神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】赤星 隆幸 さん(高27期)
ホーム   >  会員のひろば  >   会員の紹介  >  【紹介】赤星 隆幸 さん(高27期)
(取材日:2003年6月23日)
title_akahosi.gif
プロフィール

1957年 1月  神奈川県横須賀市生まれ

1969年 3月  横須賀市立公郷小学校卒業

1972年 3月  横須賀市立公郷中学校卒業

1975年 3月  神奈川県立横須賀高等学校卒業

1976年 4月  自治医科大学入学

1982年 3月  自治医科大学卒業
1982年 4月 横浜市立市民病院研修医
(眼科、内科、小児科、産婦人科、麻酔科研修終了)
自治医科大学眼科科学教室研究生
自治医科大学第一解剖学教室研究員
1984年 4月 神奈川県立厚木病院眼科勤務
自治医科大学眼科研究員
1985年 4月 神奈川県立煤ヶ谷診療所勤務
県立千木良診療所・県立中井やまゆり園併務
1986年 4月 東京大学医学部付属病院眼科医員
1986年 9月 東京大学医学部眼科助手(文部教官助手)
1989年 2月 東京女子医科大学糖尿病センター眼科助手
1990年 7月 武蔵野赤十字病院眼科勤務
1991年12月 三井記念病院眼科科長
1992年11月 三井記念病院眼科部長
現在に至る。

東京都中央区佃に在住。
line_green02.gif
白内障の手術~年間5000件!
一回の手術時間~わずか3、4分

取材への協力ありがとうございます。
海外の学会からの招聘が多く、月に最低1週間は講演や手術に出掛けています。長いときは2週間以上かけて数カ国を回ってきます。
昨年は1年間に17カ国、延べ27都市を巡り、130回以上の教育講演や公開手術を行いました。
日本にいる時には、三井記念病院で年間5,000件以上の手術をこなしています。その分外来も混んでしまい、今日はお待たせして申し訳ありませんでした。
お仕事はこの時間(午後7時)にはいつも終わっていらっしやるのですか?
毎朝手術室に入るのは午前10時なんですが、その前に前日に手術した患者さんを診察しています。 
手術中の赤星先生
白内障の手術は朝10時から3時過ぎまでノンストップで1日に40件近く行っています。手術が終わると外来にもどり、5分で弁当を食べて午後の外来診療を始めます。患者さんの殆んどが手術のために受診された方たちなので、診察や説明に時間がかかり、一日の診療が終わるのはいつも7時近くになります。外来診療が終わった後も事務的な仕事をしたり、学会講演の準備をしたりで、家に帰るのは毎日深夜です。みなさんは、お医者さんに対して、優雅でリッチなイメージを持っておられるかも知れませんが、実は医者の仕事は肉体労働なんです(笑)。とてもきつい仕事ですが、術後の患者さんの喜ぶ顔を見ると疲れなんかすっとんでしまいます。
社会福祉法人三井記念病院(http://www.mitsuihosp.or.jp/)は、明治39年に三井家総代三井八郎右衞門が、貧しい人達のために私財を投じて建てた病院で100年近くの歴史があります。その設立の精神は今でも引き継がれていて、「全人的視点に立ち、最新・最良の医療を提供し社会に貢献すること」が病院の医療理念になっています。
私が眼科医として勤めていく上で、今まで診療の理念としていたのは、「最新の手術機材と最高の技術で手術を行い、最良の視力を患者さんに提供すること」です。三井に移って10年が過ぎましたが、こうして長く勤めることができたのも、病院の診療理念と私がかねてから抱いていた診療理念とが共鳴しあったからだと思います。
三井記念病院

現在の病院長の萬年徹先生はとても理解のある方で、最高の治療を行うためには、惜しみなく最新の手術装置を導入してくれますし、高くても最高級の眼内レンズや薬を使わせてくれます。勤務医の給料は想像を絶するほど安いのですが、患者さんには、とても贅沢な手術をしています。いつも採算に苦慮しながら手術をするのと違い、良いと思ったものは、何でもどんどん取り入れて、理想の手術ができる今の環境に私は満足していますし、そうした環境を提供してくれている院長や理事長に大きな恩に感じて、ご奉公を続けています。


