神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】小林 俊一 さん(高13期)
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取材日:2006年5月5日)
プロフィール
昭和33年 横須賀市立池上中学校卒業
昭和36年 神奈川県立横須賀高校卒業
昭和43年 早稲田大学法学部卒業
昭和43年 サントリー(株)入社
昭和51年 サントリー(株)退社
昭和52年 ケニア・ナイロビへ行く(スワヒリ語を学ぶため)
以来今日まで29年間、ケニアに住む。
     <以後、ケニアのナショナル・チームに同行する>
昭和54年 モスクワ プレオリンピック
昭和59年 世界陸上 ヘルシンキ大会
昭和59年 ロサンゼルス オリンピック
昭和62年 世界陸上 ローマ大会
昭和63年 ソウル オリンピック
平成3年 世界陸上 東京大会
平成4年 バルセロナ オリンピック
平成8年 アトランタ オリンピック
平成10年 英連邦大会 クアラルンプール(マレーシア)
平成12年 シドニー オリンピック
平成16年 アテネ オリンピック
平成18年 英連邦大会 メルボルン(オーストラリア)
お仕事について
現在のお仕事についてお聞かせください。

ケニアのランナー(長距離選手)を、日本の学校(高校・大学)や企業に斡旋、紹介するコーディネーターの仕事をしています。ボランティアでは、飯が食べていけないので、選手を紹介する学校・企業からコーディネート料という顧問料を受け取っております。

大相撲のモンゴル、サッカーの中南米・ヨーロッパ、プロ野球のアメリカ・キューバ・ドミニカ、バスケットボールのアメリカ、卓球の中国など、いろいろなスポーツ界で活躍する外国人のプレーヤーを日本にジョイントさせる仲介人がいるから日本でプレー出来るわけです。

外国人が日本で仕事(スポーツ)をするには、出入国管理事務所から労働許可書を取らなくてはなりません。ケニアの中学、高校卒業のランナーを日本に行かせる場合、まず、パスポートの作成、日本での身元保証人など諸手続を私がすべて代行します。こうして就学ビザ、就労ビザも下り、いよいよ日本に行くためにケニアを旅立ちます。

15才~18才のケニアの少年・少女は、飛行機に乗るのも、エレベーター、エスカレーターに乗るのも初体験です。もっと身近なところでは、洋式のトイレの使い方が分からないので、こと細かく教えてあげなくてはなりません。飛行機に乗って安全ベルトを締めますが、これのはずし方が分かりません。すべてこと細かく私が、教えてあげるのです。でもそこは若者、一度教えればのみ込みは早いものです。

日本に来てからも異文化(日本の文化)の吸収は早く、すぐ理解してしまいます。日本の私たちは、中学、高校、大学と英語を学んできたけれど、英語をペラペラ話せる人はそんなに多くはいません。ところが、ケニアの子供たちは、一年も日本にいると日本語を実に上手にしゃべれるようになります。大相撲の朝青龍、琴欧州なども、実に上手に日本語をしゃべるでしょう。ケニアは、かつて英国の植民地だったので、共通語は英語なのですが、29年ケニアにいる私は、いまだに英会話は上手にしゃべれません。

日常生活や、仕事での打ち合わせはすべてスワヒリ語と英語でしますけれど、たどたどしくて決して上手とはいえません。でも、ケニアの子供達は実に上手に日本語を話します。私の女房は、モンゴルやケニアから来たこれらの人々が日本語を上手に話すことに大変驚いております。

私はこの仕事を日本に持ち込んだパイオニアとして、自負し満足しております。

ビジネスマンから現在の仕事に変わられた経緯、動機をお聞かせください。

以前はサントリーでビールを売る営業の仕事をしていました。これもビジネスなら今のコーディネートの仕事もビジネス、この世の中アイディアひとつでいろいろな仕事が巷に転がっていると思います。サントリーをやめてケニアに行くと決心をしてから1年間、英会話と写真の技術を習得するために三浦市の市民講座に通いました。当時私は34歳、あの頃本当に元気そのものでした。

両親は、私がアフリカのケニアに行くと言ったらびっくりして反対しました。しかし、私の心の中では広く大海に舟を漕ぎ出してみたいという血が騒いだのです。その気持ちが今でもケニアに居させるのだと思います。父は今でいうJR、昔の日本国有鉄道で測量の技師をしていました。趣味だったのかな?英会話で横須賀の米軍の兵士と話すのが大好きな人でした。言ってみれば、私は父の血を引いているのだと思います。

