神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】和 地 孝 さん(高6期)
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(取材日:2004年1月17日)
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プロフィール

昭和29年3月 神奈川県立横須賀高等学校卒業

昭和34年3月 横浜国立大学経済学部卒業

昭和34年4月 株式会社富士銀行入行

昭和63年6月 同 行 取締役

平成元年12月 テルモ株式会社常務取締役

平成5年4月 同 社 代表取締役専務

平成6年6月 同 社 代表取締役副社長

平成7年6月 同 社 代表取締役社長

平成16年6月 同 社 代表取締役会長兼CEO

現在 葉山町に在住
現在までの経緯は...
横浜国大卒業時、ゼミの黒澤 清教授の勧めで金融業界を就職先として選び、富士銀行に入行した。国内部門で3ケ所ほど支店勤務後、本店に戻った。銀行員生活の3分の2が国内部門、3分の1が国際部門で、当時、国内と国際部門の両方を経験した人は非常に少なかった。

44歳の時、ハーバードのビジネススクールへの留学を命ぜられ、3ケ月間学ぶ。その間は部屋へ帰って来ても山ほどケーススタディが積み上げてあって、物凄い勉強量であった。
やっと3ケ月の厳しかった勉強も終わり、やれやれこれで日本に帰れると思ったら、「帰るに及ばず」との事、そのままニューヨーク支店勤務を命ぜられる。
ビジネススクールでは、160人位の人達と一緒に学んだ。日本人も7~8人いたが、彼らは日本に帰りのんびりと温泉に入り、ラーメンでも食べているのか思うと悔しい思いだった。

ニューヨーク支店には副支店長として6年弱勤務した。支店のあった場所は、あの同時多発テロの対象となったワールドセンターにあった。ワールドセンターの建物は I と II があり、当時、私のいた支店は I の80階にあった。私が帰国した後 II の82階に移ったが、いずれにしても、事件後は跡形もなかった。 当時若かった人達も、その後出世したが、その中に、事件に際して、行員皆を避難させ、自分は最後まで残ってテロの犠牲となった人がいる事は、優秀な人材だけに非常に残念であるとともにつらい思いである。
当時のニューヨークでは商社を除き、多くの日本企業が拠点を持っていなかったので、日本から来られた経営者の対応は、銀行が案内や食事の面倒を見る事が多かった。

ハーバードの経験で、英語をうまく話せなくても外国人に対しての恐怖感がなくなった。
この時の経験が役に立ち、現在中国等どこの国へも現地語が話せなくても平気で出かけている。6年弱のニューヨーク支店勤務を終え本店に戻った。

<転機>
平成元年にテルモ(株)へ入社。
テルモのメインバンクが当時の富士銀行と三菱銀行、三菱信託銀行であり、3行から役員人材が招聘された。海外経験もあるという事で、私がテルモへ派遣された。常務、専務、副社長を経験し、平成7年に社長に就任し、現在9期目である。
テルモとはどの様な会社ですか ?
社名の由来はドイツ語の「THERMOMETER(体温計)」から来ている。カタカナの社名の為、よく外資系の会社と間違えられるが、純粋に日本の会社である。
社長室で


日本では第一次世界大戦の影響を受け、海外からの体温計の輸入が途絶えた。北里柴三郎博士をはじめとした医学者が発起人とり、優秀な体温計の国産化を目指して、1921年に「赤線検温器株式会社」を設立したのが始まりで、その後数度の社名変更により現在の「テルモ」となった。

このように体温計の製造から始まったテルモも現在は様々な医療機器・医薬品を世界150ケ国以上に供給する企業に成長した。主に病院等の医療機関を対象として、多様な医療機器や医薬品を製造販売している。たとえば、電子体温計、医療事故防止に役立つ薬剤充填済注射器(プレフィルドシリンジ)、詰まった心臓の血管を広げて血流を回復させるカテーテル、痛みが少なく短時間で測れる血糖測定システム、腕を通すだけで簡単に測れるアームイン血圧計、点滴剤、血液バッグ、腹膜透析関連、ME機器など。

