(取材日:2007年3月15日) | ||
プロフィール | |
1959年 3月 | 逗子市立逗子中学校卒業 | |||
1962年 3月 | 神奈川県立横須賀高校卒業 | |||
1966年 3月 | 東京大学工学部卒業 | |||
1966年 4月 | 日本電気株式会社(NEC)入社 | |||
1985年11月 | NEC AMERICA Inc. 出向 | |||
1990年 7月 | 伝送通信事業部長 | |||
1994年 6月 | 伝送事業本部長 | |||
1995年 6月 | 取締役支配人 | |||
1998年 7月 | NEC USA Inc. President | |||
1999年 6月 | 常務取締役(NEC USA Inc. President 兼務) | |||
2000年12月 | 取締役常務、NECネットワークス カンパニー副社長 | |||
2002年 4月 | 取締役常務、NECネットワークス カンパニー社長 | |||
2002年10月 | 取締役専務、NECネットワークス カンパニー社長 | |||
2003年 4月 | 取締役専務 | |||
2004年 6月 | 代表取締役副社長 | |||
2005年 3月 | 代表取締役 執行役員副社長(役職表記変更) | |||
2006年 4月 | 代表取締役 執行役員社長 |
前社長がご病気になられ、緊急事態のなかでの社長ご就任と伺っております。間もなくご就任をなさって一年が経過することになられますが、会社のトップになられたご感想と抱負についてお聞かせ下さい。 | ||
突然の社長就任でしたので、心の準備はなかったのですが、日頃から何かあったら後は頼むと前社長から言われていましたので、引き受けたというのが実情です。 企業の社長というのは最終的な責任をとるのはもちろんですが、日々、決定を一人で下さないといけないプレッシャーが重いのです。誰かがこの役目を果たさなくてはならないので、今は会社にとって自分が必要だと納得して全力を尽くそうと思っています。 NECを社会から必要とされる存在意義のある会社にしたいと考えています。 まずは社員が元気を出して困難に挑戦できるよう励ますのが私の仕事だと思っています。 |
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社員の皆様が、困難に挑戦し社員として誇りを持つということについては、どのような施策や励ますことの具体例などをお持ちでしょうか? | ||
ただ、私どもには、海外を含めて多くの事業所があり社員も15万6千人(グループ企業を含む)おりますので接点が限られてしまうことは否めませんが、できる限り、このようなことを実行するようにしています。 第二には、首都圏にある事業所などの講堂で、出来るだけ多くの社員を集めて会社の方針や社長の考え方などを伝えています。社長の生の声を届けることが、会社の方向性を示すには大事だと思うからです。 第三には、毎週月曜日、社員用ホームページの社長のコーナーに、社員に宛てた1000字程度のメッセージを掲載しています。週のテーマによって、社長が何を感じ、何をしたいかを感じ取ってもらい、身近な存在になれたらと願い、土・日に一生懸命に書いています。このメッセージでも、書くことの難しさは伴いますが出来るだけ良き事例などを取り上げて、褒めることを書こうと心がけています。 |
大学ご卒業時に、NECを就職先にされた理由をお聞かせください。 また、新聞によりますと、「英語が苦手でエンジニアの道を歩まれた」とありますが、NECでは、英語力が要求される、大変重要なポストを歴任された様子、英語が苦手を克服されたエピソードなどがございましたらご披露ください。 |
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英語が苦手なのでエンジニアなら何とかなるだろうと思っていましたが、実際はそう甘くはなかったというのが実態です。 入社当時はまだ日本は欧米を追いかける立場でしたから、彼らの先進技術を英語の文献を通して学ぶのが日常的でした。 入社して7年ほどたったころ海外に留学する機会が会社から与えられました。 私はアメリカのスタンフォード大学の大学院に留学したのですが、入学を許可されるためにはTOEFL550点以上というのが条件でした。結果として何とかクリアしたのですが、残業で夜遅く帰ってからリスニングの勉強をするのが大変だったのを今でも覚えています。 このときの勉強がその後、海外の仕事をするのに大いに役立ちました。横高時代に嫌いでも英語を勉強したのが効いたのだと感謝しています。 |
NECでは、通信分野のお仕事を永年担当されたとのことですが、衛星通信、携帯電話など、通信の大きな変革をどのような想いで受け止めていらっしゃるでしょうか。 | ||
会社に入るときディジタル通信をやりたいと思っていましたので、通信はディジタル技術の応用で大きく発展するだろうという予感が当たったのだと思います。
通信技術の原理は古くから発明されているものが多いのですが、いかに実用化するかが課題でした。半導体やソフトウェアなどいろいろな技術が組み合わされて通信の発展を実現したのだと思います。 この発展の一部を技術者、経営者として担うことができたのは幸せ者だと思います。 |
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ネットワークの将来像などについての「夢」をお聞かせください。(※1) | |||||||
私たちは今、いつでも、どこでも 誰とでもコミュニケーションしたり、色々なサービスが利用できる、ユビキタス(※2)社会の入り口に立っていると思います。