私は、昭和52年にケニアに行き、当初はスワヒリ語を学びながら写真の技術を生かしフォト・ジャーナリストを志しました。そのためケニア陸上競技連盟、ケニアオリンピック委員会、ケニア体育協会、この三つのスポーツ団体に足を運び、顔を売ったわけです。顔なじみになるとどの世界でもそうだと思いますが、人と人とのつながり、顔を知られることはとても大切だと思います。 1978年(昭和53年)私がケニアに行った次の年、アルジェリアの首都アルジェでオール・アフリカ・ゲーム(全アフリカ・スポーツの祭典)が行われました。この時私は、ケニアオリンピック委員会の推薦でプレス(カメラ記者)としてIDカードを取る事が出来ました。

それ以来ケニアのナショナル・チームに同行して、オリンピック、世界選手権、英連邦大会と渡り歩いて、ケニアでは変な外国人、変わった日本人と思われているでしょう。

学校時代は
小学校、中学校の少年時代はどのようでしたか。
小学校の時は、普通の少年だったと思います。中学時代のクラブ活動は陸上競技部、走ることが大好きでした。ただグランドを走っていれば気が済んだ少年でした。勉強はビリ。でも中学3年の10月からアチーブメント・テストがある翌年の2月までは猛勉強をしました。生涯で一番勉強したのは、あの中学時代の5ヶ月だったと思います。

横高に入りたくて、ただその一途な気持ちでした。お袋(今も健在、90歳、三浦市に在住)が「しゅうぼう、寝なくて大丈夫かい」と心配してくれたこの言葉を励みに、ただ横高に入りたくて猛勉強をしました。

横須賀高校時代の思い出などを聞かせてください。

勉強はからきしだめでしたが、1年に2度私が登場する時がありました。秋の運動会と弁論大会です。運動会の時は、長距離走からリレーまで大活躍で、絶えずトラックに立っていたのを覚えています。弁論大会の時は、人の前でしゃべることが苦にならなかったし、あがることがなかったですね。思いつくままに良くしゃべりました。これは私の一種の特技だったと思います。

3列目左から2番目が小林さん 3年4組の集合写真

クラブ活動は陸上競技部で、本間慎司先生と毎日夕方暗くなるまで、あの250メートルのトラックをぐるぐる走りまくっていました。横高の長距離部員は4人いたと記憶しています。私は関東大会にも行けなかった3流のランナーでした。ただ走るのが好きという素朴な原点が、アフリカに行って生きるのですね。そして今日のビジネスにつながったのですね。

人生、こうして振り返ると面白いものですね。

ケニアでの活動について
ケニアから日本に紹介したランナーについてお聞かせください。

私は、アマチュア・スポーツの原点、頂点はオリンピックだと思っているし、そう信じています。私がケニアから日本の実業団に紹介したランナーで、オリンピックのケニア代表となり、メダルを取った選手が2人います。
ダグラス・ワキウリ(ソウル・オリンピック マラソン銀メダル)とエリック・ワイナイナ(アトランタで銅メダル、シドニーで銀メダル)の2人です。
この仕事を始めて27年位たつかな、その間にメダルは3つ、まだ金メダルがありません。何としても私が見出して日本に送り込み、日本でトレーニングしたケニアのランナーにオリンピックのマラソンで金メダルを取らせたい、これが私の夢です。

○ダグラス・ワキウリについて

1983年、S.B食品の監督をしていた中村清さんに、「先生、脚力2番手、性格が良く練習大好きという18才の青年がいますよ」と紹介しましたところ「ニュージーランドのアシュ 
左から ワキウリ選手、キプラガット陸連会長、
ワイナイナ選手、小林さん
バートンに連れてきてくれ」と言われ連れて行きました。これがダグラス・ワキウリと中村先生との出会いでした。

○エリック・ワイナイナについて

私の個人的な意見ですが、コニカミノルタの酒井監督は、日本の実業団の監督・コーチ(長距離)では、指導力は、ピカ一だと思います。
酒井監督から「小林さん、マラソン向きの選手をひとり紹介してください、見てみたいのです」と頼まれ、エリック・ワイナイナを紹介しました。
(エリック・ワイナイナ選手は、1993年の来日以来所属していたコニカミノルタの陸上部を今年3月末で退部し、アミノバイタルACに移籍しました。今後は国際大会に出場するほか、市民大会などで市民ランナーとの交流活動に取り組むという。=取材者が新聞報道から抜粋)

