修学旅行を横中・横高時代の2回シリーズで取り上げる。
学校日誌から初の修学旅行の記録をたどると、1911(明治44)年9月に実施とある。翌年には5年生(1期生)が伊勢、京都、伏見桃山御陵に参拝旅行を行なっている。1914(大正3)年からは隔年で、4・5年生が関西方面に参拝旅行というパターンが1922(大正11)年まで続く。特筆すべきは1928(昭和3)年で、この年、5年生は軍艦「長門」に鳥羽まで便乗、そこから伊勢、奈良、京都、琵琶湖、名古屋と周遊している。1930(昭和5)年は、大阪商船リオデジャネイロ丸で修学旅行との記録も残っている。文部省の指示により1940(昭和15)年が、旧制中学時代の最後の修学旅行となった。
◆横須賀駅から関西へ修学旅行(大正5年)
1916(大正5)年に実施され、「参拝記念」と箔押された横中時代の貴重な修学旅行のアルバムがある。
参拝旅程によると10月27日、午後0時21分発、翌28日午前4時9分京都着とある。到着当日に京都市内見学。29日伏見桃山御陵参拝・奈良見学。30日神宮参拝・二見浦見学。31日午前6時20分横須賀着となる。
◆二見浦海岸で休憩する横中生
生徒の服装は、学生服に白の脚絆、肩に背負い袋といった出で立ちで各地を整然と見学・参拝している。雨天の時は膝下までかかるマント型合羽を着用した写真も残る。
この修学旅行には衣笠写真館が同行し、「参拝記念」のアルバムを作成した。奥付に大正5年11月2日、東京湾要塞司令部検閲済とある。
◆軍艦「長門」に便乗し修学旅行(昭和3年5月)
何といっても横中17期生の心をときめかしたのは、軍艦「長門」での修学旅行であろう。
軍港を出るときは停泊中の各艦に敬礼し、東京湾を走りながら空砲を撃つ。その威厳と感激で生徒は声も出ない。この感激を「軍艦便乗所感」と題して8名の生徒が作文に綴っている。この時、逗子開成中学の生徒も乗艦したと聞く。
★感想や追加情報等がありましたら、ホームページ内「お問い合わせ」またはメール(office@kenyoko-hyk.jp)にて朋友オフィスまでご連絡ください。
学校日誌から初の修学旅行の記録をたどると、1911(明治44)年9月に実施とある。翌年には5年生(1期生)が伊勢、京都、伏見桃山御陵に参拝旅行を行なっている。1914(大正3)年からは隔年で、4・5年生が関西方面に参拝旅行というパターンが1922(大正11)年まで続く。特筆すべきは1928(昭和3)年で、この年、5年生は軍艦「長門」に鳥羽まで便乗、そこから伊勢、奈良、京都、琵琶湖、名古屋と周遊している。1930(昭和5)年は、大阪商船リオデジャネイロ丸で修学旅行との記録も残っている。文部省の指示により1940(昭和15)年が、旧制中学時代の最後の修学旅行となった。
◆横須賀駅から関西へ修学旅行(大正5年)
1916(大正5)年に実施され、「参拝記念」と箔押された横中時代の貴重な修学旅行のアルバムがある。
参拝旅程によると10月27日、午後0時21分発、翌28日午前4時9分京都着とある。到着当日に京都市内見学。29日伏見桃山御陵参拝・奈良見学。30日神宮参拝・二見浦見学。31日午前6時20分横須賀着となる。
◆二見浦海岸で休憩する横中生
生徒の服装は、学生服に白の脚絆、肩に背負い袋といった出で立ちで各地を整然と見学・参拝している。雨天の時は膝下までかかるマント型合羽を着用した写真も残る。
この修学旅行には衣笠写真館が同行し、「参拝記念」のアルバムを作成した。奥付に大正5年11月2日、東京湾要塞司令部検閲済とある。
◆軍艦「長門」に便乗し修学旅行(昭和3年5月)
何といっても横中17期生の心をときめかしたのは、軍艦「長門」での修学旅行であろう。
軍港を出るときは停泊中の各艦に敬礼し、東京湾を走りながら空砲を撃つ。その威厳と感激で生徒は声も出ない。この感激を「軍艦便乗所感」と題して8名の生徒が作文に綴っている。この時、逗子開成中学の生徒も乗艦したと聞く。
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