神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】齋 藤 隆 さん(高18期)
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(取材日:2005年7月20日)
プロフィール
昭和29~35年 市立池上小学校
昭和35~38年 市立池上中学校
昭和38~41年 県立横須賀高等学校(18期生)
昭和41~45年 防衛大学校(14期生)
昭和45~46年 海上自衛隊幹部候補生学校
昭和46~54年 潜水艦乗り組み
昭和61~62年 潜水艦「はましお」艦長
昭和62~63年 潜水艦「せとしお」艦長
平成 1~ 2年 米国海軍大学留学
平成 4~ 6年 第22護衛隊司令
平成 6~ 8年 海上幕僚監部防衛課長
平成 9~13年 海上幕僚監部防衛部長
平成13~14年 舞鶴地方総監
平成14~17年 横須賀地方総監
平成17年~ 第27代海上幕僚長
海上自衛隊とは...
最初に、現在のお仕事についてお聞かせください。

私は、現在、海上自衛隊の海上幕僚長という仕事をしています。

海上自衛隊は約4万8千人の人員と約140隻の艦艇、約300機の航空機をかかえています。これらの人員と艦艇、航空機を使って一年365日、日本の周辺海域の警戒監視を実施しています。
また、すでに4年目に入りましたが、インド洋においてテロ阻止作戦に従事中の米国、英国等の外国艦船に対し燃料等の補給支援活動として補給艦1隻、護衛艦2隻を派遣しています。

海上幕僚長就任時

これらの活動の総元締め(会社でいうと本社)が海上幕僚監部(市ヶ谷の防衛庁内)というところです。幕僚監部は防衛庁長官を補佐する組織であり陸海空自衛隊がそれぞれ幕僚監部を保有しています。その中の海上幕僚監部の長が海上幕僚長です。

もちろん国民から選ばれた防衛庁長官に部隊を指揮する権限があるわけで、海上幕僚長には、その指揮を補佐する役目があります。海上自衛隊の部隊の指揮、人事、将来の海上防衛力の方向性等について防衛庁長官を補佐する立場にあり、極めて責任の重い配置であります。

海上自衛隊では、潜水艦艦長を2回お勤めとお聞きしております。私たちにはちょっと想像も出来ない世界ですが、艦内の様子、生活などをお聞かせください。

現在海上自衛隊は18隻の潜水艦を保有しています。一隻の乗員数は約70名程度です。一回の航海は1週間から数週間に及ぶ時もあります。

潜水艦「ゆうしお」副長(3等海佐)<当時>

時々お魚さんは見えるのと子供から聞かれることがありますが、残念ながら遊覧船のように水中ガラス窓があるわけではありませんので外は見えません。しかし聴音機を通して色々な魚の音を聞くことはできます。

航海中の楽しみは食事と外に音が出ないようにヘッドホーンを付けてのビデオ鑑賞程度です。そんな中で70名の乗員が3交代で常に艦を運航しています。乗員同士は極めて家族的であり、艦内で喧嘩等のトラブルが生ずることはほとんどありません。

ある時、出港して一週間くらい経った時だったでしょうか、艦内を蝶々が飛んでいるではありませんか。何処から飛んできたのかと艦内では大騒ぎ(話題が少ないから)調べてみると食料用のキャベツに付いていた青虫が孵化していたのでした。しばらくはその話題で艦内は持ち切り。その後その蝶々はどうなったのでしょうか・・・。

私たちは、船といえばクルーズ、クルーズといえば、世界を廻る豪華で優雅な客船をイメージしますが、それでも、悪天候を考えますと「船酔い」に行き着きます。海上自衛官の方は、「船酔い」に無縁の方ばかりでしょうか?