私の自負は、優勝引受人、優勝請負人です。高校では仙台育英高校、大学ではかつての山梨学院大学、実業団では、男子・コニカミノルタ、女子・宮崎沖電気と駅伝の全国大会で優勝しているチームに、私がコーディネイトしたケニアのランナーがいることです。こうして27年、私がケニアと日本のスポーツを通じて、文化のかけ橋となっているのもケニアの子供達、その両親、家族の喜ぶ姿を見ることが楽しみだからです。

左から三村さん(アシックス・靴のスペシャリスト)、
高橋尚子選手、小林さん、鬼塚さん(アシックス会長)

「二本の脚で人生を切り開け! ケニアの田舎で一生百姓して、とうもろこしとジャガイモ、にんじん、キャベツを作るのも人生。走ってオリンピックのスタートラインに立つのも人生。好きにしたらいい。私は君の選ぶ道を応援するから。あなたには幸い素晴らしい長い距離を走る才能がある。これを生かさない手はない」と言って聞かせます。

ケニア国内で、どのようにして優秀な選手を見つけ出すのですか。

選手の見つけ出し方、これは一言でいうとカンとひらめきなのです。

池上中学校、横高時代、長距離の三流選手だったけれど、三浦半島レベルの駅伝、ロードレースでは、それでも強い方でした。私は、走る事が好きでした。それが今は走るのを見るのが好きに変わりました。

そしてケニアのナイロビから300キロも離れた、まさにアフリカのサバンナの草原や海抜2000メートルの高地、朝靄の中朝露をふんで裸足で着の身着のまま、これといった指導者コーチがいる訳でもなし、ただ黙々と走る子供達の中に将来花咲くだろう選手を見つけ出すこと、これは結構楽しいものですよ。

他の国々にもどのスポーツにも、私の様なスカウトがいるのです。ケニアの長距離のスカウトをするために29年前アフリカにいったのではないのです。ただ、「目指すはアフリカのケニア」「そこに何かがあるぞ」といった漠然としたカンとひらめき、これなのです。それが今、ビジネスとして花咲いている訳です。

ケニアでの生活について
奥様との出会いなどをお聞かせください。

私は、34歳の時ケニアに行き、そこで旅行者として来ていた当時27歳だった群馬県出身の女性と出会いました。この人が今の私の女房です。知り合って1年間文通をしました。そして結婚することになった訳です。
結婚式もしていません。私はケニアにいて、女房が、三浦市役所に婚姻届を出し、戸籍抄本を一通持ってナイロビに嫁いで来たというわけです。

親子3人
(2005/6 英国・セントアンドリュースにて)

私が数えで40歳になる年に男の子を授かりました。ナイロビで生まれ、日本大使館に出生届を出したケニア生まれの日本国籍のひとり息子は、小学校、中学校、高校と、ケニアの英国系の学校で学び、今、米国アリゾナ州立大学の4年生。今年12月晴れて卒業します。 途中2年間は、他の大学でゴルフ部のチームのメンバーとして活躍していました。
名前は「走」と書いて、「そう」と読みます。私の夢を息子の名前につけた訳です。「ケニアで生まれた日本人を両親にもつ一人の少年が、将来オリンピックでマラソンを走り金メダルを取る」こういう夢を息子に託したけれど、走るのでなく、ゴルフの方に進んだわけです。息子がプロ・ゴルフの道に進みたいと知らされた時、はっきり言って私は躊躇しました。

私は世界を目指したマラソン選手、ケニアのダグラス・ワキウリ、エリック・ワイナイナ、タンザニアのジュマ・イカンガー、エチオピアのアベベ・メコネン、ベライネ・デンシモ、ジプチのアーメド・サーラ、ロブレ・ジャアーといった一時期マラソンで頂点に近づいたスポーツ選手をたくさん見てきました。彼らは、才能もさることながらその努力のすさまじいこと、これでもかこれでもかと自らに負荷をかけて苦しみぬいていました。彼らは走る事がただ好きな連中でしたね。走って走って、朝から晩まで走りまくっていました。

だから、息子には「スポーツで飯を食べていくって大変な事だよ」と、よく言ったものです。それでも、ゴルフ道を極めたいと言うから、それではやりなさいと言いました。あと5年、私は息子をじっと見守って行こうと思っています。

私の女房はネアカな性格でして、息子の母親としてインタビューを受けたいのだと言っています。オーガスタのグリーンジャケット、そう、あのマスターズ・トーナメントを制する最初の日本人は「走」なんだときめています。こういう、ネアカな母親のもとで育った子だから、息子はネアカな明るい青年です。何か親バカ、パパバカ、子離れしない父親だけど、世界中、この世の中、親子関係なんていうのは、みんなこういったものでしょう。

