それまでぐずついていた空が、4月23日(水)には朝から嘘のように晴れて、小川先生の卒寿を祝うクラス会に花を添えてくれました。クラス生徒の面々もこの時を待っていたように、開宴の30分前の受付が待てないかのように会場の「煌蘭」に続々集まり、定刻前には全員が集合し、開催遅しと待っている間に、すぐにお互い同士で近況の確認の会話が始まりました。
定刻に始まった会の冒頭に、先生から奥様が傘寿であるとのご紹介があり、一同ダブルのお祝いに大喜びをいたしました。
何しろ参加者の中で、先生の姿勢が一番良く、連れ添っておいで頂いた奥様も目を疑うほどの若々しさに、生徒達は感嘆してしまいました。先生はご挨拶の中で、毎日の散歩、お車運転、年間1万頁の読書やHDDによる映画鑑賞さらにCANON EOSを使っての写真撮影など、日々心身ともに健康維持を心がけておられていると同時に、奥様の献身的な支えもあってお互いに生かされているとも仰っておられました。
また、会に先駆けて先生から、これから自分に対する思い出の一端になるようにと、随筆16編を提供して頂いたので、これを参加者に配布いたしました。この随筆は平成10年から毎年、神奈川県立高等学校退職校長会の機関誌「有朋」に掲載されたもので、現在も投稿を続けられておられるとの事です。
この随筆を受け取った小泉純一郎さんは、お祝いの挨拶のなかで「脱原発という生涯の仕事を見つけた」と話された後、米国大統領の訪日で交通規制のために、会場には1時間しかいられない事もあり、「この随筆は帰宅してから読んでみる」と言って大事に抱えて退席しました。
会は先生に記念品、奥様に花束を差し上げ、先生のお言葉を頂き、小泉さんの挨拶の後、生徒達各人から先生の卒寿に対するお祝いと、それぞれに体の不具合と付き合いながらも元気に頑張っている近況が語られ、おいしい料理と美酒に酔いながら皆楽しいひと時を過ごしました。
会の終わりに、今秋10月25日(土)の12期同窓会(同期会)での再会を期し、さらに語りつくせない話の続きを二次会に託して散会しました。
また、会の開催後に、何らかの理由で参加できなかった人たちにもこの随筆をお送りしたところ、多くの人たちから喜び、また感動したとのお礼の返事を幹事宛にいただきました。
なお、ここに、先生から提供して頂いた随筆16編の内から「沖縄で戦死した兄を思う」を添付いたします。この随筆は平成22年、大阪の出版社新風書房が全国に新聞紙上で呼びかけしたものに応募して、「孫たちへの証言」という表題の本の中に採用されて書店に並びました。
昭和19年4月、当時18歳の私は、父母に連れられて山梨県の甲府に向かっていた。甲府49聯隊にいる兄と最後の面会だという。桜吹雪の舞う衛門に入り、兄と共に練兵場に着くと、何十組という家族が軍服姿の人を囲んで宴を開いている。
私たちも、母手作りのおはぎや、おすしのお重を開いて、敷物を広げて並べた。しかし、それに手もつけない母の頬は、もう涙で濡れていた。普段どちらかというと饒舌な父が、ほとんど言葉を発しない。この広場全体が" シュン、とした静寂に満ちており、これから戦場に赴くという、勇ましさや気負いなど微塵も感ぜられなかった。
「では行きます。皆、元気で」それが兄の最後の言葉であった。兵舎に去って行く兄を見送っている父の肩が、その時微かに震えていたのを覚えている。
兄の部隊はサイパンへ行く予定で九州に待機していたが、出発直前、サイパンの玉砕で部隊は沖縄に転進した。やがて沖縄戦が始まり、二度と帰ってこなかった。
兄は身長180センチ、運動神経に優れ、剣道は二段、中学(旧制) では野球部の正捕手であった。兄と私は年齢が十歳近く離れており、兄はマスコットのように私を可愛がってくれた。どこへ行くのも一緒、私はいつも、兄の後にまつわりつくようについて行った。気は優しくて力持ち、私にとって自慢の兄であった。
中学を終えた兄は、醸造業の家業を継ぐため、京都にある同業者のところに住込みで修行に出された。その修行先から毎月、私に簡単な手紙を添えて、私の愛読書『少年倶楽部』を欠かさず送ってくれた。毎回、着いた小包をわくわくしながら開封して、最初のページをめくった時、香(、てくる真新しいインクの匂いを今でもはっきり記憶している。
