神奈川県立横須賀高等学校同窓会 朋友会
【紹介】三和 義彦 さん(高7期)
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(取材日:2001年12月)

病魔に冒され3年遅れの卒業も見事に克服

横高校歌 作詞者は今・・・・・・通商外交の専門家

 お目にかかる前は文学者のような風格を想像していたが、活発でエネルギッシュ、澱みのない語り口。
 大学の先生と言うよりは、文字どおりの"国際ジャーナリスト"といった印象(ジャーナリストを目指す人に有益な情報もある!!)。
プロフィール
三和義彦さん
昭和8年、海軍航空隊の戦闘機パイロット、三和義勇(よしたけ)少佐を父親として鎌倉で誕生。その後、東京から逗子に転居、逗子が故郷といえる。

逗子小時代は石原慎太郎都知事が1年上級生、俳優の裕次郎さんが1年後輩。横中・横高から一橋大学へ進学。昭和35年兼松株式会社勤務。昭和38年産経新聞入社。社会部記者を経て、ロンドン駐在欧州移動特派員(英国、スペイン、西独で修学)。帰国後、社会部、経済部記者を経て、産経とは姉妹会社の日本工業新聞社経済部へ転出。日工35年入社の森喜郎 前首相とは同期待遇という。外信部長・編集局編集委員を歴任。昭和63年野村證券に入社し野村総合研究所に配属。平成6年に退社後は、日本大学、関東学院大学の経済学部で教鞭をとり、学生の指導に意欲を燃やしている。

日工の記者時代には、外交官だけがフェロー(上級研究員)として参加を認められていたハーバード大学国際問題研究所(CFIA)に、日本の民間人としては初めてのフェローとして招待される。同時にハーバード・ロー・スクール東アジア法律問題研究所(EALS)の客員研究員も兼任。英国の国際ジャーナリスト講座「トムソン・ファウンデーション」の卒業生でもある。外務省記者クラブに18年間、JETROの東京貿易記者会に20年間在籍したマスコミでも数少ない貿易、通商外交の専門家。過去に培った国際情報収集力、知識、人脈を生かして通商外交、ODA、海洋法などの各分野で多忙な毎日を送っておいでという。

したマスコミでも数少ない貿易、通商外交の専門家。過去に培った国際情報収集力、知識、人脈を生かして通商外交、ODA、海洋法などの各分野で多忙な毎日を送っておいでという。
故中川校長の作詩を抑え

20歳の在校生が
母校「横高校歌作詞者」となる!

20才の高校生でどうしてあのような格調高い作詞が出来たのですか?
 昭和28年、高2の夏休み前だったと思う。中川校長から新しい校歌を作るので歌詞を募集するという発表が講堂であり、職員室の前の廊下に応募の箱が置かれた。

 肺結核で3年間の闘病生活を送った後の開放感からか、「やってみようかな」と思った。1人で当時は鬱蒼とした木立があった記恩が丘に行ったら、梢の上の青空に白雲が流れていた。帰宅後、薄暮の風呂場で湯船に浸りながら、湯気で曇った窓ガラスにその青空を思い出して書いてみた。

 最初の3行はすぐ出来てしまった。「心澄む青空はきわみなき我等のおもい 流れ行く白雲に全て身の努力(つとめ)を誓い 記恩が丘に我等来たれり」。これが原詩の最初の3行だったと思う。後は覚えていませんが、正直な話、そんな苦労をしたという思いはなかった。

 格調が高いのは、中川校長のお考えで、『伝統ある横高の校歌だから、当代一の詩人である三好達治先生に補作をお願いしよう』ということになったからです。私も新聞記者として物書きの1人にはなりました。しかし、戦後の現代文を中心とした国語教育を受けた我々には、三好さんのように、ああした立派な文語体の文章はとても書けません。

そんな簡単に?と言っても普通の人が考えると、とても出来そうもないが...

