〝実は白虎隊生き残りの飯沼貞吉の孫、一浩さんと、東北大学工学部で同級でした〟
「紙魚の会」二代目会長の渡部圭介(高6期)さんは平成24年12月2日に急逝され、その後、三代目会長に阿部昭一(高4期)さんが就任された。平成25年の行事は、渡部前会長の故郷会津若松へ、紙魚が生まれて30年の記念一泊旅行にしようと、亡くなる一週間前の幹事会で決めていたそうだ。
行程は平成25年9月25日、横須賀で9名、横浜で6名が、中型のサロバスで南会津塔の?(へつり)、会津西街道の大内宿を経て、芦ノ牧温泉の大川荘で旅装を解き、翌26日は会津鶴ヶ城、大河ドラマ館「八重の桜」、末廣酒造、飯盛山の白虎隊墓参、さざえ堂、会津藩校「日新館」を見学して帰途、とする予定だった。
その一日目、運悪く台風20号が襲ってくる予報のさなか、待ち焦がれた面々は早速、缶ビールを開け、先ずは献杯! 紙魚専属の名司会者、11期小室さんの進行で旅は始まった。阿部会長は挨拶の中で、渡部前会長の奥様から託されたご挨拶と、吉田雄人市長の30周年祝賀メッセージを併せて披露された。司会者が「今回は殆んど顔見知りだから、個人紹介は省略し、大いに呑み、且つ歓談して楽しく参りましょう。運転は唐沢初さん、経験も腕も確かで道に詳しい頼れる方です」。天候も悪くなるだろうし、安全第一で願いたい。
最初の目的地は、塔の?へつり。「へつり」とは本来、山道とか、山が険しく奥深い様を示すそうだが、会津地方では、川に迫った断崖や急斜面を指す方言なのだとか。見事な奇岩、景観にしばし見入る。
次は大内宿だ。「女房が今回の旅行では、『えごま』を買って来てくれれば、それだけで良い」と言われて求める仲間がいた。筆者も真似して買った。
これといった台風らしい風と雨に見舞われることもなく、芦ノ牧温泉の名湯大川荘に無事着いた。1部屋12畳、ゆったりとした広さの4部屋で、懇親会、二次会を経て、夫々深い眠りに就いた。
2日目は9時出発。バスが見えなくなるまでホテルのスタッフに見送られ、おもてなしを充分に受けた紙魚族も車窓から手を振る。
車内では早速10期の府川さんがマイクを握り、「本日訪れる飯盛山は白虎隊最期の地、では何故、白虎隊というのか」との問い掛けに、訊かれた一同???
「それでは単に白虎というと、何か思い当たることはないですか」と。7期斎藤さんがすかさず、「高松塚や亀虎古墳の壁画」と答える。
「そうです。東西南北の四神、東天には青龍、西天には白虎、南天には朱雀、北天には玄武が守護神として描かれた。そして大河ドラマ『八重の桜』の時代、戊辰戦争の緒戦、京都、鳥羽伏見の戦で、会津藩は老若を問わず、いうなら員数合わせの混成で戦ったため、統一した動きが取れなかった。そこで会津戦に備える時、年齢別の四隊に再編成し、戦闘行動の統一化を図った。玄武隊は50~60歳の予備軍、青龍隊は36~49歳の国境守備隊、朱雀隊が18~35歳で会津軍の中核、実戦部隊、最後が16~17歳の本来は城下防衛が主務の白虎隊。この白虎隊までも会津戦に投入され悲惨な一幕となったのだ」と。
そうしたら9期中山さんがやおらマイクを引き取り、「補足です。実は白虎隊生き残りとなった飯沼貞吉の孫、飯沼一浩さんと東北大大学院の電気通信専攻、修士課程で一緒でした。多分親から聞かされていたのでしょう。白虎隊の話をしてくれたことがありました。ハンサムで頭の良い人でした」と。一期一会の縁はあるものだ。
名城鶴ヶ城は1965(昭和40)年に復元され、平成23年には瓦が元の赤瓦に葺き替えられた。『荒城の月』作詞にまつわる舞台の一つでもあった。末廣酒造は参加した紙魚族の誰もが行ってみたい所の一つでもあったようだ。熱心に説明を聞き、しっかりと試飲し、思い想いの味を買い込んだ。
飯盛山でガイドの説明は、先の中山さんの話に一歩踏み込んで、飯沼 貞吉は右手を負傷していたので、自刃の際、上手く喉を突けなくて一人死に切れず苦しんでいたのを、印出 ハツに助けられたのだと。
この後、昇降ともに螺旋状の回廊で、人にすれ違うことなく、また同じ場所を通らずに三十三か所の霊場巡りができるという一方通行の重要文化財、さざえ堂を経て、いよいよ旅も最終目的地、会津藩校「日新館」へと向かう。少し風が冷たくなった。
会津戦で日新館は焼失したものの、藩校に関する図面他の資料が残っていたため、1987(昭和62)年3月に場所を郊外へ移し、会津若松市河東町に完全復元して開館した。天文台や日本最古のプールといわれる水練水馬池などがあり、新島八重の実兄、山本覚馬や白虎隊の少年たちを始め、藩士の子弟がここに通う。会津は教育に熱心だった。
会津若松市は平成17年4月17日、横須賀市と友好都市として結ばれた。そのためか、鶴ヶ城、飯盛山での各ガイドが、横須賀から来たと知り、殊更親切さが伝わる対応をしてくれたように感じた。その恩恵により諸所で時間が費やされ、大河ドラマ館は見学できなくなってしまった。
今回の旅では新島八重を良く知らない方もいたが、襄の妻だと判っただけでも旅行の価値はあった。数年前には、阿部さんの案内で大磯を探訪、新島襄終焉の地を訪ねていた。大河ドラマ館は見学できなかったが、そのような目線でドラマを観るのも一興ではないか。
どうやら台風は日本列島には近づかずに去ってしまったようだ。帰途の車中に時おり陽射しが眩しく照らしてきた。今回の旅先は、ご当地出身の渡部圭介前会長の一周忌的な感が筆者にはあった。
実行に向けて企画他に関与された方々のご苦労と、参加された皆様に感謝する。参加してみての実感は、永い人生どのように過ごすか、一つには、自分を支える何かを掴むきっかけになるような出会いや、機会が必要ではないかと思った。
年一回とはいえ、『継続は力なり』をモットーに30年続けている「紙魚の会」に、これからも大きな期待と発展を願う次第。 (大塚・府川 記)
《参加者》15名(敬称略)
4期...阿部昭一、6期...大塚穆、7期...伊賀昭・斎藤玲子、9期...中山正之、10期...家原紫・上田寛・金田英子・原田康子・府川宏昭、11期...片山世紀雄・小室嘉生・中島公雄、13期...高梨民雄、20期...木内礼子
(文責 6期大塚穆・11期府川宏昭 )