兄は、20歳過ぎから10年間に3度も召集を受けている。ソ満国境、黒竜江を挟んでソ連のブラゴベシチェンスクと対時する黒河という極寒の地の警備に2年近くついていたこともあった。やっと除隊して2年もしないうちにまた召集、その除隊後、しばらくして再び召集といった具合であった。「職業軍人でもないのにどうしてなんだろう」と小声で父が眩いているのを聞いたことがある。結局、兄は結婚する機会もなく、29歳で生涯を終わってしまったのである。
沖縄で戦死した兄の遺骨の代わりに、小石と姓名を記した木片が骨壷の中で、カタコト鳴りながら帰ってきたのは昭和21年であった。
その頃、沖縄からの復員兵を乗せた引き揚げ船が、私の住んでいる横須賀の港に入り、復員兵が各自の郷里に帰還する手続きのため、仮の兵舎に数日間集結していた。
土地の遺族会代表であった父は、引き揚げ船が入る度に沖縄戦の留守家族を連れて、兵舎に足を運んだ。広い部屋で休息している復員兵の集団の中を、それぞれの夫や息子、兄弟の名前を大声で言って「どなたかご存じの方はいませんか」と見回って行く。すると復員兵の中から「はい」と手を挙げる人がいる。その人から肉親の最期の様子を聞かされ、その場に泣き崩れてしまう遺族の姿に、父の供をしていた私は何度貰い泣きしたことか、誠に辛い時間であった。そして、父と私は、その後何回も兵舎に通い、遂に兄を知ってるという人に出会うことができた。沖縄戦終結直後、その人は本島南端海岸の崖の上で負傷して動けず、物影に隠れていた。その時通りかかった2人の兵士が傷の手当をしてくれて、食料も分けてくれた。その内の一人の官姓名をその人は覚えており、まさしく、それは私の兄の名前であった。二人は船で脱出して戦い続けるといっていたという。が、その後の兄の消息は、杳として知れなかった。以来、何10年と父母は、兄の菩提を弔いつつ終生、心の隅で「もしかしたら、どこかで生きているのでは」と兄への優い夢を抱き続けて、この世を終わった。
兄の命日は、沖縄戦終結の日とされている。父母と共に眠る菩提寺の墓碑には、兄が戦場から家族に送った歌が刻まれている。
「故郷を遠く離れて仮寝する夢路に通うたらちねの声」
定刻に始まった会の冒頭に、先生から奥様が傘寿であるとのご紹介があり、一同ダブルのお祝いに大喜びをいたしました。
何しろ参加者の中で、先生の姿勢が一番良く、連れ添っておいで頂いた奥様も目を疑うほどの若々しさに、生徒達は感嘆してしまいました。先生はご挨拶の中で、毎日の散歩、お車運転、年間1万頁の読書やHDDによる映画鑑賞さらにCANON EOSを使っての写真撮影など、日々心身ともに健康維持を心がけておられていると同時に、奥様の献身的な支えもあってお互いに生かされているとも仰っておられました。
また、会に先駆けて先生から、これから自分に対する思い出の一端になるようにと、随筆16編を提供して頂いたので、これを参加者に配布いたしました。この随筆は平成10年から毎年、神奈川県立高等学校退職校長会の機関誌「有朋」に掲載されたもので、現在も投稿を続けられておられるとの事です。
この随筆を受け取った小泉純一郎さんは、お祝いの挨拶のなかで「脱原発という生涯の仕事を見つけた」と話された後、米国大統領の訪日で交通規制のために、会場には1時間しかいられない事もあり、「この随筆は帰宅してから読んでみる」と言って大事に抱えて退席しました。
会は先生に記念品、奥様に花束を差し上げ、先生のお言葉を頂き、小泉さんの挨拶の後、生徒達各人から先生の卒寿に対するお祝いと、それぞれに体の不具合と付き合いながらも元気に頑張っている近況が語られ、おいしい料理と美酒に酔いながら皆楽しいひと時を過ごしました。
会の終わりに、今秋10月25日(土)の12期同窓会(同期会)での再会を期し、さらに語りつくせない話の続きを二次会に託して散会しました。
また、会の開催後に、何らかの理由で参加できなかった人たちにもこの随筆をお送りしたところ、多くの人たちから喜び、また感動したとのお礼の返事を幹事宛にいただきました。