先天的に船酔いに強い人も、弱い人もそんなにいるものではありません。

海上自衛官と言っても普通の人、船酔いはするものです。でも出港して二、三日も揺られるとだいたい慣れるものなのです。

後輩諸君で海上自衛官を希望されて船酔いが心配な方は、是非とも潜水艦を希望して下さい。どんな台風の中でも数十メートル潜ってしまえば、それは静かなものですよ。船酔いしません。

航海中、赤道祭のようなものはやるのですか?
候補生学校卒業式(前から8番目)

潜水艦は、そういう海域まで出ませんが、遠洋練習航海という、防衛大学校を卒業して幹部候補生が1年間職業教育を江田島で受け、それが終わったあとに150日位、各国をまわるときがあります。

その折に、赤道を通るときに、やりますね。まあ、そのときばかりは無礼講といった感じでしょうか。

最近の自衛艦は、世界の各地に派遣されていますが、灼熱の地や、極寒の地での艦船の様子をお聞かせください。

海上自衛隊は現在、テロ対策特別措置法に基づきインド洋に護衛艦2隻と補給艦1隻(8月中旬からは1隻ずつ)を派遣しているほか、練習艦1隻、護衛艦2隻の合計3隻が世界一周の遠洋練習航海に出ております。(9月20日に帰国)

また、南極観測船「しらせ」は毎年11月から4月にかけ、文部科学省が実施する南極観測を支援しております。

南極観測船「しらせ」(提供 http://www.mod.go.jp/JMSDF/

まず灼熱のインド洋では、艦上での最高気温が50度以上にもなり、鉄製の甲板上では、目玉焼きが出来るほどです。
一方、極寒の地たる南極では、冬は最低気温がマイナス40度にまで下がり、想像を絶する寒さになるのですが、意外と知られていないのが、オゾンホールの存在する南極の夏です。
実は「しらせ」が南極にいる12月から3月にかけて、南半球では真夏にあたり、艦外に出る時はサングラスと日焼け止めクリームが欠かせません。唇にUVリップクリームを塗らないで艦外に出て、唇が「たらこ」のように腫れ上がってしまった乗員もいたほどです。

それでは、海上自衛隊での若い頃の様子とかエピソードなどをお聞かせください(成功談・失敗談など)。

失敗談は一杯ありますが、多くは若干専門的な話となりますので・・・。潜水艦に乗り込んで間もない頃の話をひとつだけします。

第22護衛隊司令(1等海佐)<当時>

潜水艦に乗り込むと特別に手当がつきます。それで独身貴族を謳歌していました。
佐世保に艦が入港した時のことです。上陸(外出のこと)が許されて、意気揚々と長崎まで遊びにいきました。深夜まで散々飲んで財布をみると残りはわずか4千円!
もちろん終電も終わっていて、しかたなくタクシーの運転手と交渉して、有り金でいけるところまで行ってくれと・・・。
長崎から途中の西海橋あたりでメーターが4千円となり、そのあとは佐世保まで約3時間近く早朝の道を艦まで歩きました。帰艦時刻(登校時間みたいなもの)にようやく間に合いましたが、独身時代のほろ苦い思い出です。

自衛艦で思い出に残る艦船はございますか?ありましたらお聞かせください。

若干専門的な話しになってしまい恐縮ですが、約10年前のことです。

海上幕僚監部の防衛課長時代(将来を予測し、どの様な艦、航空機を整備していくかを考える中核部署)に今後の情勢を予測し、護衛艦の数を減らし、その代わり、その下支えとなる補給艦等を増やす方向に方針を転換しました。そこで、より大型の補給艦2隻を新たに建造し、補給艦を4隻~5隻体制としました。

13,500トン型補給艦2番艦「おうみ」(海上幕僚監部提供)

そして今年、13,500トン型補給艦の2番艦「おうみ」が完成し5隻体制となりました。これでインド洋での給油活動の負担も少し軽減されました。

もちろん当時は、テロ対策で海上自衛隊がインド洋の給油活動に参加する事態など予想もしていませんでした。しかし時代の流れ(本流)は見失っていなかったと若干自己満足しているところであります。

これからの抱負をお聞かせください。

今年(平成17年/2005年)は日本海海戦100周年の記念すべき年であります。当時、江戸末期の海軍黎明期から数えて50年にも満たない経験の浅い海軍が大国ロシアを相手に戦ったのであります。