白内障の手術は、どこで受けても同じように考えられがちですが、手術の最中に眼の組織を保護するために使う薬や、移植する眼内レンズ、白内障を除去するための超音波手術装置、また手術の方法など、その選択によって術後の結果に大きな違いが出てきます。角膜の切開に使うメスは、イギリスで特別に作らせたダイヤモンドのメスを使っています。金属のメスでも手術はできますが、ダイヤモンドで切ったきれいな創口は治りも早いし、術後の乱視も少なくてすみます。また白内障を取り除いた後に移植する眼内レンズは、安いものを使えば、それだけ病院は儲かるわけですが、儲けることは医療の目的ではありませんから、高くてもアメリカ製の最高のレンズをすべての患者さんに使っています。手術中に組織を保護するために使う粘弾性物質という薬も、手術の手間は掛かりますが、性質の異なった2種類の薬を使いわけて最大限に組織を保護しながら安全な手術を行うようにしています。こうした配慮がないと、手術を受けた直後はよく見えても、術後何年かしてから後発白内障でまた見えなくなったり、角膜が濁ってくるなどの問題がおこる可能性があります。

白内障の手術には様々な方法があり、手術はどこの病院でもやっています。どのような方法でも手術は可能ですが、小さな傷口から、短い時間で痛みもなく患者さんが楽に手術を受けられ、術後はすぐに視力回復できて、一生その視力を維持できるのが理想です。眼科の手術では、手術時間が長くなればなるほど、角膜などの大切な眼の組織がいたみますし、細菌感染の可能性も高くなります。安全かつ正確に、しかも短時間に手術ができるよう私達は手術方法の改良のために日夜研究を重ねています。日常診療つまり同じ内容の医療だけを日々繰り返ししているのであれば、毎日7時には家に帰れるのですが、更に医学の進歩のために何か新しいことを探求するとなると、帰宅は深夜になってしまうわけです。更に海外での医療協力のことを考えると、もう土曜も日曜もなくなってしまいます。
海外での医療活動もおこなっているのですね。
日本の眼科の医療事情は大変恵まれています。世界的にはまだまだ困っている国がたくさんあります。アジア、アフリカの発展途上国では白内障が失明原因のトップになっています。白内障は手術で簡単に治すことのできる病気です。手術してあげれば簡単に視力を回復させることができるのですが、それが手術できないばかりに毎年何百万という患者さん達が失明しています。直接そうした発展途上国を訪れて手術に携わるのも医療協力ですが、時間的にも経済的にも限界があり、その患者数を考えると焼け石に水です。まずその国の眼科医に効率の良い最新の手術方法を教え、その医者が技術を習得して、また別の医者を教育するというようにしていかないと、とてもこれだけ多くの白内障患者さんには対応できません。
アラブでの講演

いまだに発展途上国では、大きな傷口から白内障を取り出す昔ながらの手術方法で手術がおこなわれています。一人の患者さんの手術に30分以上かかっては、1日にせいぜい20件の手術を行うのがやっとです。昔の方法では、視力の回復に時間がかかりますし、日本では考えられないような様々な合併症に患者さんは苦しみ、眼科医も苦労しています。そうした海外の人達に私達が日本で開発し育んだ技術を提供し、一人でも多くの人が最新の手術の恩恵に浴することができればと願い、三井記念病院での診療の傍ら時間を捻出して、海外に講演や手術に出掛けています。貧しい勤務医の私個人の力では、発展途上国への経済援助などはできませんが、自分の持つ技術や手術のノウハウは、いくらでも提供することができるのですから、こうしたかたちで世界のお役に立てればと考えています。
line_green02.gif
手術に使う器具も考案...
新しい治療法を開拓されたということですが、それに使う機械の設計などもされるのですか。
はい、そういう事もしています。手術を安全で効率良く、なおかつ誰にでも簡単に出来るようにするには、今ある手術器具や手術方法では対応できません。新しい手術の方法を考え出したら、それを行うための新しい手術器具も必要になります。そこで自分で手術器具の設計図を描いて、海外の医療器具メーカーに試作してもらいます。また出来上がった手術器具の安全性を動物実験で確かめることなどもしています。
世の中には手術の名人という人がいますが、すべての患者さんが名人の手術の恩恵に浴せるわけではありません。しかし、すべての患者さんで名人がしたのと同じ手術結果が得られるのが理想です。テクニックだけの名人芸に頼っていては一般の眼科医の手術水準は高くなりませんし、経験の浅い眼科医が名人のまねをすれば、大きな事故にもなりかねません。また名人とはいえ昔ながらの方法でどんなにうまく手術ができても、その方法に固執して新しい方法を取り入れようとしなければ、いつかは時流に反した医療を行うことになりかねません。どこの眼科医がやっても、名人と同じ結果を安全に出せるような手術法や手術器具を作り出し、それを世界に広く提供したいと考えています。
line_green02.gif
白内障とは...
白内障とはどんな病気で、いつ手術を受けたらよいのですか?
白内障と言うのは目の中の水晶体、すなわちレンズが曇ってくる病気なんです。病気というより老化現象の一種と言ってよいかも知れません。歳をとって髪が白くなるのと同じように、60歳をこえると大抵の人の眼には、多かれ少なかれ白内障が出てきます。白内障にはいろいろなタイプがあるので、視力障害の出方も様々です。
ただそこで注意しなくてはならないのは、白内障があるということと、手術が必要だということは別問題だということです。手術をいつ受けたら良いかという相談をよく受けますが、その時期は人それぞれ異なります。日常生活で見え方に不自由をきたすことがあれば、その時が手術の時期だと患者さんにはお話ししています。不自由がないのに手術を受ける必要はありません。日常の生活でどの程度の視力が必要かということは人それぞれ違いますので、一概に視力がいくつになったら手術をするというわけにはいきません。ただし、白内障の中には早く手術をしないといけないものありますので、そこは信頼できる眼科医の指示に従ったら良いでしょう。
公開手術を終えて患者さんと...

