(取材日:2005年9月22日) | ||
プロフィール | |
昭和8年7月 | 神奈川県浦賀町大津(現横須賀市大津町)に生まれる | |||
昭和15年 | 横須賀市立大津小学校入学 | |||
昭和22年 | 横須賀市立馬堀中学校入学 | |||
昭和25年 | 神奈川県立横須賀高等学校入学 美術部入部 | |||
昭和28年 | 同校卒業 | |||
昭和29年 | 東京藝術大学美術学部油画科に入学 | |||
昭和33年 | 同校卒業 油画専攻学科に進む | |||
昭和35年 | 同校 油画専攻学科を終了 | |||
昭和41年 | 愛知県立芸術大学に常勤講師として赴任 | ||
昭和43年 | 同校より愛知県在外研究生として1年間海外派遣される パリに滞在し、スペイン・イタリアなどを廻る |
||
昭和44年 | 帰国 同校 美術学部助教授となる | ||
昭和49年 | 同校 美術学部教授となる | ||
平成4年 | 同校 美術学部教授を退官 客員教授となる | ||
平成5年 | 紺綬褒章を受章 | ||
平成8年 | 愛知県立芸術大学名誉教授となる | ||
平成11年 | 日本芸術院会員に任命される | ||
平成13年 | 愛知県立芸術大学学長に就任 | ||
平成16年 | 文化功労者に顕彰される |
主な受賞等 | ||
昭和22年 | 納税ポスターコンクールで全国一位となり大蔵大臣(現財務大臣)賞を受賞 | ||
昭和32年 | 国画会展に初出品 国画賞を受賞 《ノイローゼ》 | ||
福島繁太郎の推薦により初の個展を開催 | |||
昭和36年 | 国画会会員となる | ||
昭和42年 | 第11回安井賞を受賞 《母と子のスペース》 | ||
昭和51年 | 第29回中日文化賞を受賞 | ||
昭和55年 | 第3回東郷青児美術館大賞を受賞 《炎》 | ||
平成2年 | 第8回宮本三郎記念賞を受賞 《鳥からの啓示》 | ||
愛知県教育委員会より愛知県文化功労賞を受賞 | |||
平成5年 | 第26回東海テレビ文化賞を受賞 | ||
平成9年 | 愛知県知事表彰を受ける | ||
平成11年 | 1998年度日本芸術院賞を受賞 | ||
平成17年 | 名古屋市芸術賞受賞 | ||
これまでの経緯について | ||
画家を目指した動機は | ||
幼い頃から、絵を画く事は好きであった。画家の道を目指した第一段階は、馬堀中学の2年生の時(昭和22年)納税ポスター・コンクールがあり、応募したところ、全国一位となり大蔵大臣賞(現財務大臣)を受賞したことである。賞金として5,000円(現在では約200,000円位)を貰い、その賞金で油絵の道具・材料を購入したのが始まりであった。 その後、昭和42年に画家への登竜門と言われている第11回安井賞を《母と子のスペース》で受賞した事で画家として生活できる自信がついた。これが第2段階だと思っている。 中学生時代は、市内の中学校には、不入斗中に小川、池上中に原、馬堀中に島田と優秀な人材がいた。これらが揃って横高に入学し、美術部に入部し、お互いに切磋琢磨しながら美術の勉強に励んだ。 |
||
東京芸術大学入学について | ||
昭和29年に東京芸術大学に入学したが、同校は入学定員が少なく当時同校に入学するのは大変難しかった。東京大学が14倍強の入学倍率であったが、東京芸術大学はそれより少し高い16倍の倍率であった。又、東京芸術大学を受験するには、普通3~4年間研究所等で絵画の勉強をしなければ入試で合格する事が出来なかった。幸いにも私は横高の美術部での絵画の勉強だけで合格し、入学する事が出来た。これは、横高の美術の宮川先生をはじめ諸先生がたから暖かく見守っていただき、献身的なご指導の賜と感謝している。 東京芸術大学美術学部を卒業とともに、油画専攻学科に進み、油画の研修を行った。東京芸術大学在学中に国画会展に初出品し国画賞を受賞し、福島繁太郎氏の推薦により初の個展を開催する等の活動をした。しかし画家としての生活は大変なものであった。画材のうち特に油絵具は高価なものであり、画材費を捻出するのに大変苦労した時代であった。 |
||
東京芸術大学卒業後は | ||
横浜西口の岩崎学園で研究所を開設し、東京芸術大学の学生達に講師として絵画を教えていたが、家賃もちゃんと払えない状態であった。
しかし、その生徒の中から若くて優秀な人が何人か出た。 以前から親交のあった高3期の髙梨昌芳さん経営のタカナシ乳業(株)の社報の表紙を画いて原稿料を頂き、画材を買っていた時代もあった。 |
||||
[注:現在髙梨さんは同社の会長であり、壽子夫人は島田さんと同期の5期生である。] | ||||
愛知県立芸術大学との係わりは | ||