横須賀地方総監(海将)<当時>

翻って海上自衛隊は創設50年をすでに超えました。国難があればきちっとした対応ができなくてはならない円熟期に入っていると自覚すべきでありましょう。色々問題は抱えてはいますが、総じて現在の海上自衛官の練度、士気は他国の海軍からも高い評価を受けています。しかし現状に甘んじていてはなりません。

我々が防大に入った時代は艦に乗れば外国に行けるというのが魅力の一つでした。しかし今は飛行機で行こうと思えば世界の何処にでも行ける時代です。また少子化が進む中、誰が好んで親元から離れた海上勤務を選択するでしょうか。

日本は海洋国家であります。しかし、海洋に関する国民の関心が薄れてきているような気がします。海洋国家の国民が海洋に関心を持たなくなってしまったら国が滅びるような気がしてなりません。

元気な若者を長期間洋上で勤務させるためにはそれなりの工夫が必要でもあります。先程述べましたように、今年は日本海海戦100周年の記念すべき年であります。明治の気概に学びつつ、海洋の問題について少しでも国民の皆さんに理解が深まるように努力したいと考えています。

学生時代の思い出は...
小学校、中学校の少年時代はどのようでしたか?

小学校低学年時代は非常に病弱で神経質な子供でした。学校から帰ると疲れたといって横になるという状況でした。
また冬になるとたびたび風邪をひいたことを思い出します。

中学に入って陸上をやるようになってから体も丈夫になってきました。
当時の1年先輩だった石井、根上、後藤、西村さんは、横高陸上部に入部し、横高陸上部全国優勝の原動力になりました。

県立横須賀高校時代の思い出などをお聞かせください。

中学時代から始めた陸上競技を高校に入っても続けました。

横高1年生

顧問の先生は私が2年の時、横高陸上部を全国優勝に導いた本間慎司先生でした。

当時の3年生(1年先輩)には全国級の選手がゴロゴロいる状況で、この様な先輩の中で練習したおかげで、それほど素質のない私でしたが、200mハードルではインターハイ全国大会に出場することができました。

当時を振り返ると、陸上の練習と勉学だけに励んだ極めて真面目な学生だったと思います。
練習が終わって、7時頃帰宅して食事、その後30分の睡眠、8時から12時過ぎまで深夜放送を聴きながら勉強したことを覚えています。
短時間の睡眠で頭をクリアーにする習慣は、その後、海上自衛隊に入ってからも潜水艦の艦長等の勤務に大いに役立ちました。

しかし学科については好き嫌いが激しく、数学、物理はかなりの自信がありましたが、国語、英語は惨憺たるものでした。

思い出に残る先生はいらっしゃいますか?

思い出に残るといえば、本間先生と、同じクラスで3年間もちあがりですから担任の、数学の先生で鉄仮面というあだ名の大川先生。お顔を見たら、そのまま鉄仮面という感じなので、これはとんでもないクラスに来たなと思いましたが、ところがすごく心優しい方なんですよ。ニーっと笑うとなんとも。

横高2年生(走幅跳競技)

私はどちらかというと数学はまかせろというほうでしたので、先生から比較的かわいがってもらったという印象があります。

あとは陸上をやってましたので本間先生。

当時まだビデオがありませんでしたから、8ミリ映写機で撮ったものを見せていただいたのをよく覚えてますね。
私は幅跳びを最初やっていたので、ソ連の選手や東京オリンピックの国立競技場で跳んでるのを本間先生が撮って来られて、それを鑑賞会というか、当時の先生のアパートへ行って、何回も踏み切るところのイメージトレーニングをしました。

それでは次に、防衛大学校を志望した経緯、動機をお聞かせください。

私の親父は横中を卒業し海軍機関学校に入り、終戦後も海上自衛隊に奉職した人間です。祖父は福島から海軍の水兵として横須賀に移り住んだ人間であります。
したがって、私は海軍3代目ということになります。

今でこそ抵抗はなくなりましたが、当時は学生運動華やかな頃であり、自衛隊に入ることに関して世の中では「え?何故」という風潮でありました。
私自身は親父の影響もあり、抵抗もなく防大を選択したというところです。

防衛大学校時代についてもお聞かせください。(陸上競技は続けられたのですか?)