昔の白内障手術は、障子の桟が見えなくなるまでギリギリ待って、いよいよトイレにもひとりで行けなくなってからやっていたようです。手術のやり方が現在とは違い、白内障が進行してカチカチにならないとうまくいかない方法でしたし、成功率も100%ではありませんでしたので、視力の良い眼を手術するにはリスクが高かったのです。今でも手術はまったく見えなくなってから受けた方が良いと思い込んでいる人がいますが、これは大きな間違いです。昔と今とでは、手術の方法がまったく違います。今日の超音波白内障手術では逆に、白内障が進行して核が硬くなればなるほど手術はむずかしくなりますし、手術の合併症も多くなります。東京の私達の病院でも、もっと早く受診してくれたら良かったのにという患者さんが、いまだに時々いらっしゃいます。
横中・横高の先輩方で、白内障の心配のある方は、いつでも喜んで診察させていただきますので、三井記念病院までご足労下さい。
白内障の手術はどのようにするのですか?
昔は目玉を半周近く大きく切って、濁った水晶体を塊としてぽこっと取り出し、中を洗って眼内レンズを入れ、傷口を糸で縫って閉じるという手術をしていました(水晶体嚢外摘出術)。この方法は大変時間のかかる手術法で、傷口が大きいために、眼の組織がいたみやすく、また手術の後の炎症が強く、視力回復に時間がかかりました。また糸の締め具合によって眼球の形がゆがむため、術後に大きな乱視が残り、せっかく眼内レンズを入れても、乱視のために度の強い眼鏡を掛けなければならないこともありました。術後の乱視の度数は、傷口の大きさの3乗に比例すると言われています。また傷口が大きければ、それを縫うのにも時間がかかりますし、手術時間が長くなれば、術中に細菌感染を起こす可能性も高くなります。
胆嚢の手術でも、お腹を大きく切って手術すると、術後炎症が強くなり、痛みが強かったり、創傷治癒に時間がかかり入院も必要となります。しかし内視鏡で小さな傷口から手術をすれば、傷の回復も早く、日帰り手術も可能となります。手術は小さな傷口から、組織をいためることなく、簡単に済ませるのが一番です。
スリランカの手術室


白内障の手術においても、小さな傷口から濁った水晶体を取り除き、眼内レンズを移植するという努力がなされてきました。水晶体を大きな塊として取り出すのではなくて、超音波を使って、細かく砕き、吸い取るという方法(超音波乳化吸引術)を用いると、3ミリ以下の小さな傷口から手術が可能です。もっと具体的に言いますと、水晶体は「嚢」という極めて薄い、セロファンのような透明な膜に包まれています。この膜の前の部分に丸く穴を開けて、中の濁った水晶体だけを超音波で砕いて取り除き、残した嚢の中に眼内レンズを移植します。こうお話しすると、いとも簡単に聞こえるかも知れませんが、この嚢は非常に薄い膜なので容易に破れてしまいます。その膜を破らずに、うまく中身だけ取り除くには熟練を要します。白内障を取り除くのに、長い時間超音波をかければ、そのエネルギーで眼の組織がいたんでしまい、視力の回復が悪くなってしまいます。また、手術中に誤って、嚢を破ってしまうと、水晶体の核が眼の奥底に落ちたりして、網膜剥離をおこすなど大事故につながる可能性もあります。

小さい傷口から手術ができるという魅力はあるのですが、技術的にむずかしいという難点がこの手術にはありました。そこで、この手術を誰もがもっと簡単にできるようにならないかと考えたわけです。今までは白内障の核を大きな塊のまま、端から少しずつ削っていましたが、大きい塊を削るとなると、手術に時間がかかりますし、大きな超音波エネルギーが必要でした。そこで、超音波をかける前に特別な手術器具を用いて、白内障を小さな塊に分けてしまい、その塊をひとつずつ超音波で取るという術式を考案しました。この術式は「フェイコ・プレチョップ」と名付けられ、今では広く世界に普及しています。従来の方法では、超音波で核を削るのに何分も時間がかかりましたが、この方法で手術をすると、数秒の超音波時間で核を取り除くことができます。これによって、今まで20分以上かかっていた手術が3~4分ですむようになりました。また手術に要するエネルギーが極めて少なくなったため、角膜などの組織をいためることなく、手術後直ちに良い視力が得られるようになりました。
スリランカでの白内障公開手術