実は歌が好きで、将来は歌手かデザイナーにでもなろうかと、思っていたのが中学時代です。横中に入学して最初に入ったのが美術部です。逗子小に入る前も幼稚園には行かず、近所の逗子教会で、讃美歌をすぐに覚えて歌っては、先生に褒められて得意になっていたほどですから。横高でも音楽は何時も優等生。というわけで、カラオケは今でも決してきらいではない。

それから、父親が読書家で、家にいるときはよく本を買っては読んでくれたので、読書は大好きでした。特に歴史物と文学が大好きで、父の書斎の歴史物を手当たり次第に読んでいました。このためか、歴史と国語の成績は、小・中・高と通じてあまり勉強しないわりにはよかった。とにかく、歌と文学が大好きだったので、「歌詞」というものは、"ゴロ"と"リズム"がよくないといけないことは、子供ながらに感じていました。作詞が、1週間ぐらいで比較的簡単にできたのは、こんなところに原因があったのかもしれません。

第1席に選ばれた三和さんの校歌原詩
第1席に選ばれた三和さんの校歌原詩  (「創立80周年記念誌」より)
横須賀高校校歌はここをクリックして下さい
応募校歌は沢山あったのですか?

あまり多くはなかったと思います。はっきり覚えていませんが、応募者は10人いなかったぐらいだったのではないか。多分、秋の2学期だったと思いますが、結果が発表されたときには、私と2席に入られた中川校長の詞が2つ、職員室前の廊下の壁に張り出されました。

中川校長は東京高等師範学校(現在の筑波大学)を卒業されてからは、英語の先生として、その人生のほとんどを横中、横高に捧げられたと聞いています。その集大成として、校歌を横高に残したいと思われたのではないでしょうか。先生の作詞は私のとは違って、文語体の格調の高いものだったのを覚えています。

校歌の最終選考は、職員会議での先生方の投票で決まったと記憶しています。その投票結果を職員室から出てきた体操の本間先生が『おめでとう。君のが校歌に決まったよ』と耳打ちしてくださった時には、やっぱり嬉しかった。

ご褒美はあったのですか?

頂いたような、そうでなかったようなー。はっきり覚えていません。それよりもひとつ覚えているのは、毎日新聞が、校歌のことを記事にしてくれたことです。復学してから、美術部と一緒に入っていた英語部で一緒だった荻原(小野)君のお父さんが、当時、毎日新聞の横須賀通信部長でした。荻原君がお父さんにこの歌詞の話をしたところ、「それは記事になる。記者に取材させるか」と、話されたのを荻原君から教えてもらいました。毎日の記者さんが逗子の自宅まで取材に来てくれたのは、それから1週間ほど後の夜。数日後、毎日の神奈川版に"病魔を克服した生徒が校歌を作詞"という記事が顔写真と一緒に掲載されました。

逗子で近所に住んでいた、石原慎太郎氏に親しくしてもらえるようになったのは、この記事がきっかけです。当時、石原氏は、慎太郎刈りがよく似合う一橋大学の学生。学業の傍ら作家活動にも力を入れ、私の校歌当選の2年ぐらい後には芥川賞も受賞した、超有名な学生作家でした。戦争中の小学校時代に、逗子から葉山に行く、海岸通りに面した家に引っ越してきてからは、桜山トンネル周辺に家があった隣部落の我々とは、逗子小への通学路が毎朝一緒でした。当然、顔見知りではありました。が、話はした事がありません。その石原さんに街で出会って声をかけられたのは、やはり、毎日の記事が出てからのことでした。「三和君、横高の校歌を作詞したんだって、おめでとう」。その後の話がいかにも石原さんらしい。「三和君、君も一橋にこないか」。「えー」。「君、知っているだろう。俺も作品をどんどん一橋文芸に書こうと思っているのだけれども、人も金もなかなか集まらないんだよ。金の方は、この間、"チャタレー夫人の恋人"を訳した一橋の先輩の伊籐整さんから、いくらか出してもらう事になったんだけれど、とにかく書く人がいない。君も一橋に来て、詩でも小説でもどんどん書けばいいじゃないか」。