なお、ここに、先生から提供して頂いた随筆16編の内から「沖縄で戦死した兄を思う」を添付いたします。この随筆は平成22年、大阪の出版社新風書房が全国に新聞紙上で呼びかけしたものに応募して、「孫たちへの証言」という表題の本の中に採用されて書店に並びました。
沖縄で戦死した兄を思う小川省二 (昭和60年)
昭和19年4月、当時18歳の私は、父母に連れられて山梨県の甲府に向かっていた。甲府49聯隊にいる兄と最後の面会だという。桜吹雪の舞う衛門に入り、兄と共に練兵場に着くと、何十組という家族が軍服姿の人を囲んで宴を開いている。
私たちも、母手作りのおはぎや、おすしのお重を開いて、敷物を広げて並べた。しかし、それに手もつけない母の頬は、もう涙で濡れていた。普段どちらかというと饒舌な父が、ほとんど言葉を発しない。この広場全体が" シュン、とした静寂に満ちており、これから戦場に赴くという、勇ましさや気負いなど微塵も感ぜられなかった。
「では行きます。皆、元気で」それが兄の最後の言葉であった。兵舎に去って行く兄を見送っている父の肩が、その時微かに震えていたのを覚えている。
兄の部隊はサイパンへ行く予定で九州に待機していたが、出発直前、サイパンの玉砕で部隊は沖縄に転進した。やがて沖縄戦が始まり、二度と帰ってこなかった。
兄は身長180センチ、運動神経に優れ、剣道は二段、中学(旧制) では野球部の正捕手であった。兄と私は年齢が十歳近く離れており、兄はマスコットのように私を可愛がってくれた。どこへ行くのも一緒、私はいつも、兄の後にまつわりつくようについて行った。気は優しくて力持ち、私にとって自慢の兄であった。
中学を終えた兄は、醸造業の家業を継ぐため、京都にある同業者のところに住込みで修行に出された。その修行先から毎月、私に簡単な手紙を添えて、私の愛読書『少年倶楽部』を欠かさず送ってくれた。毎回、着いた小包をわくわくしながら開封して、最初のページをめくった時、香(、てくる真新しいインクの匂いを今でもはっきり記憶している。
兄は、20歳過ぎから10年間に3度も召集を受けている。ソ満国境、黒竜江を挟んでソ連のブラゴベシチェンスクと対時する黒河という極寒の地の警備に2年近くついていたこともあった。やっと除隊して2年もしないうちにまた召集、その除隊後、しばらくして再び召集といった具合であった。「職業軍人でもないのにどうしてなんだろう」と小声で父が眩いているのを聞いたことがある。結局、兄は結婚する機会もなく、29歳で生涯を終わってしまったのである。
沖縄で戦死した兄の遺骨の代わりに、小石と姓名を記した木片が骨壷の中で、カタコト鳴りながら帰ってきたのは昭和21年であった。
その頃、沖縄からの復員兵を乗せた引き揚げ船が、私の住んでいる横須賀の港に入り、復員兵が各自の郷里に帰還する手続きのため、仮の兵舎に数日間集結していた。
土地の遺族会代表であった父は、引き揚げ船が入る度に沖縄戦の留守家族を連れて、兵舎に足を運んだ。広い部屋で休息している復員兵の集団の中を、それぞれの夫や息子、兄弟の名前を大声で言って「どなたかご存じの方はいませんか」と見回って行く。すると復員兵の中から「はい」と手を挙げる人がいる。その人から肉親の最期の様子を聞かされ、その場に泣き崩れてしまう遺族の姿に、父の供をしていた私は何度貰い泣きしたことか、誠に辛い時間であった。そして、父と私は、その後何回も兵舎に通い、遂に兄を知ってるという人に出会うことができた。沖縄戦終結直後、その人は本島南端海岸の崖の上で負傷して動けず、物影に隠れていた。その時通りかかった2人の兵士が傷の手当をしてくれて、食料も分けてくれた。その内の一人の官姓名をその人は覚えており、まさしく、それは私の兄の名前であった。二人は船で脱出して戦い続けるといっていたという。が、その後の兄の消息は、杳として知れなかった。以来、何10年と父母は、兄の菩提を弔いつつ終生、心の隅で「もしかしたら、どこかで生きているのでは」と兄への優い夢を抱き続けて、この世を終わった。
兄の命日は、沖縄戦終結の日とされている。父母と共に眠る菩提寺の墓碑には、兄が戦場から家族に送った歌が刻まれている。
「故郷を遠く離れて仮寝する夢路に通うたらちねの声」
(文責:石川弘之、津田昭治 )