神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】西 岡 淳 さん(高26期)
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(取材日:2005年1月22日)
プロフィール
昭和46年 逗子市立逗子中学校卒業
昭和49年 神奈川県立横須賀高校卒業
昭和53年 外務公務員上級試験合格
昭和54年 東京外国語大学外国語学部仏語学科卒
昭和54年 外務省入省
昭和57年 在アルジェリア大使館三等書記官
昭和61年 通訳担当官(仏語)
外務大臣、内閣総理大臣等の通訳を務める
昭和64年 経済協力局開発協力課首席事務官
平成 3年 OECD代表部一等書記官
平成 6年 外務審議官企画官
平成 7年 海外経済協力基金
業務第一部業務第二課長
平成 9年 宮内庁御用掛
天皇陛下の仏語通訳を務める
平成11年 在インド大使館参事官
平成13年 在仏大使館参事官、
次いで公使(広報文化センター所長)
平成15年 内閣府国際平和協力本部事務局参事官
平成16年 独立行政法人日本学生支援機構
留学生事業部長
最初に、現在のお仕事について、ご説明をお願いいたします
一昨年の8月まで、パリの日本大使館の公使を勤めていました。

帰国後は、1年間、内閣府の国際平和協力本部事務局で日本の国連PKO活動に関する仕事を担当しました。

現在は、独立行政法人 日本学生支援機構というところで、日本の留学生事業全体を所掌しています。
中曽根内閣当時に打ち出された留学生受け入れ10万人計画が一昨年達成されたことを受けて、社会環境の変化を踏まえた新たな留学生政策の必要性が指摘されていますが、私なりに模索しているところです。

外交官になられた経緯・動機をお聞かせください
(1) 何時ごろ(高校時代、大学時代)から、志を持たれましたか?
大学2年生の頃、将来の進路について悩んでいた時、知人から外交官試験を受けることを勧められたことが、きっかけです。
(2) 小学校、中学校の少年時代どのようでしたか?
父親の職業の関係で、転校を繰り返していました。友達ができても、すぐに別れてしまうのが、辛かったことが、今でも思い出されます。
北海道から逗子中に転校してきたのが、中2の2学期でした。逗子中から横高に進学しました。
(3) 語学がお好きだったのでしょうか?
海外に目をむけられたからでしょうか? 理由をお聞かせください
語学に対しては、色々な言葉を理解してみたいという興味はありましたが、中学・高校の英語の成績は人並みです。
歴史が大好きだったので、世界史の舞台となった場所に、何時かは行ってみたいと思っていました。
赴任地の印象をお聞かせください
(1) 初めての赴任地(アルジェリア?)では、
どのような想いで任務を遂行なさいましたか?
赴任直前にパリで結婚式を挙げ、新婚で参りました。当時の在アルジェリアの大使館は、規 
最初の赴任地アルジェリアでの身分証明書
模も小さく、一人で何役もこなす必要がありました。
大使が不在の時には、臨時代理大使も務めました。御陰で在外公館の全体の機能をよく理解することができ、その後の仕事を進める上で大いに役立ちました。
また、生活環境も厳しい所でしたので、開発途上国で暮らしていくための、良い訓練になったように思います。
(2) いままでの任地で、何処の国が一番印象に残られましたか。
その理由もお聞かせください
パリの日本大使館公邸で

どの国も、夫々深く印象付けられました。

その中でも、フランスには、研修も含めると3回在勤し、通算8年余り生活しましたので、友人も多く、関係は一番深いといえます。

アルジェリアもインドも好きですね。

(3) 成功談、失敗談などエピソードをお聞かせください
成功談といえるかどうかは解りませんが、一昨年のエヴィアンサミットを無事に終えられたことでしょうか。
先輩の小泉総理(高12期)とパリのプレスセンターにて

小泉総理は、私の任期中3回訪仏されましたが、フランス政府からは、その都度大歓迎を受けました。エヴィアンサミットの時も、参加首脳の中で、一番最後までフランスにとどまられたので、一般のフランス人も、小泉総理にはとても良い印象をもっています。私もプレス担当として、訪問のお手伝いを致しました。