ユビキタス社会のインフラがネットワークで、これからさらに発展が期待されます。人々の活動がいつでもどこでもITに支えられて、人間性を十分発揮できる豊かな社会がユビキタス社会です。日本は今モバイル(※3)やブロードバンド(※4)のネットワークで 、世界でも最も先進的な市場になっています。 これらのネットワークを、より「安心・安全」で、もっと「便利・快適」にする《次の世代のネットワーク》が登場し、世界で期待が高まっています。それらを通じて、真のユビキタス社会を実現させたいと考えています。 これからも日本が世界をリードしていけるよう皆で協力したいと思います。 |
目標達成をされた仕事と思いどおりにいかなかった(失敗?)仕事について、後輩を念頭に置いてお話しください。 | ||
製品開発の仕事では小さな失敗を繰り返しながらゴールに向かって粘り強く走り続ける事が必要です。失敗というのは成功するまで続けなかったということで、あきらめずに頑張るという粘り強さが必要です。
成功するプロジェクトは基本に忠実に実行可能な計画を作り、プロジェクトマネジメントをしっかりやり、基盤技術を事前に十分確保して、進めたときに初めて実現されます。これらのいずれかが欠けた場合は失敗プロジェクトになっています。 私もたくさん失敗をしましたが、失敗を恐れず、失敗にめげずに挑戦しつづけることが最も大事だと思います。 |
「失敗を恐れず、失敗にめげずに挑戦する」というメッセージをいただきましたが、これは、強靭な心を持ち続けることになると思われます。強い心を持って生きることは、なかなか困難なことのようにも思われますが、なにか良き処方箋のようなものをお持ちでしょうか? | ||
いつも諦めない強い気持ちを持つことが必要と思いますが、失敗をして落ち込む、そこから快復することには個人差がある訳で、一般的な処方箋はないと思います。
しかし、一番大事なのは、自分の夢を持つということと今日どうするかということです。 夢を実現していくために、今日出来ることを一つだけやって夢に一歩ずつ近づく、それが出来たときには自分に褒美を与えていくようなことが必要と思われます。 今日出来ることが何もないのは単なる夢で、今日出来ることを一歩一歩積み重ねていくことが大切です。人間は、弱いものですから、強い気持ちを持つというよりは、小さな気持ちを積み重ねていくことが大切だと思います。 |
スタンフォード大学への留学、NECアメリカの社長など、海外に出て日本をご覧になったときの思い(学ばれたもの、日本を再認識なさったことなど)をお聞かせ下さい。 | ||
アメリカに行って最も印象的だったのはアメリカがものすごい競争社会だということでした。みんなでなかよくという日本の文化はすばらしいと思いますが、残念ながらグローバル化の中では競争力がありません。 日本人は日本の良さを残しながら、グローバル化するという難しい課題に挑戦しなくてはなりません。 日本は美しい国土とすばらしい文化を持っています。グローバル競争の中で日本が生き延びて、子孫に日本の良さを伝えていきたいものです。 |
横高時代の思い出で、特に印象に残っていらっしゃるエピソードをお聞かせください。(授業、運動会、文化祭、部活動など) | ||
両親に負担をかけたくないとの思いから大学は国立に行くと決めていましたのでこつこつ勉強したのを覚えています。
1年生のときに数学の試験で100点満点の27点という悲惨な結果をとってショックを受けて、気を引き締められたのを思い出します。 3年生の運動会でみな受験が気になるのに応援の飾り作りを一緒になってやったのが思い出です。 |
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横高時代に、特に印象に残られた先生について、お聞かせ下さい。 | |||||
担任でもなく、授業を受けた訳でもないのですが、英語の伊東先生に感謝しています。
あるとき友人に誘われて伊東先生のご自宅に伺い、受験の心構えのお話をいただきました。目標を高く持てとのお話でその後の勉強に大きな励みになりました。 自分の人生の大きな転機だったと思います。 |
新聞によりますと、ご趣味が、「家族と一緒に過ごすこと」となっていますが、日本では家族崩壊が危惧されています現在、とても優しく、身も心も温かくなる思いです。お差支えの無い範囲で、ご家族との関わりについてお聞かせください。 | ||
子供たちが小さいころにアメリカに赴任しましたので、家族みんなで力を合わせて新しい生活に挑戦したことが家族の仲の良さのきっかけだと思います。
先日も結婚した子供たちが伴侶とともに来てくれて私の63歳の誕生日を祝ってくれました。老いては子に従えという格言を忘れずに残りの人生を楽しみたいと思います。 |
未来への可能性を大きく秘めて、現在、母校で学んでいる後輩たちに、メッセージをお願いいたします。 | ||
私の好きな言葉は、「日々新たに」です。
自分の目標に向かって日々努力している皆さんは、『昨日と少しだけ違う自分に今日はなろう』 と努力しているのだと思います。 日々新たな気持ちになってマンネリに陥らずに青春を駆け抜けてください。 |
横高の校歌は、「天かける白雲か、日に新た 我らの望み」ではじまりますが、お好きな言葉への連続性を感じました。NECのトップとしてのメッセージが多くの後輩たちに届くことを願って、取材を終わらせていただきます。 | ||
取材後記 | |
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今回、お訪ねをいたしました 矢野 薫さんは、未来への大きな飛躍が秘められているようなシンボリックな本社ビルで執務をされていました。 (高9期・里見記) |
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