このユニークな説得と、3年の担任だった英語の大塚先生のアドバイスが、一橋受験の決心をしたきっかけになったことは間違いありません

卒業4期のはずが結核の発病で3年遅れる
卒業は3年遅れだそうですね
そう、高1の3学期の期末試験の頃から、体が動けない程だるくなった。高2の1学期、6月頃だったか、中央保健所でレントゲン検査を受けたら、診断は粟粒結核。すぐに休学。丁度朝鮮戦争が始まった直後でした。特効薬のストレプトマイシンがなかったら、死んでいたともいわれています。医者が自然治癒を薦めてくれ、3年間、寝て治したのがよかった。順調に卒業していれば、現在の遠藤朋友会会長や服部湘南信用金庫理事長と一緒の4期卒。
病気回復・復学時はどうでしたか?

20歳になっていた昭和28年4月から、ようやく高2に復学しました。が、3年以上復学できないと除籍になるという学校の事情もありました。このため、まだかなりしんどい体で、休み休みの登校となったわけです。登校してから数日後だったと思います。中川校長から校長室に呼ばれました。「よく頑張って元気になったね。私も嬉しいよ」と、中川校長。ところが、その後がいけない。「君は、もう20歳だから選挙権もある大人だ。だけど、ここは高校だからね、酒や煙草は校内では厳禁だよ。君は真面目な生徒だから私の言うことを分ってくれるね」と、いうことだった。

冗談じゃない、酒や煙草どころか、電車に乗って通学するだけでも疲れるし、まだ、時々は喀血しているのに、と思いましたが、黙って「はい」とだけ答えたのを覚えています。

こんな"大人の生徒"だったので、先生方にも気苦労はおありになったのでしょう。

丁度3年休学したので、4期の仲間はみんな卒業し、復学したときには、休学したときのクラス担任の先生方が、また2年のクラス担任になっていました。しかし、「三和をどのクラスに編入するか」という事では、私のことをよくご存知だった先生方も鳩首協議だったご様子。「男女組には入れない方がよい」事だけが決まった後、どの先生からも、「私のクラスに」という声が出なかったそうです。1人だけ、中学、高1,2を通じて、私を教えたこともクラス担任をしたこともなかった英語の大塚先生が、「それほどの"問題児"なら面白いと思って私のクラス(4組)に引き取った」と、いう事です。この話は、卒業式が終わり、教室で大塚先生が生徒1人1人に卒業証書を渡された後、最後の話の中でされたのでよく覚えています。

インタビューの様子
インタビューの様子
(左が三和氏、右は取材者のHP委員 渡部圭介(高6期))
校舎は貧しくても、日本の再建を教育でという先生方の意気は軒昂だった
三和さんの横高時代はどんな様子でしたか?

我々4期の生徒は、終戦の翌年昭和21年に旧制で最後の横中に入学した。勿論生徒は男子だけ。1クラスが50人程度、6組の編成でした。当時の学区制では、逗子から南の三浦半島で、男子の県立中学の指定校が横中だった。翌22年には制度変更で、現在の6・3・3制になり、中学までが義務教育になった。この制度変更のため、というか、お陰というか、我々は、中学3年までは横高併設中学の生徒として在籍。高校には、中3の期末試験の成績判定だけで自動的に進学できる、という話でした。これがよかった。現在の中学生のように高校入試のことは考えず、好きな学科をのんびり勉強したり、課外のクラブ活動にたっぷり集中できたのです。

こうした変則的な学制で中学時代を過ごしたので、高1までの4年間は下級生が皆無。高2になって初めて、新制中学から男女共学でやってきた後輩たちが1年に入学してきた。このときには、「女が入ってきたぞ」と大騒ぎをしたことを覚えています。私の場合は、病気で3年間休学したので前後9年間在学し、高2に復学してから初めて、男女共学を体験したわけです。