失敗談はきりがない位沢山ありますので、どうか御容赦頂ければと思います。

外国から日本をご覧になって、感じられたことをお聞かせください
まず、日本からの情報発信が少ないことです。未だに、日本についての偏った報道がなされるのは問題です。外国語による情報の量を格段に増加させる必要があります。
また、現代は、飛躍的に国際社会との関係が深まっています。国際競争も厳しくなっています。その中で勝ち残っていくためには、日本国内で通用するルールが世界でも通用する訳ではないということを、肝に銘じていなくてはならないと思います。
今の日本が享受している平和で豊かな日常生活が、当然のものとしてこれからも続いていくという保障はありません。この点を一人一人が良く認識して、世界的視野に立って物を考え、行動していくことが必要だと思います。
天皇陛下や総理大臣の通訳(仏語)をなさいます時は、
プレッシャーも大きいことと思われますが、
どのような想いで任務を遂行なさいましたか?
余りプレッシャーを感じたことはありませんが、鈍感なせいでしょうか。通訳としては、相互に誤解が生じないよう常に注意し、必要があれば、言葉を補うなどの配慮を心がけています。
どんな場合でも、事前の周到な準備が重要ですね。重要な会談の場合ですと、歴史の瞬間に立ち会っている興奮感を覚えます。
漠然とした質問になりますが、外交官の果たす(果たしている)お役目について、
国家や外務省の建前ではない、個人的な想いもお聞かせいただけますか?
日韓ワールドカップに因んだ
子供サッカー大会で(フランス公使として)
人、物、資金が国境を越えて動き回るグローバライゼーションの時代を迎えていますが、主権国家を主体とする国際関係の仕組みは、変更されていません。

国家間の関係を調整する上で、政府首脳や閣僚が直接相手側と交渉するケースは増加していますが、そこに至るプロセスで、実務家である外交官の交渉の手腕や資質、そして判断というものが、依然として重要な役割を果たしているのではないでしょうか。

横須賀高校在学中のことをお尋ねいたします
印象に残られたエピソード(部活、思い出、教わった先生、等々)を
お聞かせください
横高山岳部で、南アルプスに登頂
(高校1年生)

1、2年生の時は山岳部に所属していました。その頃は、部活が生活の中心を占めていました。1年の夏休みは、南アルプスを縦走しました。途中、雨に降られ、我々は既にテントを張り終わっていたので、難を避けることができましたが、後続のパーティーでは、肺炎を起こした部員が出たと聞きました。週末はもっぱら丹沢に行っていました。

体育祭も一生懸命やりましたが、1年生の時には応援でドジョウすくいをやって、みんなから大笑いされたりしました。

2年生の後半からは、一転して内向的になり、文学書や哲学書を学校の図書館で読み耽るようになりました。

横須賀高校1年生東北地方への修学旅行
授業そっちのけで、そんなことばかりしていたものですから、成績も試験の度毎に、大きく上下するので、担任の西脇先生(故人)には、色々ご心配をお掛けしました。
西脇先生はとても温厚な方で、私に対しても決して怒らず、諭してくださいました。無事に横高を卒業できたのも、西脇先生の御陰だと感謝しています。先生の存命中にお礼が申し上げられなかったのが、本当に悔やまれます。
現在は、多くの人々が世界中で活躍をして、
国境が無くなりつつあるような想いにかられますが、
これから、世界へ羽ばたくことを準備中の後輩へ、メッセージをお願いします。
外国語に堪能になるための、秘訣とかはあるのでしょうか?
やはり勉強するしかないのでしょうね。
外国語の習得は必須だと思いますが、外国語の習得を通じて、その国の文化や、人々の物の考え方についての理解を広げられることも、一層重要です。相手のことを本当に理解せずに、既成観念に依ったり、独りよがりの言動を行うことは避けなければなりません。
また、自分自身に対する自信や気迫といったものが欠けていれば、どこの国の人にも伍してはいけないでしょう。自分が日本人であることに誇りをもって、自己の能力と人間性を磨くことが重要だと、私自身、自分に言い聞かせています。
知的な訓練の場として、又、日本人としての胆力を練り上げる場所として、横高は最高の学校だと思います。どうか皆さん頑張って下さい。
西岡さんのこれからの抱負をお聞かせください
(1) 混沌とした世界情勢をどのような想いでご覧になっていらっしゃいますか?
国際テロリズムや地球環境問題のような人類全体が直面する問題が、とても心配です。自分の子や孫に、一層平和で豊かな社会を引き継いでもらえるように頑張りたいと思います。日本は日本なりのやり方で、信念をもって、世界がこれらの問題に対処するために、リーダーシップを果たしていかなければならないと考えています。
横高から、外務省に入られた大先輩に、高校3期の西山健彦大使がおられます。欧亜局長、アルジェリア大使、EU大使等を歴任され、今から13年前、58歳の若さで、道半ばにして病に倒れられました。私は外務省に入ってから、何度か直接お話を聞く機会がありましたが、素晴らしい才能に恵まれた非凡な方でした。
私は、後に続く者として、西山大使がやり残したと思っておられた事が何であったのかに考えを巡らし乍ら、日本外交に携わっていきたいと考えています。
(2) 全世界から、争いがなくなることは未来永劫に望めないことでしょうか?
現在、起きている紛争を見ると、政治的な対立だけではなく、人種や民族、宗教といった要素が複雑に絡んでいます。それだけ紛争の根は深く、容易には解決できない性格のものであるといえます。貧困や教育の問題、あるいは民主主義的価値観の受容度の違いといった深刻な問題が、そこには横たわっています。
こうした紛争の原因を除去するには、万能薬や特効薬は無いように思います。息長く一つ一つの問題と対峙して、忍耐強く解決策を見出していくやり方しか、無いように思われます。このような努力を続けていく上で、世論の果たす役割は、特に重要だと思います。
日本はこれまで、国際社会から様々な恩恵を受けて、現在の繁栄を築いてきました。これからも平和国家として、世界に対する責務を、一層果たしていかなければならないと思うのです。
親友からのメッセージ
<中学・高校時代>
西岡淳君との付き合いは、今から36年前に、私が在学していた逗子中学校に西岡君が北海道から転校してきた時から始まりました。特に中学3年生の時は同級で、そのクラスから横須賀高校に進学したのが西岡君と私だけでしたので、高校ではクラスは違いましたが、今日まで親しくお付き合いをさせて頂いております。
中学・高校時代の彼は、普段はガリ勉タイプではないのですが、定期試験や受験前になると、超人的勉強量で好成績をあげてしまうところに非凡さを感じていました。
一方で、語学があまり得意でない私を含む学友に、高度な読解技法を披露してくれる心の広い人でした。また、我々の中学・高校時代はラジオの深夜放送全盛期でしたが、文章力とウィットに富む彼の投稿葉書がラジオでよく採りあげられていた事を思い出します。
平成17年朋友会新年懇親会で
同期の山崎正幸さんと後藤一也(現横高PTA会長)さん
取材の里見・饗場も一緒に