この発明によって、白内障の手術は名人でなくても、安全かつ短時間で済むようになり、その成果は画期的なものでした。そこでこの術式や手術器具の特許を取ってはと多くの人達から勧められました。しかし敢えて特許申請はしませんでした。特許を押さえてしまえば、確かに個人的には収入になって有り難いのですが、特許料のために手術器具が高いものとなってしまい、この術式の普及の妨げになると考えたからです。私自身、従来の超音波手術の修得には苦労した経験があったので、後から手術を勉強する人達には、無用な苦労なしに安全で確実な方法をはじめから学んでもらいたかったのです。フェイコ・プレチョップ用の手術器具は、パテントフリーで世界に紹介され、各国の手術器械メーカーが自由に器具を作り、各国の眼科医に供給しています。海外に講演に行った時に、私の手術器具を使って、私の方法で手術しているという先生から、握手を求められ、この術式によって手術が大変楽になったという様な話を聞くと、本当にうれしいものです。
今日までの職歴は...
三井記念病院へ勤務するまでの経歴をおききしたいのですが。
私は眼科臨床医として働くようになるまでには、すごく変わった道を歩んでいます。エリートコースで、医学部を卒業してそのまま大学の眼科の医局に入り、眼科医になったわけではありません。今の立場に至るまでには随分遠回りをしてきました。もっと楽な人生があったはずですが、敢えて自分が進みたいと思った道を進むために、人の何倍ものエネルギーを使ってここまでたどり着きました。

家はあまり裕福ではなかったので、進学は国公立か、奨学金の貰える大学を選ぶ必要がありました。東大の理Ⅲは落ちましたが、奨学金の貰える防衛医大と自治医大の二校に受かりました。どちらの大学も、卒後9年間の就労義務があり、防衛医大では自衛隊関係の病院に、また自治医大では出身県の僻地の医療施設に勤めることが義務づけられていました。入学当初の神奈川県庁の担当者の話では、神奈川県は医療施設、医師数ともに十分充足しており、現実的には神奈川県には僻地がないので、卒業後は留学でも基礎研究でも、自分の進みたい道に進むことができるとのことでした。この言葉を信じて、自治医大への進学を決めましたが、現実は違い、波乱の人生を歩むことになりました。


自治医大は、僻地医療の改善を目的に各都道府県が基金を拠出して設立された自治省管轄の大学で、各都道府県から毎年1~2名の学生が選抜されて6年間奨学金を得て勉強し、その後は各自の出身県に戻り9年間、都道府県知事が指定する医療施設に勤務することになっています。9年間の勤務を果たさない場合には、奨学金を全額返済する契約です。大学は栃木県小山市の北にあり、大学の施設は非常に立派なもので、教授陣も東大を中心に極めて優れた人材が揃っていました。ただ、当時大学の周辺は市街化規制区域に指定されており周囲に新しい建物はなく、大学病院の建物、学生寮や教職員宿舎が一面の干瓢畑の中に陸の孤島のようにポツンポツンと点在していました。今でこそ宇都宮線の駅ができましたが、以前は最寄り駅からバスで25分、歩け
ば1時間近くかかる不便な場所でした。全寮制で、と言うより、寮を出ようと思っても、周囲には農家しかなくて、他に住む場所がありませんでしたので、学生は6年間を寮で過ごしました。貧しい学生が殆んどでしたので自家用車もなく、町に出るのも一苦労でした。私たちはこの恵まれた環境の中でただひたすら勉強に励んでいました。私は5期生でしたが、卒業生がいない当時は、どの程度勉強したら良いのかも判らずに、ハリソンの内科学書やクリストファーの外科学書など分厚い英語の教科書を原著で何冊も読破しました。そんな甲斐もあって医師国家試験の合格率は毎年ほぼ100%でした。