ケニア・ナイロビでの生活をお聞かせください。

ナイロビでの生活は、午前中デスクワーク、その後ケニア陸連、オリンピック委員会、体育協会に出かけ情報の収集、午後は運動代わりにゴルフに出かけます。ひとりで9ホール、ボールを2個ずつ打ちながら回ることもあれば、ケニア人と連絡を取り合って、メンバーコースで18ホールプレーすることもあります。

今の趣味はゴルフ。ケニアでゴルフに出会う前は、ジョキングと水泳が趣味でした。私は、日本時代はゴルフをしなかったし、するチャンスもありませんでした。

1983年ロスオリンピックの前年、日本から来た友人に誘われたのがきっかけで、以来、ゴルフのとりこになって23年になります。私たち家族3人、共通の趣味はゴルフです。息子が18歳で米国のアリゾナ州立大学に入るまでは、週末というと三人で家から半径20キロ以内のメンバーになっているゴルフ場でプレーをしていました。

ハンディ息子は0、私は11、女房は14、親子3人で、ホールイン・ワンを11回達成しています。内訳は息子5回、私4回、女房2回、回数をこなせば、こういう事もあるということですね。家族対抗戦が世界で行われたら、優勝するかもしれないですね。

現在は、私と女房との二人の生活。食べ物は、日本から持ち帰る、米、味噌、醤油、だしの素を使った日本食です。食材はケニアで手に入ります。女房の打つ手打ちラーメンは、ナイロビの在留邦人の間では「いくみ亭のラーメン」といって、その味は大変有名なのです。

家族の申し合わせ事項、それは健康でいようという事。快眠、快食、快便、まず健康に注意してケニアのナイロビで生活しています。

ケニアに住んでよかったと思うことはありますか。
キリマンジャロ山の頂上で

アフリカのケニアに住んでいるという土地の利か、アフリカ最高峰5895メートルのキリマンジャロ山の頂上まで登ったこともあります。

動物サファリといわれて有名な、マサイマラ、セレンゲッティなどという所で自然の動物の生態を見ることが出来る幸運にも恵まれました。

英国までは、ケニアから8時間。家族3人で「THE OPEN」そう全英オープンの行われるセントアンドリュースで、一週間に3ラウンドもするチャンスに恵まれ、日本にいたのではとてもかなわぬ体験をしております。

住めば都とはよく言ったものです。私は三浦半島の横須賀で育ち、現在90歳になる私の母と4つ年下の妹(横高出身)が、三浦市に住んでいます。 日本に帰ると必ず実家に顔を出しますが、なぜか日本に一週間もいるとケニアに帰りたくなります。

ケニアについてお聞かせください。

ケニアから見た日本の物質文化は豊かですね。。ケニアはこれに比べたら貧しいです。でも、私が選手を発掘に行く、ケニアの田舎の人たちはみんな明るいです。降りそそぐ太陽、自然の恵みで、農作物は豊富。食べていくのに不自由はしません。生きる原点は食べること。ケニア国民の主食はトウモロコシです。これを粉末にしてから蒸しパンの様にして、スープとまぶして食べます。

世界の食文化は、米食、粉食(小麦、パン食)、トウモロコシ食の三つに区分されると思います。日本・アジアは米食、ヨーロッパ・アメリカはパン食、アフリカはトウモロコシ食です。トウモロコシ食の人は、走るのに強い力を発揮するのかも知れません。ケニアの長距離選手は、日本に来て2、3年経つとこのトウモロコシの粉末から作るウガリという、蒸しパン状の食事が恋しくなるようです。米食に慣れると脚力が落ちます。人間は生まれながらに食べてきたものを食べるのが一番いいのです。私が接しているのは田舎の農民で、住まいは掘っ立て小屋同然、着ている物はぼろです。それでもみんな明るいです。

あるもので納得して生きている感じです。日本からTシャツを持ち帰り、こういう人たちにあげるとすごく喜んでくれます。ダグラスもエリックも、私と出合った18歳の頃、走っている姿は裸足でした。私と出会って、初めてシューズを手にし、宝物のように大事にしてレースの時だけ履くのです。その姿を見ていると、胸があつくなります。でも同情はいけません。自然体で接することです。二本の脚で人生を切り開くためには、今ある現実の貧しさに打ち勝っていかなくてはいけないのです。そして日本へのスポーツ留学を手にするのです。ハングリーはスポーツの原点なのです。ぼろを着て裸足で走っていた少年が、何年か後にオリンピックの表彰台の上に立っているのです。自分の第2の人生が、なぜケニアだったのか、私も即答できません。成り行きだったと答えることが正解だと自分では思います。