特に以前の注射器はガラス製で針を交換せずに何人にも使用していたので、完全な滅菌消毒が出来ず、病原菌に感染し、その人の一生を台無しにする事故等が発生していた。そのような事故をなくす為に、使い捨ての注射器の開発に取り組み成功させた。普及まで10年位掛かったが現在ではこの分野では60%を超えるシェアーを占めている。
また旧来の体温計は、水銀を使用していたが、人や環境に対する影響に配慮して、いち早く電子体温計を開発し、水銀体温計に代わり主流を占めることとなった。

最近では、「磁気浮上方式(リニア方式)」という新しいコンセプトを持った左心補助人工心臓を開発し、ヨーロッパで臨床試験を開始した。
会社経営に対する考え方取り組み方は...
<経営危機>
私がテルモに入社した当時は、26年間同じ人が社長だったことからか、社内の体質は上をみて仕事をすると言う風潮で活気がなく、会社自体も連結決算3期連続赤字という大変厳しい状態であった。しかも社内には危機感というものが全く無かった。このままでは大変な事になるとの思いから、社長就任後どの様に改革をしたらいいのかを考えた。

<風土改革への取り組み>
この指示待ち体質、内向きの体質を変革することが最重要と考え、国内で4,800人位の社員全員を対象に、全国の営業所・工場へ足を伸ばし、社員一人一人に直接語りかける事を始めた。
たとえば工場の中には、今まで工場長も行ったことの無いような工場廃水処理場で汚水処理に1人で取り組んでいる社員もいるし、地方の3~4人しか居ない営業の出張所もあるが、そのような所へも積極的に出かけて話をした。今でも社員一人一人への語りかけは続いており、社内で私と話した事の無い社員は1人もいない。
社員と語り合う...

研究開発・生産・営業・本社部門全てに、経営幹部の間に壁があり、経営に関しての認識がバラバラの状態であった。営業部門では研究開発部門でどの様な製品開発を行っているのかが分からず、顧客のニーズに応えられなかったことが多かった。
一方、研究開発部門と生産現場との連携も悪く、コスト面に対する認識も薄かった。縦の関連を重視し、まるで別会社のように各部門が完全に分かれていた。

経営合宿を行なうこととして、先ず幹部を、その後中堅層を集め、私の経営に対する取り組みについての考えを話した。合宿では、経営の勉強の他に座禅なども行ない、夜は参加者同士の懇親を深める為、私は参加者一人一人と酒を酌み交わしながら語り合った。この方法は、中堅層に特に効果があったようだ。参加者が家に帰って、家族に社長と一対一で酒を飲んだ事を話すと、家族は非常に驚くと同時に感激をしたそうだ。

一般の社員に対しては別の方法をとった。会社の創立75周年に「ふじ丸」を借り、会社全部門から「有言実行」キャンペーンで業績を上げた社員600人ほどを招待し、
 
「飛鳥」船上で
船上で表彰式やイベント等を行なった。研究開発・生産・営業・本社のプライドをもった社員が縦の枠を越えて、仕事に対する話し合いを真剣に行うことにより、お互いに刺激されやる気を起こす結果となった。会社の現状を把握し危機感を感じ取り改革をしなければならないとの意識に目覚め、各自職場に戻り改革に取り組んだ。この運動は彼らを中心として全世界に広がった。80周年のときも「飛鳥」を借り、75周年と同じような行事を行い、社員の意識を高める事に成功した。

私は社員一人一人に話かけたことによって、皆が意識を高め、目覚めたことが現在の高収益につながる要因だと思っている。いくら立派な言葉を並べても、受ける方が本気で受けとめなければ駄目である。銀行時代に取引先で社風が気になった3社を反面教師として、テルモの経営改革に取り組んだ。参考にした3社とも名門老舗であったが、共通して社員のモラルが低く、名前に甘えた体質であった。3社のうち2社は倒産、1社は吸収された。