<大学時代>
フランス文学に造詣が深く、フランス語が得意な西岡君は仏文学者になるのかなと思っていたら、外交官になりたいので代表的な法律書と勉強方法をアドバイスしてくれとの手紙を大学2年生の時に頂きました。西岡君にアドバイス出来る程勉強していたわけでもない私は、若干焦りましたが、先輩の大学院生や司法修習生にお聞きして返答したのも今となっては懐かしい思い出です。
2年後、外交官試験に合格しましたという電話を頂いた時は大変ビックリいたしましたが、横須賀高校の卒業生ですらあまり合格者のいない試験に中学時代からの友人が合格したことは大きな喜びでもありました。

<大学卒業後>
外務省に入省後は4~5年位のサイクルで在外と日本とで勤務なさっていらっしゃるので、年賀状やたまに電話で近況報告のやりとりをする位の関係が続いていました。
ここ数年は何度かお会いしていますが、きっかけは朋友会です。私は平成15年度の新年懇親会に出席させて頂きました。その様子を西岡君にお話させて頂いたら、大変懐かしいので是非会いたいし、朋友会にも出席したいとの事で、その後は朋友会総会や新年懇親会に出させて頂き、同時に彼との旧交を深めている次第です。
最後に、私事ですが行政書士業の傍ら、専門学校で憲法や国際政治の講義も担当しております。従いまして、現実の国際社会で活躍してきた畏友がいる事を大変心強く思っております。外交官の仕事は大変激務だとお聞きしています。
健康に留意されて、これからも国際舞台で活躍されることを祈念しております。

高校26期 山崎正幸

取材後記
物静かで、スマートな西岡さんにお会いして感じたことは、強烈なバイタリティです。何事も、やると時はやる! そんな強いオーラを感じました。外交官は大変なお仕事だと伺いましたが、これからも国際舞台での、益々のご活躍を期待致しております。

(高10期・饗場記)

これから、世界に羽ばたこうとする方々に、お役にたっていただけると信じて若い世代の外交官にご登場いただきました。お怪我のために、暫くの間、日本で過ごされることになられた時期に取材をさせていただきました。
西岡さんにはアンラッキーなこと(ご多忙な中、取材時間を割愛いただきまして)でしたが、取材側には、大変ラッキーなことになりました。
凛として、たおやかな見えないコートを上手に着こなされて、穏やかに優しく対応してくださるお姿に、日本の外交官としての信頼と未来を託させていただきました。同窓生であることを誇りに想いながら...。

(高9期・里見記)

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