終戦直後の木造1,2階建ての校舎はボロボロ。教室では、窓ガラスが割れているところも多く、新聞紙やボール紙を、窓枠に貼り付けたこともありました。冬の教室に石炭ストーブが入ったのは中1の3学期のことだったのか。あるいは、中2の冬になってからではなかったか。とにかく、寒い教室でオーバーを着たまま、がたがた震えていたのを覚えています。アフガニスタンの子供たちが厳冬の最中、ガラスが破れ暖房がない教室で、一生懸命、勉強している状況がテレビの画面で見られます。我々にも同じように寒い冬があったなぁと、しみじみ思うばかりです。

現在、記恩ヶ丘の碑が立っている高台のすぐ下の辺りに、天井が高くて壁が白い画廊と、図書室が建てられたのは、確か、中2になってから。当時としては、きわめて立派な画廊が出来たためか、美術部の先輩や同級生、後輩には、先年、芸術院会員になった島田君(高5期)や、高2の時に、プロの画壇、大潮会にいきなり特選で入選した岡本君(高5期)など、立派な"画家"たちが大勢いました。三浦市の市長を16年間務められた久野君は、私が復学したときの美術部の部長というか、まとめ役でした。

とにかく学校を取り巻く社会環境が劣悪な中で、先生方の「教育で日本を再建しよう」という、意欲だけは身に染みて分りました。当時の占領軍の最高司令官だったマッカーサー元帥の話だったか、「日本は東洋のスイスのような平和国家になるべきだ」という話が、新聞やラジオで盛んに取り上げられました。ところが、社会科の乾先生は、「スイスには国民皆兵という世界でも最強の部類に入る軍隊があるんだよ」と、スイスの政治制度を授業で講義され、我々生徒は、軍事制度に支えられた永世中立主義の実情を、初めて知りました。

小泉首相のクラス担任でもあった物理の小川先生、やはり物理の小島先生、その他、当時の軍隊から帰ってきた若手の先生方は、それぞれ自分の蔵書の中から中学、高校生向きの本を学校に持ってきて、生徒に貸してくれました。図書館にも、まだ満足に図書がなかった時代でした。勉強好きの生徒たちは、先生方からの本を借りてむさぼるように読んだものです。

青春時代の挫折は人生の挫折とはならない
あせらずにコツコツと努力するのが大切...!!
横高生徒にメッセ-ジをぜひ!

若いときの挫折は取り戻せるものです。失敗したときには、過剰反応して、すぐにでも挽回しようと焦ってはだめ!とにかく生きていれば何とかなる! ひとつのことが駄目になっても、"まだまだやる事は沢山あるんだ"と考えて、あせらず、じっくり新しい生活のリズムを作るのが大切。ところがこれが難しい。"周囲の人が先に進んでいるのに、自分は遅れてしまった"、という絶望感と疎外感からはなかなか抜けだせないものです。

私の場合は、何よりも先生方からの激励とご支援、それから、一足先に大学に進学し、受験勉強の"コツ"を丁寧に教えてくれたクラスメートたちの友情に支えられ、何とか生きていた時もありました。日本ばかりでなく世界中で多数の人からお世話になりました。こうした教訓から、「人生には、先生と友人ほど大切なものはない」と、今でも思っています。

大病からの回復には健康な人には分からない努力がある!
お話の中に幾つかの大切なものがちりばめられていた!!
健康を害された三和さんの健康法は?
1. 病気になったと思ったら、出来るだけ早く"よい"医者にかかることですね
2. 睡眠時間の確保。要するに早寝でも昼寝でも、疲れたと思ったら沢山寝る事が大切。私は大学受験のときにも、医者から毎晩10時には寝るようにいわれました。そこで早く寝る代わりに、朝5時か6時に起きて勉強する習慣をなんとか身に付けたのが、社会人になってから役に立った。
3. 酒を飲み過ぎないこと。最近は若い人があまり深酒しなくなったのはよい事ですね。
4. 食べ物には気を付けています。年をとると、食べ過ぎないことも大切。腹八分目ですね。
5. 忙しかった後は、ゆっくり休息すること。英国で1年半生活しているうちに、英国人が週末には自宅でゆっくりリラックスしているのを見て、「これだ」と思いました。私も英国でゴルフを覚え、ハーバード時代にも、週末には少しゴルフをやりました。だが、日本ではやめました。これがよかったと、今でも思っています。日本のゴルフは高すぎる。週末の休日の朝6時頃から家を出て、1,2時間かけて車や電車でゴルフ場に通う。これでは休息にならない。子供の顔を見てお説教したり、勉強を教えてやることも出来ない。自分の勉強も出来ません。日本のサラリーマンが、高度成長に飲み込まれて勉強しなくなった原因のひとつには、ゴルフと麻雀があったと思いますね。
6.