東京芸術大学在学時、師事していた教授が、名古屋出身であり、愛知県で芸術大学を開校するとの事で、昭和41年に講師として推薦され赴任したのが始まりであった。 学校は名古屋市の郊外にあり(愛知万博の会場の近辺)、当時としては革新的で理想的な建物であった。又、開校して間が無いため革新的な教授も多く夢のある大学であった。 昭和43年に愛知県在外研究生として1年間海外派遣され、パリに滞在して、スペインやイタリアなどを廻り、絵画の勉強をした。画家になるためには自費でパリに渡り絵画の勉強をするのが普通である。 私は愛知県在外研究生のため、県から給与を貰っていたので、普通の人よりは好条件であり、皆よりは一寸高級なモンマルトルの丘のぶどう棚のある場所のアパートに住む事が出来た。 この1年間の海外研修は、その後の私の画家としての大成、日常的や精神的なテーマに傾倒し、造形の革新を追求して、一目瞭然それと分る島田様式の確立、今、皆さんから「かたちびと」と呼ばれている画風の完成に大いに役立ったと思っている。 帰国後、教授・名誉教授・学長に就任し現在に至る。 現在は、昼間は学長として学校の運営に関わるため、夜に絵を画くという生活をしている。 |
||
画家として大成されておられますが | ||
画家として大成するまでには、大変苦しい時代がある。私の場合は大学の講師・教授としての勤務があったので、ある程度の生活は出来たが、それでも画材費の捻出には苦労した。世界でも日本でも有名画家と云われている人達でも、最初から有名ではなく、一流画家になるために苦労を重ね頑張ったからこそ、その地位や名声を得たのである。 名前が売れると生活も楽になるとと思われ勝ちだが、それは、ごく一部の人たちで、多くは画廊・画商の方達がいなければ生活は成り立たない。画廊・画商の方が個展等の会場準備、宣伝、販売を行い、その一部が画家に画料として入ってくる仕組みである。 |
||
芸術家ご一家ですが(取材班が紹介) | ||
兄の故修二さん(中34期)は歌人として別分野で活躍されておられました。 父君は京都工芸大学(現京都繊維大学)を出て浦賀船渠(現住友重機械工業)の客船インテリアデザイナーとして、母君は斎藤茂吉門下の歌人でしたので、島田さんはそれらの血を引いているのではないでしょうか。 ちなみに、鮎子夫人は東京芸術大学時代の同級生で、現在画家としてご活躍です。 |
||
横高時代は | ||
前にも述べた様に、中学時代から絵画で優秀な人材と云われていた不入斗中の小川清彦君・池上中の原和子君と馬堀中の私と、今で言う野球のスカウト合戦ではないが揃って横高に入学する事ができ、美術部に集まった。1年後輩には横須賀市中央公園のモニュメントをデザインした最上寿之君が入部し、横高の美術部が最も充実した時であった。
当時の横高はどちらかと云うと受験勉強一本槍の時代であった。先輩達が大学卒業後は一流会社に就職したとの話題が多かった。 そのような中、私は美術一辺倒で暇さえあれば絵を画いていた。 |
||||
思い出に残る先生は | ||
特に担任であった山田(宮澤)先生を始めとして、小川・渡辺・美術の宮川先生達が思い出に残っている。 当時の先生がたは教科書だけでなく、自分で種々の本を使って献身的に我々生徒に様々なことを教えてくれた。現在でも当時に教えて貰ったことが大変生きている。
山田(宮澤)先生には、色々と励まされて、美術に専念出来た事が、今日の自分があると感謝している。だから今でも信州の山田先生を時々訪問している。 その他、当時の中川校長も思い出に残っている。中川校長は斬新的な考えを持っておられ、我々5期は男女共学の最初の学年である。男女共学には反対の先生も数多くいたと云われていたが中川校長が男女共学に踏み切ったと云われ、この様な事が他の高等学校と違い、先生がたにも自由放任主義のような所があり、自己責任で何事も行うという校風があるのではないか。形にはまった人間形成でなく独自の生き方を学ぶ事により、数多くの著名人が出ているのではないかと思われる。 |
||||
在校生に望む事は | ||
先ず、何事でも受け入れる人間でないと成功しない。又、謙虚でなければならない。 自分の才能を早く見つける事。成功する為には頑張らなければならないが、駄目だったら何時までもその事にしがみついていないで、早く辞める事が大切である。真面目だけでは成功しない。 特に美術の面では、直感的にならなければならない。考えた時はいい作品は絶対に出来ない。絵画では基礎であるデッサンが一番重要である。 何事も基礎を大事にして物を正しく見て正しく画く事が大切で、常に感激したものを持つ事が重要である。 |
||
取材後記 | |
(取材日 平成17年9月22日) 今回は、9月に地元横須賀での個展開催時に、三和義彦さん(高7期)の手配により同期の髙梨壽子さんの同席を得て取材する事が出来ました。愛知県立芸術大学学長として公務ご多用中、又、個展開催時ではありましたが島田さんには快くお引き受け戴き有り難うございました。
取材当日、偶然にも堀江三俊先生も会場にご夫妻でお見えになり、島田さんと談笑されておられました。 同期の髙梨さん、以前より親交のある三和さんを交えての取材でしたので、横高時代の思い出に話が弾み、予定時間を大幅に超過し楽しい一時が過ごせました。 話の中で、髙梨さんより島田さんの結婚式の時のエピソードが披露されました。 結婚当時は、島田さんの話にもあったように、大変な時代だったとの事。披露宴の出席者には後日記念品として島田さんより一人ひとりに絵が贈られたとのこと。 島田さんはその事はすっかり忘れていて、「そんなことがあったかな」と。 当時の島田さんは、現在の名声は無かったと思われますが、今となるとその絵を大切に取っておいた方は大変な価値のある物となっています。 最後になりますが、手配をして下さいました三和義彦さんに感謝申し上げます。 (取材担当 幸嶋孝治(高5期)・小野関浩(高11期))
|