<社員の心に火を点ける>
テルモも医療保険制度によりガードされているせいか、経営に対して甘い考えをもった体質であった。社員が本気にならない限り、社長がいくら立派なことを言っても無駄だということが分っていたので、そのためには、副社長や専務でなく社長が直接動かねば駄目である。
私は社員一人一人との対話により、社員も私の考えを理解し本気になったことで、今日のテルモがあるのだと思う。社員の心に火を点けることが大事である。
特に気をつけなければならないのは、現場を回って同じ質問が3回出たら、すぐに取り上げなければならない。そういった質問は役員会ではなかなか出てこない。たとえ出ても、実際に数字として結果が表れてからであり、その時ではもう遅く対応出来ない。社員の眼の輝きをみれば店の状態が分かる。良い拠点の社員の眼は輝いている。
これらを見極める為にも現場に出て話すことが最良の方法ではないか。云ってみれば、社長は足で考える体力勝負であり社長室にいたのでは駄目である。

<人を軸とした経営>
現在多くの企業が成果主義を取り入れているが、一定の効果はあると思うが、必ずしも手放しで賛成ではない。私は「人は財産でありコストではない」と言い続けている。エリートになるとある程度要領がよく、失敗もないが、無理もしないからそれ以上に伸びもない。
自らが努力しなければ、この財産は目減りしてしまう。自分で頑張れば含み資産が出る。努力して含み資産を増やす事が、人生においても仕事においても大事な事であると云い続けている。
今後の課題は?
<医療機器の貢献>
医療の進歩は早い。一昔前は医療というと「薬」中心であったが、今ではむしろ医療機器と薬をドッキングすることが、患者のQOLにとっても医療経済性の面からも有用であることが認められてきた。

良い例が心筋梗塞の場合、以前だと一ヶ月位入院して開腹(胸)手術したが、現在ではカテーテルの使用により2~3日で済んでしまう。患者さんの体力的な負担も、医療費もはるかに小さい。ただし、カテーテルなどの先進的な医療に使われる医療機器は、開発競争が激しい。

医療行為がパテント化する方向にあるのが懸念材料の一つ。今後どの様に対応するか考えなければならない。

<社会への貢献>
会社としては、医療の安全と環境の調和を目指して取り組んでいる。人々の健康に関わる企業として、生産における廃棄物や有害物質の削減、自家発電施設による省エネルギー化、医療現場からの医療廃棄物を削減するための製品の小型化・肉薄化や包装の簡略化や有害物質を出さず焼却できる製品の開発等、地味だが一歩ずつ「医療を通じて社会に貢献する」という企業理念のもと環境へ取り組んでいる。

少子高齢化が進んでいるので、患者の肉体的・経済的負担が少ない治療器具や医療費抑制に寄与する医療器具・システムを中心にした事業展開、また、医療の安全と効率化に寄与するプレフィルドシリンジ(薬剤が充填された注射器)を製薬会社と提携して商品化するなど、新しい事業展開も進めている。また在宅医療分野も事業を強化し、在宅での医療のすべてが揃う「生活医療」の実現を目指している。
横高時代は?  思い出のある恩師は?
我々6期は男女共学になって2期目で女子が少なく、8クラスの内半分の4クラスが男女クラスだった。1年生の時は男女クラスであった。この時は新鮮で楽しかった。 
学校の裏山で
2年に2年になった時クラス替えがあり、3年まで男だけとなり殺風景なクラスだった。

模擬テストが終わると、職員室の前の廊下に成績順に貼り出され、競争意識を刺激されたことが思い出される。

プールは工事中で使えなかった。古い講堂で芸大の先輩のピアノ演奏を聴いたり、円覚寺の朝比奈管長の講話が印象に残っている。裏山(現在のグランド)へ行って時間を過ごしたりしたことなども楽しい思い出である。

部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。

部活としては、数学部に入っていて、顧問は大川先生だった(?)。部員も結構多く楽しかった。

<恩師の思い出>
国語の石渡先生は黒パンといって、担任でもあり、印象深い先生であった。卒業してからも黒パン会として、伊豆のかつらぎ山のハイキング・美ヶ原高原のキャンプへ行ったことが思い出される。黒パン会は何年間か続いたが立ち消えとなってしまった。
修学旅行の折に

体育の本間先生は、我々の入学した時、初めて教職に就かれたので、色々と思い出も多く、現在でも6期全体として交流が続いている。その他、英語の小島先生、国語の志賀先生、数学の高橋先生等が思い出のある先生方である。