住宅環境と通勤時間。都庁の記者クラブ詰めのときに、初めて家を買うことになり、都の建設局で、住宅問題を調べている担当者に相談をした。その人が、親身になって相談にのってくれたのがよかった。「三和さん、あなたは結核の既往症があるから、まず、よい空気が吸えること。それから通勤時間は1時間以内がよい。なんといっても体が疲れないから。もう一つ、新鮮で安い野菜と魚が食べられることも大切。この3条件を満たすのは千葉県の船橋です。都心までは電車で30分もかからないし」と、当時、公募していた団地の名前まで、教えてくれたのには感謝しています。

食事のことでは?

大学の授業や国際関係の仕事の関係で、色々な英語の辞書を引きながら英文を読む事が多いので、視力の維持には最も注意しています。この点については、ブルーベリーのジャムと胡麻のバターを何年か続けて毎朝食べていますが、かなり効果があるようです。

肺結核の闘病生活に入ったときに、医者から「逗子に住んでいるのなら、イワシとアジとサバ、それに納豆を食べていれば栄養は十分ですよ」といわれました。以来、我が家ではこれらの4品目を食べるのが半ば習慣になっています。ところが最近では、これらの食品がマスコミでも健康食品として、盛んに取り上げられています。「やっぱり俺は間違っていなかった」と心密かに自慢している次第です。

海外ではいろいろな学校で勉強されたようですが?

たしかに学校の数だけは多いので、皆さんに、各校の授業内容と入学の方法をご紹介します。

日本でも、国立にある一橋大学と三鷹の国際キリスト教大学(ICU)とは、先生と学生の交換をしていました。単位にはなりませんでしたが、この計画のお陰で、ICUには3年間、毎週1回火曜日の夜に通い、英米両国から派遣されてきたブルーワー、モーア両教授から、プレイ・リーデイング(play reading)で英文の早読みの訓練を受けました。これが後年、大変役に立ちました。ICUの英語教育はよかったし、今でもよいと思います。

ハーバード大学の校庭 ハーバード大学の校庭(面積約800エーカー)の北端にあるハーバード・ロー・スクールのパウンド・ビル。
この4階に東アジア法律問題研究所(EALS)がある。
写真は1974年8月、帰国の前日に家族全員で記念撮影。

産経からロンドンに派遣された時は、大事件でも起きて本社からの指令がなければ、仕事はしなくてもよい。どこの国でも、自分で学校を選んで勉強していろ、というのが2年間の勤務条件。この留学生制度は、若干変更されましたが現在でもあります。将来、会社の制度で留学したいと思う生徒さんは、産経へどうぞ。因みに、産経の売り物の記事、「産経抄」を30年も書いている日本のマスコミ界の名文家で菊池寛賞を受賞された、石井英夫論説委員は、横高3期卒業の大先輩です

英国では、最初、ロンドン大学のLSEに半年間、聴講生として入学。その一方で、語学、発音、作文などに特色がある語学校3校で英語の勉強をした。英国の後、スペインのバルセロナで4ヶ月間、昼間はスペイン語、夜はドイツ語の語学校で会話の勉強。この後は、ドイツのケルンにあるドイツ語の会話学校にも、2ヶ月間通った。欧州各国では、外国人留学生の実力に応じて、その国の国語を教えてくれる語学校の諸制度が充実している。留学を希望する生徒さんは、各国大使館の文化部に相談するのがよい。