私は生物学に興味があり、顕微鏡を覗くのが好きでしたので、1年生の頃から組織学の教室に出入りするようになりました。斎藤多久馬先生が組織学を担当する第一解剖学教室の教授で、学生の私に遅くまで顕微鏡を覗くことを許して下さいました。当時はまだ大学が設立されて日が浅く、研究員も少なかったので、学生の私も教室のカンファランスに参加させてもらったりして、電子顕微鏡の技術や組織化学の実験手法などを、教授直々にご指導いただきました。ここで、私はかねてから興味のあった眼組織の基礎研究をはじめることになりました。斎藤多久馬教授は、解剖学に造詣が深いだけでなく、人格者で温かく思い遣りに溢れた方で、熱心な医学生の私に最新の実験手法を一から丁寧にご指導下さいました。私は学生でしたから、まず学業を修めることが一番の使命であり、研究によって本業の学問が疎かになることを厳に戒められました。私が研究室に出入りして研究をする上で、教授と交わした約束は、どんなに研究に熱中しても絶対に授業は休まないという事でした。私は研究がしたいばかりに授業には皆勤して、夕方の授業が終わると研究室にこもり、明け方まで実験を続けました。朝の早い教授が研究室に出勤される前に、そっと研究を切り上げて寮に戻るという毎日でした。睡眠時間は随分短かったはずですが、まったく苦はありませんでした。自分で計画し丹念に行った実験で、教科書に書かれていない新たな事実を次々に明らかにしてくれる基礎研究は、まるで闇夜を照らすサーチライトのようで、文字通り寝食を忘れるくらいに私を熱中させました。そんな努力の甲斐もあって、網膜や角膜の研究でいくつかの大きな発見があり、学生の身分でしたが、その成果を学会で研究発表することができました。最初の学会発表は学部の1年生の時に解剖学会で、3年生の時には国際学会にデビューしました。研究に関するアイデアは山ほどありましたし、100年の時間があってもやりきれない程やりたい研究テーマがあって、学生をしていることがもどかしくてなりませんでした。

6年間の栃木での充実した学生生活も終わり、いよいよ卒業となった時、私は大学に残って眼の基礎研究を続けたいと願いました。しかし入学当初の神奈川県の担当者は、基礎研究に進む道もあると言っていたのに関わらす、卒業時には担当者がすっかり変わっていて、私も他の卒業生同様、出身県に戻るよう命じられました。とても残念でしたが、契約に背くことはできません。自分の意志ではどうにもならない運命という流れに身を委ねるしかありませんでした。ただ私にできたことは、やり残した研究を神奈川に戻ってから、週に1日の研究日と週末に、大学に通って続けることでした。

基礎研究者として学問の道に進むことのできなかった私は、臨床医として故郷の神奈川県で働くことになりました。ふつうの医学部の卒業生はここで自分の専攻を決め、その科の医局に入局して臨床医としてのトレーニングを始めるのですが、自治医大の卒業生の場合は大学から離れた、それぞれの出身県でトレーニングを受けなければなりません。出身県によっては、施設や症例に恵まれた大学病院で研修を受けることができますが、神奈川県の場合は、横浜の市立病院が最初の2年間の研修指定病院でした。私は、臨床をやるならば眼科の専門医になりたいと思っていましたが、そんな希望も受け入れられずに、神奈川では眼科のほかに内科、小児科、麻酔科、産婦人科を今でいうスーパーローテートすることになりました。自分の志以外の科の勉強に時間を割くことは、時間をロスしているようで焦りを感じましたが、今にして思うと、この時代に経験した内科や麻酔科の臨床は、その後の臨床生活上、決して無駄にはなりませんでした。

研修病院では各科の一般診療と一般眼科の研修をする傍ら、特殊な疾患や眼科の先進医療に関しては週に1回大学に戻り、そこで勉強しました。その時の恩師が、今は亡き清水昊幸名誉教授です。手術によって病を治すことのできる素晴らしさ、美しい手術、完璧な手術、手術の理想をこの先生から学びました。
基礎研究の内容もこの頃から少しずつ変わりました。臨床をやっている上で生じた疑問を解決するために基礎研究の手法を使うようになり、研究のテーマはより臨床的なものになりました。自己満足だけの基礎研究ではなく、その成果が実際の患者さんの治療に生かせるようなものにしたいと考えたからです。

2年間の横浜での研修の後は、厚木の県立病院で1年間眼科医として勤務し、4年目には県内2つの診療所と秦野の山奥にある心身障害者施設を掛け持ちで勤務することになりました。診療所ではすべての科の患者さんを診ますし、内科当直のほか産婦人科のお産の当直までしました。診療所は丹沢山系に近い厚木の山奥の診療所と、中央線の相模湖からバスで山の中に入った所にありました。診療自体はたいしたことはありませんでしたが、通勤がとにかく大変でした。毎日行き先が違いましたし、交通の便が悪くて時間のロスが多大でした。通勤の途中ふと居眠りをして、目覚めた時に自分がどこに行くのか、行くのか帰るのか、判らなくなることもありました。

