茂元総理宅を訪問しました。
学校の成績は落第寸前でした。落第しなかったのは早く追い出したかったのではないでしょうか。

 

・江田島の幹部候補生学校と遠洋航海時代

江田島では「新しい海軍は、われわれが作る」「敗軍の将、兵を語るな」「江田島には帝国海軍の亡霊が住んでいる」などと書きまくり、卒業成績は140名中98番でした。棒倒しで負けたのだから、棒起こしをやれで、さらに成績を落下させました。
遠洋航海は船酔いが酷く「みかん」の缶詰しか食べられなくて、ハワイまで行きました。その時から、ニックネームが「文弱」から「船弱」に変更されました。しかし、入港すると米海軍の英雄ニミッツ海軍大将の講演を通訳したり、外国女性を「手相」と「干支占い」で虜にして、国際親善に尽くしました。

 

・初級幹部・護衛艦「しい」機関士時代

悪名が高いため、第3護衛隊では、私をどの艦も受け取り拒否をしました。その時の司令は幹部候補生学校の教育部長であり、艦長は防衛大の教官であったため責任を取り、旗艦の護衛艦「しい」の機関士に引き取ってくれました。
上司への反抗は続けましたが、「喧嘩では上司の眉間を切るな」と教えられ、その後は目的達成を戦略的に行いました。その一方で、部下を愛することを大切にしました。

 

・大阪外国語大学と練習艦隊フランス語幕僚時代

国内留学制度により、大阪外国語大学に留学しました。他官庁の研修生と出会い、自衛隊の良さを痛感することにもなりました。
フランス語の先生の海軍への敬愛と私に対する期待に感激したのも良き思い出です。
大学では、安保騒動に巻き込まれデモに参加する機会にも恵まれ(?)デモの裏側を覗くことになりました。安保騒動最中の大学構内に、級友が「平間海軍中尉を送る夕べ」のポスターを貼って送別会をしてくれたのには泣かされました。

 

護衛艦隊副官・練習艦隊副官時代

良き海軍の人々に接することができ、海軍の伝統や思考を学ぶことができました。
その頃のことですが、ベルギーの総参謀長を京都に案内しましたが、日本文化を知らないことを痛感しました。特に大日如来とか観音菩薩などの仏像の仏訳には苦労し、それから日本文化や伝統の深さに目覚めました。

 

・指揮官(ちとせ艦長・第31護衛隊司令)時代

この時期に、人生に関する計画を立案しました。

   1. 家庭計画
    2. 経済計画
    3. 語学計画
    4. 読書計画
    5. 教養計画(和歌・墨絵・油絵)

などです。 
 

また、思い出としては、

*防衛大学卒業生で最初に艦隊(34隻)の艦長に抜擢されたこと、
衝突事故を起こし訓戒を左近充尚敏群司令(中30期)から頂いたことでしょうか。
*艦長指導方針を英語で行ったこと。 普段は日本語でしょうからね。
  ( Chitose is one Family, Follow Me , Ocean Mind.)、

*油絵(川崎、呉、舞鶴で画風が異なる。)を始めたこと、
*舞鶴で和歌と墨絵と書道を始めたこと

などです。

 
学者としての経歴をお聞かせ下さい。

学者としての経歴は23年になります。現在は評論家へと傾斜しています。

 

・教授の悩み

いずこの大学も同じだと推測されますが、大学教授としての悩みは、象牙の塔の中の派閥闘争と言えるかも知れません。
教育者となるのか、学者となるのか、校内政治学者となり校内の地位を上げるかで悩みました。しかし、図書館長選挙には勝てましたがね。

 

・教育者として先輩として

(1)厳しい教育と躾

大学では、学生に対し厳しくしましたが、宇都隆史君のように、参議院選挙で当選するなど良く育ってくれた者もおりますが、まだ「先生、助けて下さい」という不出来な学生もおります。

(2)後輩に良き妻を

後輩に良き妻をと「ふれあいの会」という集団見合いの会を、横高時代の同期や後輩の協力で、10年間で50組以上は成婚したでしょうか。
 

・学者として先輩として→博士号と論文発表(英仏独中韓伊ルーマニア語)

(1)戦争史の学者として世界的な活動について

(日本の学者で軍事を研究する人がいない。それだけのことです)
「英語で書かなければ歴史にならない」との信念で論文を書いているのですが、日暮れて道遠しです。(ホームページの英語版参照)

(2)学会活動について

詳細はホームページの「論文・寄稿他」のページにあるので下記をクリックしてご覧ください。
(平間さんのホームページ)
1. 「日露戦争・第一次世界大戦」
2. 「第二次世界大戦」の「日米海軍関係史」「日独海軍関係史」
3. 「戦後史・地方史・自衛隊史」
4. 「戦略・地政学・シーパワー」、「安全保障」などの大項目がありますので参考にして下さい。

(3)NHK「坂の上の雲」について

    時代考証と海軍指導を担当しました。

    「戦後史・地方史・その他」の「私的な文書」の5項「テレビなどの映像関係」に
    「海軍少将・平間洋一が秋山真之・広瀬武夫に与うるの書」がありますので読んで下さい。

ウィキペディアのアドレスも、リンクを張っておきました。どうぞご覧下さい
(平間さんのウィキペディア)

(4)学会・社会への寄与について

ホームページに発表した学術論文と次の第一次資料を掲載しております。
1. 「史料紹介 『大日本国防議会会報』の総目録

2. 「山本権兵衛宛ての5.15事件被告に対する東北の一農民からの嘆願書」

3. 「史料紹介 山本五十六元帥の開戦前後の書簡」

(5)先輩として後輩に対する活動について

1. 「市来会」の運営

月例研究会を開き、後輩やジャーナリストに正しい戦争の歴史を教え広めています。

2. 「船の会」の運営(年間2-3回)

海軍史の研究者や戦争史執筆者の育成と出版社、雑誌社などの編集者との連携を行っております。
(横中・横高の人もいます)
 
 
在校生に伝えたいことや朋友会に望むこと

在校生へのメッセージをお願いいたします。

「人生は微分だ」ということです。
これは、時間は総ての人に平等に与えられていますが、私に二つの人生を与えてくれたのは、「その時、その時にベストを尽くしたことにある」からです。

朋友会と同窓生へのメッセージをお願いいたします。
同窓会に入会しないのは入っても利益もないからと答える人が多いかと思いますが、同窓会に利益を求めるのでなく、同窓会(同窓の後継者)に「何をして上げられるか」という姿勢が欲しいですね。
 
あとがき

                 

高橋 豊(高21期)

 時間の管理。これが平間先輩の二つの人生の秘訣だと思いました。
ご多忙にもかかわらず、先輩への連絡に対する反応の速さは見事でした。返事はすぐに、資料はたくさん、いただきました。
好奇心と元気。これも、多分、秘訣だと思います。
本当は、二つ以上の人生を楽しまれているものと思われます。
インタビューは、午後8時(午後3時から)に終わりましたが、それからプールで泳がれると聞きました。

和田 良平(高17期)

 なんとすごい人だろうと思いました。
特に人生に対する計画には驚きました。きちんと計画を立て、それをきちんと実行する。有言実行ですね。脱帽いたしました。

里見 絢子(高9期)

 神様から与えられた寿命(時間)を上手にお使いになられて、人生を3人分ぐらい楽しまれているのではないでしょうか。
 ひたすら未来志向で行動される平間先輩に驚かされました。ますますのご活躍をお祈りします

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