トムソン・ファウンデーション国際ジャーナリスト講座(カーディフ)への入学が決まったのは、1967年の4月。この講座の期間は7月まで3ヵ月半余りだった。が、英米両国人の講師による、講義と実務実習は内容が濃い。日本では余り知られていない講座だが、欧米各国のマスコミの間では有名。現在も存続している。

この講座(カーデイフ)については、日本のジャーナリストの皆さんも、3年間の実務経験があれば、基本的な受験資格はある。条件次第では奨学資金も給付されることもある。詳細はE-mail: enquiries@thomfound.co.ukで。

ハーバード国際問題研究所(CFIA)は、学内でも最大規模の研究所。ここの上級研究員(Fellow=博士待遇)は、毎年、世界各国から多くとも15,6人しか、採用されず、各国の外交官を中心とした政府機関の職員が多い。希望者は、まず、社会人として実務の専門家になり、その後、米英両国など、英語圏の教育研究機関で1,2年しっかり勉強してから、有力な推薦状を添えて応募するのがよい。

横高の卒業生では、私のほかにも、平成3年、EC大使在勤中に亡くなった西山健彦氏(高3期)と、通産省出身でクエイト大使を務められ、現在、ソニーの顧問をされている愛甲次郎氏(高3期)のお二人が、CFIAの"卒業生"。その他では、最近、よくテレビに登場している竹中平蔵経済財政担当相、NHKの手嶋龍一ワシントン支局長もOBである。詳細については、 http://www.wcfia.harvard.edu/ でどうぞ。

三和氏のハーバード・ロー・スクールの研究室 フェロー
自宅書斎のような、三和氏のハーバード・ロー・スクールの研究室。
(ハンサムな男性は三和氏ご当人。なかなかやりますなァー)
ハーバード大学国際問題研究所(CFIA)に、日本の民間人としては初めてのフェローとして招待された。
三和氏の親友、横高7期、昨年まで三浦市市長を務められた久野隆作氏に伺った
三和氏とは今も親交が厚いと聞きましたが...

本来は大先輩ですが、卒業年度は同じ7期のため、今でも色々お世話になっています。彼とは横高時代、部活(美術部)や生徒会活動を通じて親友になりました。在校時に、新しい校歌を作詞するほどの才能の持ち主だったことは、皆様、ご存知の通りですが・・・・。

本人のプロフィールに紹介されている経歴にあるように、国際的視野に富む博識と人脈。語学力が抜群で、面白くてすごい人物です。国際法の原点である海の法律、海洋法のエキスパートである。マスコミには取り上げられない人でも、すごい人はいっぱいいますが、その典型の一人ですね。そう思いますよ!

私が三浦市の市長だった関係で、マグロ漁業の国際的トラブルについて、相談にのってもらった事があります。その時も、単に一般論で「こういう事があるよ」ではなく、真剣に実情に即して問題を分析し、解決策の具体的な提示、国際人脈を生かしたネゴシエーションまで、徹底的に面倒を見てくれました。とにかく素晴らしい行動派です。私もどれだけ助けられたか。そしてそのことで、他市の市長にもどれだけ鼻が高かったか・・・。

昨年、東京へ呼んでくれてご馳走になったときは、ニューヨーク・テロ事件が発生した直後でした。あの事件の裏表のいろいろな話を聞けて、ものすごく驚きました。単なるマスコミ報道しか知らない自分にとっては全くの眼から鱗が・・・でしたね。

久野隆作氏(高7期)
久野隆作氏(高7期)
幸子夫人のご評価は?

うちの人は仕事が趣味で、暇さえあれば何か資料を集めたり、読んだり、ワープロを打ったり。とにかくボーッとしていることがないのだから。もう少し、ゆっくりしてくれるといいんですけど。性分だから直りませんね。でも、カラオケだけは付き合ってくれるから、余り文句はいえません。

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