診療所で一般診療をして、何時間にも及ぶ通勤に疲れながらも、眼の研究や最先端の眼科治療への興味は尽きませんでした。当時週に1日、研究日と称して週中に自由に使える日があったのですが、その1日は栃木の大学での研究と臨床研修に当てました。毎週水曜日には、診療が終わると山奥の診療所を出て上野に向かい、東北線の最終電車で大学に着くのは深夜の1時過ぎでした。診療所から大学まで4時間。夜中に着いて研究室で実験をしてそのまま研究室のソファーで仮眠して、翌日はまた実験と眼科での専門研修。週末の土曜日も同じようにして、週2回神奈川の山奥から自治医大のある栃木まで行くという生活が卒後4年間続きました。一般臨床医としての僻地勤務、大学での基礎研究と眼科の専門研修。ひとり3役をこなした訳です。

そして卒後5年目になった時、神奈川県から保健所に行って公衆衛生の仕事に携わるよう指示がありました。保健所勤務では臨床ができなくなりますし、ましてや眼科などといった専門分野での基礎研究や専門臨床などできる筈はありません。このままでは自分の将来の夢からどんどん離れていってしまう。かといってあと5年間を指示通り勤めなければ1,680万円の奨学金を返済しなくてはなりません。半分勤めたからといって、返済額が半分になるわけではありません。1日でも足りなければ全額を一括返済しなくてはならないのです。

それでまた人生の岐路に立ったわけです。このままずっと神奈川県にいれば、いずれ保健所長になり定年まで安定した生活があるけれども、それで自分の人生が納得できるかと・・・自問しました。自分の意志ではどうにもならない大河のような運命に流されて一生を終えてしまうか、無理を承知で足掻いてみるか?給料の殆どを大学での勉強と学会出張のために使い果たしていたので、1,680万円を一括返済する貯金などありませんでした。今更親の臑を齧るわけにもいかず、銀行から借金をして、自分の将来に投資することを決意しました。奨学金を返済して眼科をやろうと決心したわけです。


こうして卒後5年目にしてやっと自由の身になりました。しかし神奈川県を辞めた以上、もう自治医大に戻るわけにはいきません。これからどうするか?自分で進む道を探さなくてはなりません。せっかく眼科を勉強するんだったら日本一の場所で勉強したい。それで受験ではダメだった東大の門を再度叩きました。当時、東京大学の眼科の医局には東大の卒業生かその師弟でないと入局できなかったのですが、今までの研究業績を持って、当時の三島済一教授にお願いに行きました。「いい仕事をしている。しかし一流の眼科医になるには臨床もできなくてはいけない。うちでしっかり勉強しなさい。」と外物の私を受け入れてくれました。それで東大で眼科を勉強することが決まりました。人生の大きな岐点でした。

東大での毎日は、今にして思うと天国のような毎日でした。好きなだけ眼科の勉強ができましたし、好きなだけ眼科の臨床をして、手術にも携わることができました。多くの優秀な同僚や先輩にも恵まれ、東大の医局で過ごした日々は、非常に思い出深いものでした。

東大での研修の後、基礎研究の腕を買われて東京女子医大の糖尿病センターに赴任することになりました。糖尿病の患者さんだけを集めた特殊なセンターで、眼科に来るのも糖尿病の患者さんだけでした。来る日も来る日も糖尿病の患者さんばかりを診察して、おかげで糖尿病網膜症に関してはエキスパートになりました。毎月何百人という患者さんをレーザー治療しましたが、手術室で行う手術は硝子体手術が殆どで、白内障を自分で執刀する機会は月に数回しかありませんでした。大学病院の施設で、糖尿病網膜症に関する基礎研究を行うことはできましたが、手術に関しては症例が少なくて、十分な臨床経験を積むことができませんでした。眼科の領域では、診断をつけて点眼や内服薬を処方する内科的な眼科医と、積極的に悪い部分を手術で治す外科的な眼科医がいますが、私は自分の技量で治療ができる外科的な眼科医になりたいと思っていました。診断や処方は教科書や臨床見学でいくらでも勉強できますが、手術は良い手術を見て、実際に自分で執刀しなければ上達できません。そこで大学に勤めながら、名人の手術を見学に毎週外の病院に出掛けました。

当時白内障の手術では、武蔵野日赤の清水公也先生が超音波の手術で素晴らしい成績を上げていましたので、毎週無給で日赤に通い、手術の助手をさせてもらいました。しかし大学に戻っても、超音波の手術器械はありませんでしたので、実際に自分で手術をすることはできませんでした。術後に炎症のおきやすい糖尿病の患者さんにこそ、小さな創口から手術ができる超音波の手術は最適だと思いましたが、大学では昔ながらの手術法で手術をしていました。患者さんは、大学病院という立派な建物と看板を信頼して病院を受診する。しかし、こと白内障に関しては、地方の日赤病院の方がずっと良い治療をしている。大学病院は確かに設備は素晴らしいかも知れないが、そこに勤める医師の技量がその看板にそぐわなければ、虎の皮を着た狐ではないかと疑問を抱き始めました。優れた手術の技量のある眼科医になりたい。それにはもっと手術をしたい。しかしそれは大学病院では叶わない。私は悩みました。
先輩にこのことを相談すると、せっかく名の通った大学病院に就職することができたのだから、何も無理することはない。毎日ふつうにしていれば、そのうち講師になり、助教授になり、エスカレータ式で出世できると言われました。しかし、たとえ教授だろうが院長だろうが、目の前にいる患者さんを実際に治すことができなければ、医師たる資格はない。私は、そう考えました。手術の腕を磨くために、大学病院での地位と職を捨て、日赤病院に就職することを決意しました。この選択には同僚や先輩達が驚き、思い留まるよう多くの助言を受けました。しかし私の決意は変わりませんでした。