現在、29年経ってケニアに来て良かったと思っています。女房流の言い方をすれば「小林さんは、ケニアが合うのよ」これですね。

これからも、北京(2008年)ロンドン(2012年)とオリンピックは続きます。スポーツの頂点オリンピックで、メダルに届くランナーを一人でも多くケニアから、私の手で送り出したいと思っております。

2004年に、小林さんはNHKのBS放送で紹介されましたが、その時の様子をお聞かせください。

2004年11月、NHKのBS放送で「遠くにありて、にっぽん人」「マラソンで夢をつかめ、ケニア、小林俊一」が企画され、ロケハン、本撮影とほぼ1年の歳月かけて一時間のドキュメンタリーとして完成し、テレビ放映されました。

放映を見た当人の感想は、「あれはカッコよすぎる、現実はあんなものではない」。でも、女房が留守のとき一人でビデオを見たら胸にこみあげるものがあって涙が出てきました。29年間よくこつこつとやって来たものだなと。

私の眼にとまるのを期待して、田舎の山野を、サバンナの草原を駆け巡る少年少女は、私に認められる事がランナーとしてのスタートなのです。

マスコミに取り上げられることは、悪いことでなければいいのだろうが、人は受け取り方が色々だから難しいのです。私がケニアに29年在住してこの活動をしていることを、前向きにとらえてくれる人はいいとして、金儲けのためだとか、人身売買だとか人は何かと言うからたいへんです。いちいちそんなことに耳を傾けていたら切りがありませんものね。

在校生へのメッセージ
横須賀高校の現役生諸君にメッセージを、お聞かせください。

私はケニアでの今日の人生を、日本を発つ時に決めていた訳ではありません。

ランナーを発掘するのがカンとひらめきなら、私の人生もカンとひらめきでした。池中、横高時代、中距離ランナーで、関東大会にも行けなかった三流ランナーの私でも、身体の中に人が走る姿に感動するメンタリズムが生きていたのでしょう。

私は、34歳でケニアに来て、英語とスワヒリ語を学びながらスポーツジャーナリストを志しました。そのためにはケニア陸上競技連盟、ケニアオリンピック委員会、ケニア体育協会といった団体の役員に私の存在を認めてもらう事が大切だと考えました。私は、これらの団体の事務所によく顔を出し、私という人間を知ってもらいました。一方で競技会の写真を撮って、地元の新聞社に提供しました。新聞に載った写真の下に「Photo by Kobayashi」と名前が出ます。そうするとスポーツファンの読者が私の名前を覚えてくれます。

この世の中、自己PRが非常に大切なのです。それが仕事に結びつくのです。

横須賀高校現役生諸君、人生とは自己PR、自己演出なのです。何も派手なパフォーマンスは必要としません。自分を演出し、相手に印象づける自己PRが必要だと思います。現役生諸君の人生は、自ら切り開くしかないのです。

私はケニアの少年少女に「二本の脚で、人生を切り開け」と言ってきました。彼らは自分の脚力が人より秀でていれば、それを前向きに自己PRしてきます。私はたまたまスポーツの世界に関わったけれど、小泉先輩は政治家、小柴先輩(ノーベル賞受賞者)は物理学者、島田先輩は画家とジャンルはいろいろあります。「自分が何に向いているか」それを見つけ出すのが諸君の努めだと思います。これから大学受験、就職、結婚など色々な壁が立ちはだかっています。これらを自らの手で切り開いていって下さい。

横須賀高校現役生諸君の輝かしい将来を期待しております。

取材後記

(取材日 2006年5月5日)

陸上競技部の先輩・後輩という事で、私が取材担当者になりました。

左から饗場、小林さん、小野関

カンとひらめきで、第二の人生をケニアで過ごし自らの信念で、ケニアと日本のかけ橋となった小林俊一さんの活動を見聞し非常に感動を受けました。

小林さんが4月に来日した際、私と小野関とで会い質問事項など取材内容の打合せを行いました。5月に来日した際は写真撮影と、最初の原稿を受け取りました。その後8月に残りの原稿を受け取りました。

原稿は手書きのものでしたので、私がパソコンに入力し、ケニアの小林さんとメールで原稿の確認、校正などのやり取りを何回か行いました。小林さんは、パソコンはやらないので、奥様のいくみさんにすべてを代行していただきました。この欄をお借りして、奥様には、全面的にご協力いただきました事を心から感謝申し上げます。大変有難うございました。

(高10期 饗場・記)

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