当初、防大では陸上をやるつもりはありませんでした。好きな物理の勉強をゆっくりやりたかったのですが、防大の実態は懸け離れていました。そんなこんなあり、4年生からの強力な勧誘もあり、入部せざるを得なくなりました。

防大1年生(100m競技)

学生生活はもちろん全寮制ですから、1年生の時は特に慣れていないせいもあって、朝から時間に追われる日々でした。しかし防大の陸上部は全般にレベルが低かったこともあり、1年生から結構幅をきかせることができ、クラブ活動においては息を抜くことができたというところでした。

中学時代から幅跳びを始めて、高校、大学と性懲りもなく通算10年間続け、なんとか7mは超したいと思っていましたが、かないませんでした。防大3年の頃には、練習では7m近く跳んでいたのですが、残念ながら公式記録は6m55cmでありました。今でこそ見なくなりましたが、40才頃までは7mを超える空中遊泳の夢を時々見ていました。

その学生生活ぶりというのはどんなものだったのですか?

たとえば夏ですと、朝6時に起床してすぐ整列して点呼で、それから体操して、そのあとすぐ掃除です。
7時に食事、食事から帰ったら制服に着替えて、8時に整列、行進して教場へ行って9時から12時くらい授業ですが、6時から8時までワンフレーズ終わってますから、もう教室に着いたとたんに寝ることしか・・・私はまあ寝なかったですけれども。

防大4年生(学生隊長時)

12時で食事ですが順番が回ってくると配食もやらないといけない。
1時から3時の授業が済んで3時半頃から6時くらいがクラブでしょうか。
風呂に入って食事で、風呂も運動後に他のクラブも入るもんですから、まあ毎日掃除はしてあってもドロドロだったり、最後の方だと少ししか浴槽に湯がなかったりなんてこともありましたね。
食事が終わってまた掃除をして、8時くらいから10時11時くらいまでやっと自習時間がもてるという感じです。

よく時間がないから勉強ができないと言いますが、時間があったって、やらない奴はやらないんですよ。
3時間くらいは予復習出来る時間があるわけですが、あるからと思っていると、意外に次やればいいやとやらないもので、結局はやれてるんですが、最初の頃は、これが365日ということで、とんでもなくカルチャーショックでした。
生活では古参の4年生には、やり方とか要領とか、かなわないわけで、運動をはじめ優位に立てるものをもつと自信がついてくるものですね。

横須賀高校の現役生へのメッセージをお願いします。

戦前、横中は海軍兵学校、機関学校、経理学校の予備校といわれていた時代もありました。横須賀には海軍鎮守府、そして大きな海軍工廠があり多くの海軍の師弟が在住していた関係もあったのでしょう。

海上自衛隊幕僚長室で

しかし鹿児島、岩手等が多くの大将を輩出しているのに、横須賀からはその割には将星が生まれていません。

振り返って現在の海上自衛隊を見てみますと、かなりの横高出身者が重要な配置を占めています。なにもこれは私が海上幕僚長だからということではありません。

自由闊達な横高教育、そして時には厳しい体育の授業等々、これらから培ったバランス感覚(知育、徳育、体育のバランス)が、海上自衛隊の風土にあっているのではないかと考える今日この頃です。

「後輩諸君、日本は海洋国家です。海洋の安定的利用が日本の繁栄に繋がります。志ある者は、来たれ海上自衛隊へ!」

<参考>海上自衛隊のURLは、http://www.mod.go.jp/JMSDF/ です。
(注)2007/1/9 防衛省昇格によりURL変更しました。 (2007/1/21)
 