大学を卒業した時には、あれほど大学病院での勤務に憧れていたのに、今ではまったく逆に都下の日赤病院に勤めようとしている。運命の大河の流れに逆らっているかのようにも思えましたが、私が臨床眼科医として志していた道を日赤の手術室に見いだすことができました。日赤にも週に1日の研究日があり、大学病院に研修に行く医師もいましたが、私はその分余計に手術室に入り手術を学ぶことに専念しました。日赤での仕事は、朝早くから夜遅くまで、第一線の臨床病院の多忙を極めましたが、私にとってはとても充実した毎日でした。給料が良くて手術もできて、とても幸せな毎日でしたが、幸せはそう長くは続きませんでした。日赤に移って1年そこそこで、東大の教授から異動命令が下りました。

三井記念病院の科長が開業してやめてしまうので、手術のできる医者がいなくなってしまう。日赤からすぐ三井に移るよう教授から異動命令があったのです。当時三井記念病院は、眼科ではあまり評判のいい病院ではありませんでした。手術件数も年間300件程度。十分な手術設備も揃っていませんでしたし、給料も日赤の半分以下でした。しかし教授命令は絶対です。かくして私は三井記念病院に勤めることになりました。今から11年前のことです。
眼科を志したきっかけは...
先生は、いつごろから眼に興味をもったのですか。
眼には小学生のときから興味がありました。私は衣笠病院で生まれましたが、そこに古谷智恵子先生という眼科の部長先生がいて結膜炎になるとしょっちゅうそこに通いましてね。 
現在の衣笠病院
眼科には小学生の頃から馴染みがありました。今でも覚えているのですが、診療室の壁にシュバイツアー博士の写真が掛けられていて、先生は病気で困っている人達のために尽くしておられると、子供心に尊敬の念をもって治療を受けたことを記憶しています。自分も大きくなったら、眼の見えない人達を治療して見えるようにしてあげようと思ったものでした。その先生は衣笠病院を退職された後、久里浜で開業されましたが、今でも地元の手術患者さんを遙々三井記念病院まで紹介して下さるんです。とても有り難いことです。

それからうちの祖父(中9期 赤星直忠氏)が横中の卒業生なんですが、横須賀の地元で考古学者をしていました。高校の教師をしていましたが、安月給を考古学の研究のためにつぎ込んで自腹で発掘調査なんかをしていましてね。小学校時代には祖父に連れられて発掘に行ったり、野山を歩いて地質学や動植物の生態について、いろいろ学びました。教科書を暗記することもなく、塾や予備校もなく、ただ自然の中でのんびりとしたアナログ教育を受けました。自分の目でものを見て考え、自分で何かを工夫して創り出す。そんな基本的なことを教えられた気がします。家はあまり裕福ではなかったので、プラモデルなんかは買ってもらえず、自分で工夫して鉄道模型なんかを作って遊びました。腕時計を分解してまた組み立てたり、手先が器用だったので、眼科のマイクロサージェリーの訓練はそのころからしていたのかも知れません。
中学、高校時代は...
中学は公郷なんですね。
市立の公郷小学校を卒業して、入学したのは池上中学校です。学級数がものすごく多く 
現在の公郷中学
てたしか13クラスでした。2年生のときに公郷に池中の分校ができて、3年生の時に公郷中になり、一期生として卒業しました。あの坂本堤弁護士とは、幼なじみで幼稚園から、小学校、中学、高校まで一緒でした。