ある時、音楽の青山(五十嵐)先生に、「貴方は声が良いから本格的に声楽をやらないか」と勧められたことがあったが、当時は音楽にあまり興味がなかったので、その道には進まなかった。

テルモの研究開発などで、発想を変えることが大切だが、当時の生物の勉強が大変役立っている。そのものに精通するとかえって既成観念に拘って、考えが固まってしまうことが多い。素人の方が柔軟な考え方で思わぬものを見つける。横高時代に金田先生のお陰で生物に興味を持ったことが現在の仕事に大いに役立っていることで、金田先生には感謝している。

忘れられないのは、卒業式での中川校長の言葉である。「人のやらないことをやれ」と言われた。経営でも同じことが言える。特に新製品の開発においては人と同じことをやっていては駄目で、オンリーワンを目指さなければならない。この一言は今でも忘れない。
横高生に望むことは?
自分の個性を磨くことが大事。

学校で教えられたから、マスコミがこう言っているから、誰かがこう言っているからでは、この変化の激しい世の中では振り回されてしまう。自分で考えるというトレーニングをしておかないと、これからの人生は生き抜いていけない。

世の中がグローバル化しているだけに、むしろ日本の文化・歴史を勉強しておかないと対応出来ない。多くの日本人は日本の文化・歴史について知らなすぎる。外国人と話す時に、経済成長率がどうの、経済政策がどうだとか話すことも大切だが、自分の国に対する誇りや知識がないと底が浅い話になってしまう。

今、中国に二つの工場があるが、中国のトップと付き合うときは政治・経済の話は一切しない。たとえ話したとしても国家主席と同じ内容の答えが返ってくる。工場のある浙江省というのは南宋の首都で、日本との交流が深く、民度は官吏登用試験で一目置かれているほど水準が高かったことなど、歴史と文化の話をすると物凄く打ち解けて尊敬してくれる。
ところが、日本の人達は経済の話、ビジネスの話しか出来ない人が多く、中国の人と歴史や文化についてまともに話せる人がいない。特に中国では食事の時は取引の話をしないことがマナーである。日本人は取引の話をしてしまうためレベルを低くみられてしまう。

受験勉強用でなく、興味を持って歴史を勉強する事が大事。歴史はちゃんと勉強して置かないと、時代の流れを考える上でも、海外とのビジネスを進める上でも、必要となる非常に大切な事である。

又、横高は武骨な所が良い。かっての横高はどちらかと言うと骨っぽい面が有り、小泉総理や小柴先生が出たのではないか。
これからも武骨な所を保ち、歴史を勉強し、社会に役立つ人となって欲しい。
自分の殻に閉じこもらず、常に一流の人、一流の文化に触れる努力をする必要がある。
取材後記
同期の元文会長・石井(春)副会長と歓談する和地さん(左端)
今回の取材には、和地氏と同期の元文会長、石井(春)副会長が同席され和やかな中、横高時代の思い出話に花を咲かせました。

会食時和地氏の話によると、テルモの研究所が東名高速秦野中井IC傍に建設されたその2年程後に、日野原重明先生の関係するホスピスが近所に建設されたそうです。ホームを訪れると真正面に富士山が見えるのだが、テルモの研究所の建物が邪魔をしている。入居している人達に申し訳ないとの考えから、毎年クリスマスの時期に建物にイルミネーションを施し花火を打ち上げたら大変喜ばれたとのことでした。企業も自己の利益のみ追求しているのではなく、社会にどの様にして還元するのかを考える時代だなと改めて考えさせられました。

話の中で社長は体力勝負と話されたが、実際は体育会系ではないので、普通の体格であ
るが社員の一人一人と酒を酌み交わす体力は何処から出てくるのか。また地球規模でのご 
取材陣も加わり記念撮影
活躍など、普段から健康には十分留意されているのではと思いました。

経営改革にあたり、成功するには社員にやる気を持たせる事が如何に大事なことかが痛感させられもしたが、これはどの分野でもおなじことでないかと思い、実践するための行動力と決断のすばらしさを感じました。

(取材...里見、石井(正)、小野関)

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