横須賀高校陸上競技部時代の恩師
  
本間愼司先生からのお祝いメッセージです。
本間先生近影

高18期の齋藤隆君の海上幕僚長御就任おめでとう御座います。

この事は朋友会会員の皆様方どなたも、きっと、お喜びくださっているものと思います。

御本人は勿論、朋友会会員の皆様おめでとうございます。心からお祝い申し上げます。

彼は、池上中学校の頃から陸上競技を始め短距離と走り幅跳びを中心に練習をしていた様でありますが、昭和38年横須賀高等学校に入学して参りました。

その頃、一学年上に池上中学の先輩にあたる、石井 満・後藤和夫・西村隆夫・根上 進・(田浦中学)から大森哲夫・(三崎中学)から三上賢司・(坂本中学)から田村泰雄・(不入斗中学)から川浦健作達が居て、翌昭和39年の大阪での全国インターハイに優勝すると言う猛者が揃って居りましたが、彼は何に臆する事も無く、自然に陸上部に入って参りました。やや小柄で目立つ方ではありませんでしたが、中学時代と同じく短距離・走り幅跳びを中心に練習を続けておりました。彼はいつも明るく、礼儀正しく、真面目で、練習にも真剣に取り組んでおり、大柄な陸上部員の中に在って、人の倍以上の努力をしておりました。

2年の時の県大会では、走り幅跳びで第4位に入賞し、また、その年の大阪インターハイには、選手ではありませんでしたがマネージャー兼選手と監督との使い走りとして活躍をして頂きました。2年生の秋頃から、やや小柄なのに、200mハードルの練習も始め、その翌年3年生になっては、県大会で200mハードル優勝、走り幅跳びはやや不調で第5位、そして一人400mづつ走る4×400mリレーの第一走者としてトップでバトンを渡すと言う大奮闘をいたしました。200mハードルでは関東大会も通過し全国インターハイにまで進出致しましたが、力及ばず決勝進出はなりませんでした。何事にも一途に突き進んでゆく当時の彼の姿は、今でも私の瞼に浮かんで参ります。そして、翌年卒業と同時に憧れの防衛大学へと進んで参りました。

彼は、防衛大学に入学するや、その明るく、礼儀正しく真面目で、何事にも真剣に真っ直ぐに取り組んでゆく姿勢は、やがて大学の先生方・自衛官の方々・防衛庁の方々から高く評価されていたのではないかと思います。

どうか健康に十分留意されて大任を無事全うされます事を心から祈念致します。そして、神奈川県立横須賀高等学校の益々の発展と、拡大の環が広がり続ける朋友会の結束の絆が益々強くなります事を祈念致しまして筆を置かせて頂きます。

拙い一文で御座いましたが、これを私に依頼して下さった、高10期の饗場元二さんに深く感謝致します。有難う御座いました。

昭和26年~昭和60年 陸上競技部 顧問

本間 愼司

取材後記
翌日から夏休みという7月20日、全校集会を終え、クラスで大掃除とホームルームを済ませ、あわただしく市ヶ谷へ向かいました。
防衛庁の入口は、さすがに警戒厳重という雰囲気でしたが、まずは海幕長副官の方にお出迎えいただき、また広報担当の方の案内で、市ヶ谷記念館各所を見学しました。この記念館は、三島由紀夫事件や極東軍事裁判の法廷として使われたことで有名な建物の主要部分を移設、復元したもので興味深くもありました。
朋友会の元文会長、陸上部のOB会(記恩ヶ丘走友会)から三澤名誉会長、そしてHP委員会の里見委員長に率いられての緊張した初取材となりました。
齋藤さんのお話をうかがいながら、後進の育成に思いを致すことは、将来のためにすべての分野で共通なものを感じました。

(高31期 岡花記)

左から、里見 三澤(走友会) 齋藤 元文 岡花(敬称略)

いささかの緊張の中で訪れた防衛庁、精悍な笑顔で迎えてくださいましたのは、2人の横須賀高校OBでした。
海上幕僚長(海将)の齋藤 隆さんと、海上幕僚副長(海将)の荒川堯一さんでした。海上自衛隊のトップ2つのポストを同窓生が担われるという偶然に驚かされました。
また、海上自衛隊の他の重要ポストでも、多くの横須賀高校OBがご活躍中とのことでした。海の安全が同窓生に任されているような想いの中での取材となりました。

(高9期・里見記)

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