実は父親も伯父も、2人の叔母もみんな横高の出身なんです。家は横高から5分とかからない距離にあり、中学校まですべて歩いて通学できる距離だったので、高校こそはどこか遠くに行きたいと思っていました。当時、神奈川県では栄光学園と湘南高校が進学校として有名でした。私立は無理なので、県立の湘南高校に行きたかったのですが、受験実績のない公郷中から進学することができずに、結局横高に入ったわけです。
横高時代にインパクトのあった先生はいらっしゃいますか。
私は、昔から語学が好きだったものですから、英語は中学の頃から一生懸命勉強していました。ラジオで大学受験講座や極東放送を聞いていましたから、高校に入った頃には高校の教科書は殆んど理解できました。その語学力が現在海外で講演や公開手術をするのに大いに役に立っています。日本人は、研究でも手術でも非常に高いレベルのものをもっているのですが、残念ながら語学力に劣るものですから、それを世界の表舞台で他国の人達と同等の立場で披露することができません。英語ができないばかりに、せっかく素晴らしい能力をもっていながら、世界的に正当な評価を受けられないでいることが多いように思われます。国際学会で発表するにしても、原稿を丸読みして、質問が来たら何を聞かれているのかわからないというレベルなのですね。海外で何かを教えたり、教わったり、また生の言葉で感情をぶつけ合って議論したりするには、まず語学力が必要です。そういった意味で高校時代に英語を仕込んでくれた担任の小林義昌先生には感謝しています。

生物の加藤寿治先生。理科系で受験は物理化学だったのですが、生物学には大変興味がありました。生物は大学受験を別にして学問として好きな科目でした。
 
赤星先生と取材の鈴木氏(高11期)
高校時代の学問的興味が、そのまま大学で基礎研究を行うきっかけになったわけで、加藤寿治先生にはとても感謝しています。古文の加藤是子先生。あの先生のキャラクターはとても印象的でした。普通理科系の学生は国語があまり得意ではないのですが、私は国語、特に古典や漢文が得意でこれで結構点数を稼ぎました。特に自治医大の入試は、普通の大学の試験と違って、論文や英語のヒアリング、自由作文などユニークでしたから、高校で学んだことが随分役立ちました。
後輩へ一言...
最後に後輩にひとこと。
このインタビューを受けて、自分の半生を振り返ってみると、その無駄な生き方に辟易とします。賢い人は、もっとスマートな生き方ができる筈です。頭の悪い人間は、努力でそれを補わなくてはなりません。頭が悪かった分、私は同じことをするのに人の何倍も苦労しなければなりませんでした。
後輩に伝えたいことは、まず高い志をいだき、そのために全力を尽くして努力すること。力が及ばず願いが叶わなくても、その方向に向けて歩み続けることをやめないことです。人生の目標は人それぞれあるでしょう。しかしお金儲けや出世など、自分のことだけを考えていると、いつまでたっても幸せにはなれません。上を望んだらきりがないからです。しかし自分のまわりにいる人達を幸せにすることを考えてみると、結構簡単に幸福になれるものです。若い時の努力は必ず報われます。年を取ってから人生を変えようと思ってもそれは叶いません。月並みな言葉ですが、たった一度の人生ですから、悔いのない生き方であってもらいたいものです。若い人達には、これから歩む人生に無限の選択肢があるのですから。

恩師・小林義昌先生から一言...
担任の小林義昌先生に高校時代の印象を伺ってきました。
小林義昌先生
赤星君は非常にまじめ・几帳面・礼儀正しい男でね。じっと相手を見つめて話を聞く態度も、印象に残っている。
地味なので、目だったことはなかったが、勉強が好きで、勉強ばっかりしていた。よくできたね。
彼は、入学当初から英語が抜群で、横高で何年かにひとりの英語力を持ってはいってきた。
これはものになる逸材だ、国際舞台で活躍できる人になるなと思った。教員生活で出会った、英語がよくできた生徒10人中の1人だったね。現在、国際的な学界で活躍しているのを見て、やはり英語が生きたなあと思った。
先日、テレビに出演しているのを見たが、高校時代とまったく変わっていなかったね。顔つきから話し方、身のこなし方まで、当時のままに誠実で。今後もひき続き活躍するようねがっている。
取材後記
山本(高12期)
取材中、白内障で困っている人に対する深い愛情を随所に強く感じました。
治療器具の開発・治療法の開拓・現場での治療・海外での技術指導等、己の理想に向かって研鑚を積む姿勢と行動力に圧倒されました。

その上、趣味もクラシック音楽・ビデオ編集・カメラ・写真などいろいろ楽しんでいるとのお話に感激、早速ポートレート撮影のコツを教えてもらいました。

取材後に届いた近況を伝えるメールを紹介します。
先週まで、オーストラリア、ベトナム、スリランカ、モルディブの4カ国へ公開手術と講演 に出掛けておりました。この会期中、Asia Pacific Association of Cataract and Refractive Surgery より、昨年度この地域の白内障手術教育に最も貢献した眼科医として、表彰を受 けました。またモルディブでは、厚生大臣や大統領夫人と会見して、この国の眼科医療の 発展に協力する事を約束しました。
三井記念病院眼科 赤星隆幸

多忙な毎日のご様子、ご健康で活躍されることをお祈りします。



 高12期 山本誓一記

ページの上に戻る