あの頃(昭和20年5、6月頃)当時小学生にも動員作業があり桑畑で作業をしていたところ、富士山を目指し上空隙間がないくらいB29の編隊が飛来してきた。また日中には寺の境内から横浜方面が見渡せ、空襲を受け地平線の広範囲に渉って灰白色の入道雲の立ち上がっているのが見えた。夜にはあちこちで空襲に襲われその空が赤色に染まった。一体日本はこれからどうなるのだろうかと子供ながら心配した。軍部は最後の一兵まで戦うのだと唱えていたのを小学生でも知っていた。幸い本土決戦は避けることが出来た。戦後、いろいろないきさつはあるが、世界の理想国家の魁となる平和憲法の国となった。平和憲法のお蔭で66年間日本人は戦争を避けて来れた。激動の3.11の年が暮れようとしていたが、十代に体験した太平洋戦争に共通するものが多々あり、つい思いを巡らせてしまった。 箱根の紅葉は最盛期を過ぎていたが、観るべきところも残っていた。 程なくバスはホテル河鹿荘に到着した。加藤(石黒)孝子さんが先に到着していて迎えてくれた。旅行幹事推奨のホテルだけあって、河鹿ホテルは一段上の風格を呈していた。早速皆風呂に入り夕食を迎えた。旅行幹事挨拶、6期同期会 大塚会長の挨拶 安達幹事による乾杯の音頭により宴は佳境に入った。大塚会長は「和の精神と絆を基本にして」今後の活動を運営して行くと語った。歌うのが好きな連中だ。夕食後、自ら全員カラオケの部屋に集合し、全員が元気に思い切り歌っていた。これだから皆健康なのだ。
酒豪が揃っていたが、皆自分の酒量をわきまえ元文医師の世話になる者は居なかった。
皆元気に再会することを期して、それぞれ帰路についた。幹事の安達君、遠藤さんご苦労様でした。
(小番亮三 記)

